2100年の生活学 by JUN IWASAKI

Translate

2025.1.9

毎年、年初めに一年の全体感を掴みたい気持ちと、単純な娯楽として読んでいた石井ゆかりさんの年表が、今年はどうも楽しくない。ぼくには占いに翻弄されて学校に行きたくなかった高校時代の過去があり、それ以来あまり占いには期待しないようにしつつも、生まれ持った気質なのか、もしくは占いにでもしがみつきたいという日々を過ごしていたせいか、どうしても一度占いが気になると気がきでならない。我慢していたのか、もしくは日本の時間で過ごさなくなった時期があり、結果いつしか一年に一度だけこの占いを見るようになっていた。他の占いには興味が向かなくなった。
そんな年表だけれど、今年は読んでも書かれていることに自分を照らし合わせて納得することもなく、身に染みるようなこともなく、なるほどと感心できるようなこともなく、石井さんの描くユーモアと柔軟な文体すらも気軽な気持ちで楽しく読むことすらできないのである。一年に一度訪れる人生の一つの楽しみを失ったかかのようで、少し残念ではある。しかし、ぼくはなぜそう感じたのだろうか。自分の人生を展開させるには、自らの歩を自らで進めるしかないと思っているからだろうか。感受性が弱くなり、一年における時間の変化に鈍感になっているのだろうか。一つ言えることは、これまでぼくは心のどこかで誰かが何かをしてくれるのを待つような時間を過ごしていた感覚があったのだが、オランダに来てからは少しずつではあるが自ら何かを掴みに行くような時間の流れがあると感じている。ぼくは、色々やっていると言われるかもしれないが、それでも気合と度胸のなさからなのかやはり自分での決断を避けて生きていた。特に、201710月ごろからはそんな風に感じていた。ちょうど東京に住み始めた頃である。今、ぼくは一年の中でどの時期に何が起きるのかということすらも、無視して自分で歩を進めることだけに興味がある。自分で自分の時間を捉えるかのように年表を書いた。それが、毎年正月に行なっている1年後から1年間を振り返る日記だとなんとなく思った。
石井さんの年表には「魚座は、昨年末から新たな大きなフェーズに入った」と書かれていた。

2025.1.8

 朝、散歩していると、朝陽がぼくの家のあるコロンバスストラートにも久しぶりに差し込んできた。昔ここは共産主義国家だったのではないかと思わされるかのように均一に並んだブリック住宅の隙間に差し込む光は、「あなたたちはこれがなければ生きていけないんでしょう?」と言っているような傲慢な態度をみせ、質感を含みつつもあまり優しさを感じない鋭さを持った姿であった。それでもぼくはその上質でスノッブな態度を見せる光に「ありがとうございます、ぼくはこの光がないと生きていけません、それにしても今日もいつもにも増してお美しいですね」とヘコヘコしながら光を楽しむ。会社のつまらない上司とよくできた部下の会話風景のようである。やがて、夜のうちに冷え切っていた空気はその謙った人々の態度を憂いたかのように徐々に温度を取り戻し、その光に抗うように、人々を包み守るようになる。ついに空気は、光に対してものを言うようになり、その酸いも甘いもを知った態度と言葉少なめにも実体のある言葉に光もおののき始め、光が朝持っていたような鋭さは失われていく。そして、昼が訪れる。顔を上に向けると穏やかさを持った青い空が広がっている。鋭い光が差し込む朝の風景は、少々感情的すぎる気もする。
散歩をしていると、写真や絵画、映画が四角であることについてもう少し理解を深めるべきだと思った。自分にとっては大発見だった。家に帰り、四角形について調べていると、赤瀬川原平『四角形の歴史』という本を見つけたので、そのまますぐにkoboで購入し、読了。勢いよく買ったものだから中身もみずに買ってしまったが、10分で読み終わった。それは大人の絵本だった。これくらいのスピード感でインスタントに読み物が買えるのは便利であるが、本屋に足を運ばず本のサイズとか質感とかペラペラと内容を見ずに、タイトルとその時の勢いを持ってkoboで買うのは買うものの質が下がっているのだろうか、と思った。この本が面白くなかったわけではなく、残念だったわけでもなく、ただ拍子抜けしたことによってふと思っただけだ。年末年始のTVでのイチローさんと松井秀喜さんの対談で、申告敬遠はやめてほしいと言っていたが、それに近いだろうか。あの4球の間にバッターにも、打席を待つバッターにも、ピッチャーにも、そして観客にも、感情が大きく渦巻く。全く違う空気を作るだろう。ぼくがいつも思っていることによく似ていた。ぼくのkoboの本棚を見てみると、紙だと買わなかっただろう本も買っている気もした。海外に住んでいると、日本語の本を読みたいが読めないという時間が続いていた。今回は、koboを買ったが、読むことは増えたが、きちんと読んでいるのだろうか。ここでいう「きちんと読む」と言うことは文字をなぞることではなく、前後の物語までも含めた意味である。文章が読めればいいじゃないか、とも思うが、いい出会い別れ再会もぼくは好きだ。物事の「質」とは何か、誰が担保するのだろうか。本屋の価値とは何だろうか、印刷された本の質を担保するものだろうか、書かれる内容から個人個人が持つ社会的マナーや道徳の質を担保する存在だろう。
00年代にブログが広がり、書き手が自由に文章を発表できるようになった。読まれなくても書き続けるぼくのような人間もいる。読まれるものの質は下がったのだろうか、書き手の語彙力がなくなったのだろうか、表現力が失われただろうか、言葉が届けてくれる特有の景色をぼくたちは失っているのだろうか。ぼくは、その失われていく風景をここに乱文を書くことで加速させる存在ではないだろうか。それでも書きたいと思えば書くべきだし、書けないのであればそれはそれだ。読みたくなければ、それもそれだ。ぼくたちは自由な社会を生きていて、誰かが決めた基準に合わせて何かを発表する存在ではない。下手でも、その下手さに特有のリズムを感じることができればそれが一つの物事をはかる物差しになるのではないだろうか。新しい風景を生んでいるのではないだろうか。小説の文章と、エッセイの文章が違うように、ブログの文章と本に掲載される文章が違うのだとも言える。それぞれに、その方向で「質」を持っている。その上で、「質」とは何か、何をどの視点から見て質なのか。語彙力が足りないと思えばぼくは語彙力をつけるだろうし、表現力がないと思えば表現力を意識するだろう。自分の書き方で読者を増やしたければ何か他の方法を模索するだろう。読みたくないもので溢れれば今以上に読まれなくなるだろう。作品における語彙力や表現力の「質」は過去の作品が担保してくれているような気もする。
写真を撮ることも同様だ。絵を描く人も同様だ。発信する人が増えて人々の作るものの質が下がっているのだろうか。紙にプリントする写真とオンラインでのみ発表する写真と展覧会で観る写真と美術館で所蔵される写真が違うように、その中にそれぞれの質がある。
それぞれの方向性を受け入れたリベラルな社会を目指す上において、そもそも「質」とはなんだ。「質」に囚われすぎて「質」を失う、それだけは避けたいところである。

2025.1.7

メールの返事をしたり、2025年全体を見渡して計画表を作り始めるが、カレンダーをみると今年も時間の経過は早そうだった。
一人で仕事をしていると、目の前には繰り返されてるような日常があり、本当に時間は過ぎ去っているのだろうか、そして未来はやってくるのだろうかと思うことがある。ぼくたちは、未来を追うような、もしくは未来から追われる様な形で、無慈悲にも過ぎ去る時間を過ごしている。そして、時間の方も遠慮もなく過ぎ去っていく。時間は未来から過去に流れているというが、しっかりと理解できる。自分は、ここにいるだけで、未来からやってきたものが自分のいる場所を経由して過去の方向に流れていくのだ。自分が前に進むという実感はどこにあるか、計画したことが未来から過去に流れる中で自分がそこに居合わせるのではないか。
ここに訪れる読者のみんなは、ぼくが日々できるだけ自分のリズムを作ろうと思っていることを知っていると思うが、世界で起きる心が締め付けられるようなニュース、日常に起きた些細な揉め事に惑わされたり、時に自分の社会性のなさや怠惰からリズムを失っていることも知っている。そして、時にLA Dogersの大谷選手がホームラン王になったとか、Liverpool F.Cの遠藤選手が活躍したいうニュースに希望を抱いたりしながらも、本当は時間なんてものは存在せず、ただ自分が今この瞬間だけにしか存在しないのではないかと思ったりもする。
一番大事なのは、時間だとか人の活動やニュースにとらわれず、自らの人生を生きるという決意と足の踏ん張りを持って、自分自身の歩みを時間の基準に計りながら、ものごとを考えていく方がずっとはるかに真っ当で健全な人生なのではないかとも思う。時間が過去から未来へ進んでいるとか、未来から過去へ向かっているとか、はっきり言ってしまうとどちらでもいいのである。存在するのは、自分の歩みを基準にした時間のみで、自分の足跡を残すという姿勢と足の踏ん張りなのである。
今日、昨年一度も感じなかったような驚くような安心感を得た瞬間があり、自分の住んでいる家が美しいと思えた。自分の家をもっともっと愛でる年にしたいと思った。

2025.1.6

朝、聖子ちゃんが昨日から仕込んでいたガレット・デ・ロワを焼いている。リビングルームからちゃっぴと聖子ちゃんが話している声を耳にしぼくは目覚めた。久しぶりに幼少期に戻ったかのような包まれるような気持ちになっているとステラがベッドに飛び込んできた。最近、呼ばれたらベッドルームに入って良いということを知ったようで、自分もベッドに身体を沈ませることで、子供が大人の真似をしている時のような満足気な表情を見せている。起き抜けにパジャマのままphotoshopで王冠の平面データを作り印刷し、紙の白い王冠を作る。コーヒーを淹れ、ちゃっぴがテーブルの下に潜り、ケーキの行き先を決めた。ぼくが1番、2番目が聖子ちゃん、3番目がステラ、4番目がちゃっぴ。フェーブは聖子ちゃんに当たる。ここにこうやって書くと時間の流れを手に取るように豊かさを感じるような、ある人の旅立ちの前とは思えないような出来事ではあるが、実のところある人の旅立ちの日の忙しい朝だからこそできたような出来事だった。きっと、ちゃっぴがいなくても、ガレット・デ・ロワを作っていただろう。しかし、photoshopで王冠の平面データを作りプリントしていただろうか、テーブルの下に潜っていただろうか、朝からここまできっちりと作っていなかったかもしれない。そう考えると、虚勢ではないが、見栄っ張りな聖子ちゃんとぼくにとっては、人との時間を共有するというのは、行動の質の担保であると思った。ちゃっぴをDen Haag Central駅まで見送る。荷物くらい持つべきだっただろうか。ふらっとついていき、アムステルダム行きのバス停へ。この土地の空港や駅などで頻繁に見られるお見送りの光景のようにハグをするでもなく、またの再会を具体的に願うこともなく、また会えるんだろうということをなんとなくお互いに理解し、「ほんまありがとう、じゃあ」とちゃっぴは言い、ぼくは「気をつけて、ありがとう」とだけ。大学生の頃を思い出すような時間が終わりを迎えた。
今日からみんな仕事復帰しているのか、どんどんと連絡が始まり、久しぶりにパソコンのメールなど事務作業で忙しい時間を過ごす。Loreから電話があり新年の挨拶を交わし、今年の展望を聞いた。

2025.1.5

貧しい土地にいると人間は自分で作るということを始める、何かが足りないのであれば作ればいいし、全てのものは誰かによって作られている。好きなレストランがなく、気分よく通えるパン屋が近くにないと、自分で料理をし、パンを焼くようになる。質の担保とは、どこにあるのだろうか。まあ、これくらいか、という感覚に人間が慣れていくと、そのまあいいかがいつしか「普通」になり、その少し前にまあいいかと言われていたような「普通」と比べたまあいいかがまた次の「普通」を作る。その普通は、まあいいかのまあいいか、なのである。人間は記憶することができる、意思を持つことができる、他を思いやることができる、許すことができる。そして同時に自らにとても弱い、そして慣れる、忘れる、それが人間だ。忘れたり慣れないと大変な時代を乗り越えてこれなかっただろうし、今の自分も代々のたくさんの慣れと忘却の蓄積によって生を授かり、生きている。辛いことも大変なことも忘れることができるから、進化できるのだろうし、世界の平和も保たれることがある。しかし、忘れることや許されることを前提として社会を前進させることが正義だろうか、記憶することや人間の弱さを前提とした社会を作るべきではないだろうか。まあいいか、の連鎖を誰が止めるのか、世界は拡大し、人口も増加した、お金も増えたかもしれない。しかし、質の担保は誰がどこで行なっているのだろうか、それは個人個人ではないか。人々の日常へのクリティシズムによって質が担保されているのではないだろうか。

2025.1.4

デュッセルドルフの美術館N20でYOKO ONO展鑑賞。改めて、古典だろうが、近代作品であろうが、その時代の社会の認識や価値観、時代背景を踏まえて鑑賞することでしか理解しえない側面が作品にはあり、自分の知見のなさを思い知る。
「制作すること」、「ポジティブに捉える」ことこそがやはり今年の目標である。一人でいることを「孤独」と捉えるのではなく「自由」と捉えること。多作であることを念頭に置いた制作方法。バスでデン・ハーグに帰宅。帰りのバスで寝ようと思っていたが、時間を惜しむかのように結局また話し続けていた。ぼくが何を持ってこの土地をドイツとするかと考えていると、ちゃっぴは「この土地で起きる全ての現象、全ての物事を含めて、それもドイツである」という話をしていた。ぼくは、ドイツに行ったら、ソーセージやシュニッツェル、ライ麦のパンを食べたい。ちゃっぴはトルコ移民が多いのであればトルコの料理にもドイツが存在するので、トルコ移民が多いエリアに滞在しているのであればトルコ料理を食べることもドイツの文化を知ることだと言っていた。ぼくの理解と言語能力が低いことで彼の考えを書き出すことで読者に勘違いを生んでいなければと思う。彼の話には異論はないが、ぼく自身がそれをドイツという自分にとって未知の場所で旅行中にトルコ料理を嗜好するかどうかはまた別の話だと思った。
少し話は違うが、20分先にある、小麦が届ける暖かな太陽の光さえも感じるほどの香ばしさとバターの芳醇な光沢のある香りが溢れたオーガニックのパン屋に行くことよりも、目の前のチェーン店の存在が必要だろうか。ぼくは、20分先の小麦とバターの香りが溢れたオーガニックのパン屋へわざわざ足を運ぶことを好むが、これは本当に自分の好みの問題だろうか。決して、20分先の小麦とバターの香りが溢れたオーガニックのパン屋に行くことだけが正義だとは思わないが、小麦とバターの香りが溢れたオーガニックのパン屋に何の問題があるのだろうか。ここで20分と記載するように、時間の問題なのだろうか、それともそれを楽しみと捉えない人間の価値観の問題だろうか、往復40分も歩きたくないという人間の怠惰だろうか、もしくはお金の余裕だろうか、社会の成長だろうか。40分かけて買い物に行かなくても3分でパンが買えることが成長だろうか。3分でもパンを食べられるという選択肢ができたことが社会の成長だろうか。自分を豊かな香りと音とで包み込むことや豊かな味わいへの執着のなさだろうか。そもそも、知らないのだろうか。情緒を持ったパン屋がなくなるのは、結局は人間のせいだ。

2025.1.3

デュッセルドルフからケルンへ。12時半過ぎの電車に乗る予定が、電車が遅れに遅れ14時ごろ出発。ここのところあまり電車が遅れたという経験をしていなかったので、電車が遅れるということをすっかりと忘れていた。現代社会において青空が広がる午後に電車が40分も遅れるというのはどんな理由からなのだろうか。路線網が発達しているので、各所で起きた些細な問題が蓄積すると40分の遅延になるのだろうか。文句もないが、仕方ないし、何もできないので駅中のBeck’sというビアホールで一服しながら時間を潰す。ケルンに到着し、駅前に観光客への配慮なくドカンと現れるケルン大聖堂を目の前にし、崇高の美を堪能。崇高といえば、大学の同級生だった前田くんを思い出す。前田くんは、崇高の美についての論文を書いていた。大聖堂の中を鑑賞してから塔に登ろうとするも流れ作業をする受付係がつっけんどんで、最近ヨーロッパを旅行していてもあまり感じてこなかった悲しい感情が生まれた。バルセロナも、マドリッドも、ロンドンも、アントワープやブリュッセルでも、ましてやイギリスの郊外も嫌な印象を受けなかったのだけれど、昨日ドイツに来てから自分の行動や発言を嫌がられることが多いと思った。どの街でも電車も遅れなかったが、今日は40分も遅れた。人口でいうと、ケルンはドイツで第4の都市、デュッセルドルフは第7の都市であるが、そのつっけんどんっぷりは都市生活者ではないという事実が生んでいるのだろうかとも思った。また、日々ストレスを抱えている日本人ともよく似ていると思った。たった数人との関わりではあるが、非協力的な印象を受けた。江戸っ子がずいぶん優しく感じる。
物事を経験するということは、鍛錬を重ねて何かがうまくなることではなく、対峙した時にどんな風に考えられるか、どんな風に行動できるかである。結果うまく行ったか行っていないかは重要ではなく、どんな風に考えられるか、どんな風な対応ができるかを育むのである。旅慣れしてようが旅にトラブルはつきまとう。そのトラブルに対峙した時に何を考え、どう行動できるか。今日、大聖堂でトイレに行きたくなって我慢ができなくなり1ユーロを払って公共トイレに行った。その前のレストランで、トイレに行っておくべきだった。どれだけ旅をしようとも入ったレストランでトイレに行きたくなくてもトイレに行っておくということを学んでいたとしても、それでも、トイレには行きたくなってしまうのだ。しかし、経験とはそのトイレに行きたくなった時にどんな風に行動を起こすか、なのである。お金を払ってトイレに行ったのは大正解だった。そうだ、こうやって過去の経験が自分の人生の助けになるのである。