2100年の生活学 by JUN IWASAKI

Translate

2023.10.7

11時過ぎに自転車で春日大社へむかう。11時45時から鹿の角切りの予定が、第一部には朝10時から長い列ができていたようで、第一部には入れず。11時半から発売の二回目のチケット購入の列に並ぶ。人と動物が共存することについて考えさせられるイベントだなと思った。高揚感と、責任と優しさの中にある人間らしい美しさと、動物の優美な姿、自然の中にから生まれる美しい形、目も当てられないほどの光景、そんなものが30分の中に詰め込まれており、久しぶりに良いものを見たなと思った。見世物としての美しさと儚さ人間の知性と醜さを強く感じるが、同時に見世物であるが故に文化継承され、伝承されているという側面も持っている。勝手に鹿舎で角を切ればいいという声があるが、こうやって人に見られること、人に見せる機会があると、人間は鹿や人がただ単にそこに生存しているのではなく、歴史や意味を知るきっかけを持つ事ができるし、鹿の意味を態度として行為として継承すること、言語ではなく態度や行為で継承することはとても力強い。先日、みりあむで大きな声で話してたある元ジャーナリストが「人間が言語を作ったのは嘘をつくためだ」、「動物は本来言葉なしにも行動や態度でコミュニケーションを取れる、ゴリラを見ていたらわかる」と言っていた。言葉を使って生きてきたジャーナリストがそんなことを言っていたのが、面白いなと思った。ステラとエルも会話をしているなと思うこともある。この前ドッグランに行った時も、怖がりのエルが崖を登ったが、てっぺんまで行ったところで降り方がわからず困って鳴き出した。ぼくたちも上まで登って行けるような崖ではなく、困ったなと思っていると、ステラがぼくの横にきた。「エルちゃんを助けてきて、降り方教えてあげて」と話しかけてみたところ、嘘のような話であるがダダダと崖を登りエルのそばに行き、こちらをむいて何か合図をしてきた。「Yes, Good Girl!」などいっていると、驚くことに2匹で一緒に降りてきたのである。その光景に、ステラの優しさにものすごく感動してしまった。動物は言語で生きていない。心を通わす事ができるのである。ランチに、みりあむでカレーとガトーショコラを食べて、家に帰る。聖子ちゃんは憩い治療院へ。家に帰るとステラが暴れ回った痕跡があり、奈良にきてステラの感情にムラが出てきている。あんなに感じあっていたはずのぼくらなのに、あまり良い傾向ではない。シリーズA song from the laundry room の#3 と#4の入稿期限が近づいているので、進める。夜は、長谷川和彦監督『太陽を盗んだ男』を鑑賞。沢田研二がカッコいい以上に、長谷川監督の思考や人柄がでた映画だなと思う。沢田研二がどんどんと長谷川監督に見えてくる。
ジャーナリストの言葉を借りるなら、ぼくのこのブログも嘘をつくための道具なのかもしれない。

2023.10.6

母と聖子ちゃんと室生近くのドッグランへ。犬が自由に動き周り、飼い主は食事ができて、お茶ができて、ケーキを食べる事ができる。中学生の頃に同級生たちと行ったひらパーのプールで遊んでいた時の感覚を思い出した。泳いで、日を浴びながら、ご飯を食べたり、日向ぼっこをしたり、で、またプールで遊ぶ。ドッグランで遊び、食事をしてコーヒーを飲んでケーキを食べて、またドッグランへ。結局2-3時間過ごしたのだろうか。ドッグカフェがぼくはかなり苦手なので、あまり犬のスペースで食事をしたくないのだが、今日はあまり違和感を覚えずに過ごせた。日をずっと浴びていたせいか、もしくはステラとエルについて走り回っていたからか、家に帰ると二人とも爆睡してしまい気付けば窓の外は真っ暗で時計の針は、6をすぎていた。起きた瞬間、「あ、寝過ぎた」と思うと同時に、実家で寝過ぎて起きたらもう外は暗くなっていて夕飯のいい香りがしているというような、いつの記憶かはわからないけれど、幸せの代名詞とでもいうような、いや幸せの代名詞ではないので、真の優しさと不安を感じない空気に包まれたような感覚があった。寝起きで血圧が上がらずふわっとしながらもものすごく幸せを感じる瞬間だった。そのまま眠気を引きずりつつ、ステラの散歩がてら近くのスーパーへ行き、お好み焼きの食材を買う。「実家で昼寝をして起きたら暗くなっていて夕飯ができている」ということに幸せを感じる感覚はぼく一人のものなのだろうか、もしくはほとんど多くの人たちが同じように感じる幸せな感覚なのだろうか。もし、ぼくが大人になって人生の価値が変わりだしたとして、その感覚はぼくの中に幸せな感覚として残り続けるのだろうか。

2023.10.5

聖子ちゃんの母の誕生日なので、今日は奈良で一人で過ごす。朝からゆっくりとステラと散歩。家に帰ると、満足しているのかステラも穏やかにしている。昼は、高畑まで自転車で行き、みりあむでカレーを食べる。今日は、みりあむさんの娘が働いており、お店に入るとなんだかバタバタしている空気があり、耳をすましていると、娘がお客さんに水をこぼしてしまったという事だった。で、どんなふうに対処するべきだったかについて常連さんと熱心に話していた。領収書を書いたので、そこから会社の住所を調べて、手紙や菓子折りを送るべきかとか、コーヒーの代金をもらわないべきか、など。ぼく自身水をこぼされた程度ではなんとも思わないし、どの程度のあれだったかはわからないのでなんとも言えない。ぼくと入れ替わるように出て行ったスーツを着た4人組がきっと彼らだったのだろう。みりあむさんとの関係性も何も見えないので、何もいうべきではないかもしれない。が、仮に多分自分がこぼしてしまった立場だとしたら、水をこぼしたのであればさらっとクッキーなどを出す、もしコーヒーをこぼしたのなら、新しいコーヒーを用意して、コーヒー代を頂かずにクリーニング代を渡すと思う。自分が何をするかなと考えていても、どの程度だったのかと、お客さんの態度によるところも大きい。菓子折を包むのか、と感心しながら、同時に自分との感覚の違いに驚いたが、もしこぼしたのが水だったとしたら小さい問題に感じてしまった。聞いているぼくからすると小さく和やかな議論にも感じたが、当の本人たちからするととても大きな問題である。ぼくは、その時にこれを小さい問題だと思っているようでは、自分自身の感覚を疑わなくてはいけないとふと思った。ぼくの疑われるべき感覚では、大企業のクレームでも怒鳴りつけられたわけでも、人が救急車で運ばれたわけでもないと思ったが、それは悲しいことにぼくがこれまで6年間を自分の規模とはかけ離れた空間の中で時間を過ごしてきたからなのだ。
例えば、毎週一度100足のスニーカーを販売する人がいるとする。それは人気なので、毎回すぐに完売する。ある週、そのうち1足に問題があり、購入後にお渡しができなかった。購入者からすると欲しくてやっと買えた念願のスニーカーだが、販売している側からすると、1/100のスニーカーなのである。「謝れば済む、買ってもらってから気づいたのは申し訳ないが、ないものは仕方ない」と思っている。毎週100足を販売しているので、どうも1足に対する意識が麻痺してしまう。1足は、買った本人からすると大きな1足であるが、売っている側からすると1/100足で、週間で言うと1/400足である。そうなってくると小さな問題に感じてしまうこともあるだろう。ぼくが言いたいのは、これが販売している側の意識の低さだけが問題となっているのではなく、この構造を作り続けている社会の問題だということである。問題が起きた時には、買う側の気持ちを昂らせ続ける企業にも問題があり、買う側にもそれを神格化してしまっているという意思の弱さもある。販売している人間にも、企業の歯車になり、自分自身も被害者であり、当事者であり、それ以前に一人の人間であるので自分にも起きることだということを忘れるべきではないだろう。問題は見た目の規模の大きさではその深さを判断できず、かなり深いものに繋がることもある。大ごとに見えても、笑って過ごせることもある。本人が大事にしていることを、他人が小さいという権利はなく、他人が大事にしていることを小さい問題だと思っている時点でぼくは人間として疑われざるを得ないのである。ぼく自身もある種の社会の被害者であるということを今日この話に聞き耳を立てながら、考えていた。ぼく自身の作品も小さいことを大事にしているにもかかわらず、他人の小さいながらも大事にしている問題を小さい神経質に気にするべきではない問題と捉えてしまっている自分がいる。
その後、近くの方からデリバリーが入ったようで、娘がカレーを運ぼうとして、持ち上げた時に冗談を含ませるように「もう一度こぼすかもしれへん」と言った。それに対してみりあむさんが「面白くない冗談はやめましょう」とはっきりとぐさりと一言。
娘がデリバリーでいない間に、ぼそっと「実は私もお腹が大きい頃に、奈良ホテルで1日に2度も食事をこぼされた事がある」と言っていた。常連さんは「その時お腹に入っていたのは、あの娘?」
「そう」とみりあむさん。
良いお店とは、こういうお店である。物語がある。

2023.10.4

奈良に来てから、ステラが散歩中にものすごく引っ張るようになったので、トレーニングをしている。今日は、100年会館を10周くらい一緒に歩く練習をした。ずっとぐるぐると周り、立ち止まり、折り返す、真っ直ぐに歩く、また引き返す、そんなことを1時間ほどずっと続ける。聖子ちゃんとコーヒーを飲む。大宮飯店に行き、ランチセットを食べる。客がひっきりなしに来る、肉体労働者が多い。ぼくはメニューを決めるのにものすごく時間がかかるのだが、今日このお店に来ていた人たちは店員がオーダーを聞きに来てからメニューに目を通し、食べるものをパッと決めていて、カッコいいなと思った。同時に、自分自身の躊躇する姿を思い出し、情けない気持ちになってしまい、注文をした直後に大きな声で「やっぱ天津飯からは逃げられないっすわ」と、話す彼らの姿をみることが出来なくなってしまった。聖子ちゃんとも話せなくなってしまった。ぼくは、彼らのように、来たものをきちんと打ち返すことができ、そしてそれがショートゴロ(あまり美味しくない)だったか、ホームラン(ものすごく美味しい)だったかにこだわりを持ちつつも、その結果に執着しすぎることもなく、時間の流れに身を任せているような姿、それに憧れているんだなと思った。彼らは1打席ずつを大切にしすぎていない。次の打席が来ることを知っている。ぼくの場合は、一度投げられたボールを見逃しし、その後、もう一度投げなおしてくださいと依頼したものの、打席に入る前にまだバットを見つめ、握り方を変え、ヘルメットを触り、自分のリズムで打席に入りバットを振る。相手の投手の球筋や癖を探る。しかし、時に自分のリズムではなく、投手や主審から勝手にプレッシャーを感じて、準備ができていないままに打席に入ることも少なくない。時に、3球三振だってありえるし、ツースリーまで粘って結局ポテポテのピッチャーゴロということもある。ぼくの結果も彼らと同様にフライだったりホームランだったりするが、それ以上に前の打者が同じ投手からヒット打てたのに、ぼくはフライだったとか、そんな比較することが出来ないことについて比較しているのである。もし、仮にぼくがホームランが打てたとしても、それがなぜ打てたのかをずっと考え、同じことが次の打席でできるのかをずっと考え、まだ見ぬ8人先にしか回ってくることのない打席での振る舞いや結果について不安に駆られて杞憂しているのである。明日が聖子ちゃんのお母さんの誕生日なので、聖子ちゃんが京都に帰った。Palmesの写真とテキストの締め切りが18時だったので、編集をし送る。夜は、ナスをグリルで焼き、ペーストにしてパスタと和えて食べる。お風呂に入りながら、なんとなくラジオを聞いているとABCのミューパラにくるりの岸田繁さんがゲストで出ていた。彼はラジオの中で、音楽の趣味が人と全然違うと言っていて、その例えに「長打を打てるバッターもいいけれど、チームプレーで打たなきゃいけないところでポテポテのいいサードゴロを打てるバッターみたいなのが好き」と言っていて、まさにそれ!とぼくは今日の大宮飯店を思い出したのである。ちょっと話を無理やりつなげているが、要は、ぼくの大宮飯店の話と岸田さんのこの話の共通点は、状況を把握しようと心がけ、目の前にあるものとこれから起きるだろうことを考察し、その中で自分の欲求ではないその場や社会にとっての最適解を行おうとする心意気なのである。ぼくはなかなか結果が出ていないだけだ。心の持ち方は非常に似ているような気がする。でも、ぼくはこの文章の最初の方で、労働者(長打を打てるバッター)の軽快な姿に憧れていると書いたけれどな。長打を打てるからと言ってチームプレーをしていないとは言ってないけれど。

2023.10.3

520分に起床、10分で準備をして撮影に出る。自転車を漕いで高畑まで向かう、途中で帰ろうかと思うほどに寒い。これほど寒いのであればフーディが必要である。散歩している人の中には手袋やマフラーを巻いている人もいた。もうすでに街は明るくなってきていて、ぼくが見たかったような風景を見つけることはできなかったが、朝らしい光の柔らかさと、新鮮で粒の細かい空気が風景を包んでいた。9時過ぎに市役所へ行こうとするもステラといろいろしていたり、自転車の修理をしていると昼になった。ひろしの店で自転車を修理。ひがしむき商店街にあるインドカレーのお店印食店へ行くも定休日で、ならまちのグリルTALOでハンバーグを食べる。実家までサイクリング、途中市役所へ。中秋の名月を過ぎたころから一気に季節が秋に変わった。空気の色も違うし、朝夕の空気がかなり冷たい。帰りもとてもきれいな曇り空の中に淡い夕陽を見てなぜかフィジー での日々を思い出していた。ぼくは、またいつかフィジーに住みたいと思っている。あの時、終えることができなかったことの続きをしなければいけない。もちいどの商店街の中にある珈琲店 音楽と珈琲で、一服。レイモンド・チャンドラーとか村上春樹の小説に出てくるような雰囲気のお店で、空気のあるお店で心がスッキリする。ただ、些細なことでまた聖子ちゃんとまた口喧嘩になる。些細なことで口喧嘩になることを細かく突き詰めていくと自分の行動に自信がなくなっていく、自分自身の行動に疑心暗鬼になってしまい、自分の無意識が怖くなる。無意識のうちに他人に刃をむけていることもあるし、突き刺してしまっていることもある。無意識に対して意識的でありたいと思うが、同時に無意識に対して意識的であったとしても、無意識に対して意識が向きすぎて、意識しているにもかかわらず折りが合わないということがさらに怖いことでもある。例えば、聖子ちゃんとはこれまで長い時間を一緒に過ごしてきた。親以上に長い時間と感覚を共有しているにもかかわらず、ここのところ「これがこうだ、と思っているよね」ということが違ってきているようにも思う。それが決して悪いということではないし、長く生きていると感覚のズレというものは生じるし、立場や年齢とか経験によってまたさらに大きく変化する時もある。だから「これがこうだ、と思っているよね」と信頼していたことが違っていることに悲観的にならない方が良い。しかし、それを悲観的にならずに他人と聖子ちゃんをどういう風に違う人間として、聖子ちゃんが自分にとってスペシャルワンだという風に思うことができるのだろうか。彼女への、家族だけが持つことができる無償の愛と、ぼくの執着とだけが彼女をスペシャルワンにすることができるんじゃないか。いや、そして、それ以上に何より感情的にならず丁寧にガチガチになった紐を力を入れながらも冷静に紐解く行為を彼女に対してしたいかどうか、そして違いや違っていくことを受け止めその変化さえも楽しめるかどうか、そんな風に丁寧に接するということは尊敬できるかということ。他に何が違っても、むしろ何もかもが違っても、それでも彼女がスペシャルワンである理由について。サイクリングと口喧嘩もあり、家に帰って力が抜けてしまい、畳の部屋で仰向きになってそのまま倒れるように寝てしまっていた。

2023.10.2

郵便局へ行き、フォートウエノへフィルムを発送。24時間でデータ化してくれるというので、心強い。奈良だとフジカラーがあるが、3日かかる。白黒のブローニーだと7日かかるという。確かにそれだと仕事にはならない。フォートウエノのように郵送でも柔軟に対応してくれるとかなり助かる。その後、憩い治療院へ。 按摩の黒田先生。目が見えないからかとても丁寧に身体を触って歪みを確認してくれる。歪みについて的確なのはもちろんだが、それ以上に、感心して信頼したくなる出来事があった。最初から痛かったら教えてくださいねと何度も言われていて、ある程度の痛みであれば我慢するか、効いていると思い込んでしまうことができる。頭蓋骨の骨の歪みを調整してもらった後に、背中を押されていて、つい痛みで「はあ」っと大きな声が出てしまった、それに対しては何も言わずにそのままの強さで押し続ける黒田先生。しかし、腰に移動し、痛みに身体の力が入った時には「痛いですか」と声をかけてくれる。何も言葉は発していない。ぼくは、その瞬間、黒田先生を信頼できるような気がした。信頼とは、大袈裟ではない些細な気配りで手に入れることができるし、その相手をよく観察しているとわかってくるのかもしれない。先生が必要だと思って強く押していることと、単純に押しすぎている時とのさじ加減も理性を持つぼくにはわからないが、この配慮を受けると先生の力加減はぼくの理性や感情から放つ言葉ではなく、ぼくの身体自身が自然と先生と会話してくれているように思う。その後、市役所へ行き、手続きをすます。月曜日なので、かなり混んでいる。夕方は、ステラの散歩を兼ねて、ならまちのさえずりでコーヒー。16時過ぎに行ったこともあってかお客さんがおらず、とても静かに過ごす。奈良は夕陽の差し込み方が美しい街だなと思う。さえずりにもとても美しい夕日が差し込んでいた。

2023.10.1

朝からパン屋Pancへ聖子ちゃんとステラと散歩。パンオショコラとカンパーニュを買う。14時ごろから撮影に自転車で奈良を徘徊。夕方、まほろばキッチンで野菜を買う。その後、ステラの散歩。途中大雨に打たれる。餅飯殿の商店街にくると、小学生に戻ったような気分になる。決して小学生の頃によく来ていたわけでもない。夜は、些細なことで聖子ちゃんと言い合いになるが、今回はぼくが悪いなと寝る前に思った。もちろん、言い方とか、議論にならないような返答をすることとか、付随して他のことでイライラすることは多いが、今回のきっかけになったことに関してはぼくに非がある。口論になったら理論なんて存在しないなと思った。熱が入った人に対して丁寧に説明なんて難しいのである。これは争いの中では型が通用しないということである。戦いの場になった時に教育が全く価値を持たないものになるが、戦いの場に至るまで、もしくは戦いの場を作らないためには教育が必要なのである。戦いに持っていかないのは教育でもある。ぼくは戦いの場に持っていかないことにとても興味を持っている。どこまでも耐えて、細かく繊細に考え、丁寧に紐解きながら、戦いに進まないことに憧れがあり、興味を持っている。もっともっと純粋に美しいもの、刺激的なもの、良いと心が踊ることだけを二人で共有していないと二人の関係は破綻してしまうのだ。人間関係というのはそんなことで保たれていることもある。それは時に辛かったりもするが、主観的に辛いことが客観的に見た時に世の中のためであったり、関係を維持するためであったり、長く見た時に自分のためであることはとても多い。