2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.6.28

自分しか知らない罪の意識は表情にも風貌にも行動にも現れる。
自分の生活のために飼っていた犬をなくなく見捨てて、自分の生活の向上を選んだ友人を知っている。それは、ぼくには到底理解できない行為だった。彼女のことはとても好きだったが、それ以来彼女の自分を世界の中心に据えて世界を形作る思考にうんざりすることもある。そのほかにも臭いものに蓋をしたり、なかったものとしたりしながら生きている人も知っている。それはメンタリティの話ではない。臭いものを臭いものとして、その臭ささえをも神が与えた自分の人生への試練だと真正面から受け止め苦難を乗り越えようとする友人も知っている。全てを受け入れてなすがままにするのが正しいのか、もしくは自分の意思で色々なものを簡単に捨てたりしながら自分の意思を貫くのが正しいのか、ほかにも無限の選択肢があるが、どれが正しいのか正直わからないが、ぼくは臭いものも大変な苦難も全てを諦めることなくなすがままを自分なりに正面から対峙し受け入れることで、そこに希望の光が差し込むことを信じながら自分なりに乗り越える解決策を模索するような道を選びたいと思う。他人からすると自分から入り込んだ真っ暗なトンネルだとか思われるかもしれない。そこにはそのトンネルを捨てて違う道をいく方法もあった、と言われるだろう。それでもぼくはそのトンネルが目の前にあるのであれば、それがぼくの人生に降りかかってきたのであればそれを受け入れ、出口があることを信じ、自分の力で苦難を受け入れていきたいと思っている。とにかく何が言いたいかというと、自分がうまくいくだけの人生をヨーロッパの人は選択しすぎではないかと思えてならないし、ぼくはそこに未来があるとは到底思えないのだ。簡単に排除することを覚えるべきではないのではないか。排除することを覚えると、明日にはあなた自身も排除されるだろう。ぼくは全ての人の受け皿になれるような人間ではない、しかし自分が選択した困難や思いがけず降りかかる受難を自分の世界に現れた異物だとは思わず、それをも自分の人生の中で耐え抜くべき試練として受け入れたい。世界のことはわからないが、飄々した姿で勇敢な精神を持ってぼくは自分自身のことをよく知りたいと思う。

2026.6.27

 人と同じようなことをしている人や人が撮ったものを同じようにそのまま撮っている人のおすすめを信頼できない。その人のおすすめは風情に欠け、ユーモアの抱える負の部分を無意識にそしてはっきりと排除している。
そうしたい人はそうすればいいし、それを評価する人も必要とする人もいることも理解するし、その人たちを否定もしない。ただ、ぼくはそんな彼らを信頼はしないだろうし、もし信頼している人がそのようなものを作り始めたりしたらその人に疑いの目をむけ軽蔑してしまうかもしれない。あなたが本当に持っていたはずの自由で無邪気で勇敢な心を手放してしまったのかと、軽蔑してしまうかもしれない。

2026.6.26

暑いので、とにかく部屋の掃除をして、視界から煩わしさを感じることがないようにゴミを捨て、ものを整理する。停滞していた読書を一気に進める。宮本輝『流転の海 第二部』、田尻芳樹『日常という謎を生きる』読了。長い昼の白昼夢のような心地よいまどろみの中で、本を読んでいたらJayから「これからビーチに行くけど、一緒にどうか?」と電話があった。電話番号を登録していなかったので、誰かわからなかったが、ぼくの低いテンションを察知したのか、寝てたのか?と言われた。穏やかな午後のほとんどを本の前で過ごしたぼくは、その誘いに二つ返事することに躊躇して、「メッセージするよ」とだけ返事をして電話を切った。夕飯に蒸し鶏を作っていたので食べて、20時ごろ熱の残った家から逃げ出すように海へ向かう。JayとJarisはビーチに座っていた。海にダイブして、自らの身体を自然に浮かせる。昼のリビングルームにあった白昼夢のような心地よいまどろみとは違うが、決してきれいとは言い難い海の中で浮かぶのにも浮遊感とあの時間の数時間後にここに自分の身体があることに、この海のある田舎町に住む喜びを感じた。
しがないビーチクラブにテレビがあったので、「フットボールを見たいのだが」と尋ね、チェンネルを回してもらいフランスvsノルウェーを観戦。ハーランドだけではなく10人の総入れ替えを行ったノルウェー代表とほとんど初戦から同じメンバーで戦うフランス代表。そういう姿を見ると、どれだけ優秀な選手がいようとも、メンタリティーが違えば全く違う戦術がそこに存在する。その10人のメンバーの入れ替えを見て、ぼくは決断に対して大胆であり、自分の人生に対して貪欲でありたいと思った。ハーフタイムに水際に行き沈みゆく夕日を眺め、再び後半を観戦した。

2026.6.25

14時37分に家を出るのだと思っていたら、実際のところは14時37分発のトラムに乗ることになっていたことに気づかず、家から歩いて1分のトラムストップまで猛ダッシュをする。家の角を曲がるとトラムが見えたので、猛ダッシュで車道を横切り、トラムストップの柵を勢いそのままに飛び越えた。その姿を近くに住むVerenaに目撃されたので恥ずかしながらも手を振ると笑っていた。そして、閉まってしまったトラムの扉の開閉ボタンを押すも反応せず、連打するも扉は開かなかった。すると、「Hey Man!」とすぐ近くから声をかけられた。隣の車両の扉で若者が開閉口に立って扉を開けてくれていた。そして彼はぼくが乗り込んだのを確認して、トラムを降りた。まだまだこのシステムでがんじがらめになった世界にも抜け穴が存在するようで、ぼくは見えない的に対して勝ち誇った気分になった。
アムステルダムで、Francescaと会う。Weinlokal Sternでディナー。ぼくたちはパリで知り合った。彼女は、ぼくが2014年にRose Bakeryで一緒に働いていたDustinの彼女だった。今はもうDustinと一緒ではない、そして、もうパリを離れ、生まれ故郷であるマルタに住んでいる。10年ぶりに会ったが、言葉なくとも彼女が纏うオーラーからわかる才女っぷりは変わらず、少し大人になった風貌に、時間の経過と時代の変化を感じたが、それは彼女のこの10年を簡単に物語るようだった。気鋭キュレーターだった彼女は、会わない10年の間に再び大学院へ行き、弁護士になっていた。ぼくはこの10年で何をしただろうか。彼女は人生の、、と書きかけたが、どうもうまく言語化できそうもない。彼女の持つ涙が出るほどの面白い話も、彼女の会話中の表情や言葉の端々から感じる彼女の聡明さも、ユーモアも、恥ずかしいことが起き続ける人生に生きていることも、よく寝られたコントのようなことが立て続けに降りかかる人生をOh noと言いながら笑って過ごすような彼女のことを、恥ずかしながらもぼくの力のなさのせいで、言葉にすることができない。ここにはっきりと存在する曖昧なものをどれだけ掴もうとしても、掴むことができない。それはゆっくりと丁寧に紡ぐことが出来るかもしれない、しかしそのゆっくりと紡ぐだけの集中力と呼吸の深さを今ぼくは持ち合わせないない。頭にあることや心や身体で感じていることをどう言語として形にすること、日々鍛錬がないとそこにある抽象的なものを形にできない。そして、それを推敲するには集中する力がいる。今は久しぶりに感じる暑さのせいか、W杯の見過ぎによる疲労か、日々の怠惰のせいか、自制心のなさか、小さな一つ一つの判断のなさか、不安に揺れる心の状態のせいか、もちろんそれら全てのせいで、自分が感じていることも、自分の脳内にある抽象的なものを、心が感じている曖昧なものを具体的に描くことができないでいる。しかし、だからと言ってここに記すことや作品を作ることを諦めていると、その思考や身体を取り巻く抽象的なものは過ぎ去る時間の中に取り残され、自分が考えていたことも、自分の周りにあったものも、そして自分自身がこの世の中に生きていた証さえをも残すことができない。ぼくは、恐れている。日常の中で物事に対峙した時に生まれる思考だけが人間という動物が行うことが出来る最高の行為であるはずなのに、その思考を積み上げていくことをしないのは、ぼくは存在しないのと同義であるのではないか。

2026.6.24

みんなでドリンクをして、夜22時すぎに海へ行く。JayMeesStenSophieMaxJoyKasyaFee20代前半の彼ら彼女らは沈み切った夕日が残した光を背景に誰か一人がとぼけてみんなで笑っていた。その笑い声を聞いていると、それらはとんでもなく素朴な笑いのように感じた。何度も何度も同じことをして笑う子供のようだった。この海のある田舎町にも、ギョーム・ブラックやエリック・ロメールの映画と同じように風情があり、大したことでないが、そこにはっきりとした若者の夏の輪郭があった。その光景眺めながら、これをぼくは二度と見ることはないのではないかと思った。もちろん、同じ光景を二度と見ることはない、そんなことは誰にだってわかっている。実際的な光景だけではなく、そこに今日集まった未来への不安定さを抱えた大学生や若者たちが、同じメンバーが同じように揃うことはおそらく二度とないだろう。そして、決して彼らのように若くない自分を憂うわけではなく、自分にも昔あったこの夏の青さがまだこの世の中に残っているということに嬉しくなり、自分と彼ら彼女らの間にはっきりとした距離を感じながら、それでも自分自身がその一部にあることに、その距離感で今まで見ることがなかった物語を見る視点を得たようで嬉しくなった。ぼくの持つ視点は、ある種、さっき名前を出したギョーム・ブラックやエリック・ロメールの中に出てくる中年男性のようだった。なぜぼくがそこにいたのか、同世代の友人がそこにいなかったのかを考えると、ぼくも彼ら彼女らと同じように未来への不安定さを抱えているからそこにいれたのかもしれない。未来への不安定さの上にしか成り立たない、未来への不安定さを抱えないと見ることができないようなある種の趣や風情が明らかに今日そこには存在したのだ。

2026.6.23

暑さにはずいぶん慣れているはずだが、それでもこの街は、いやヨーロッパ全体は、暑さを想定して作られた街ではないと感じる。パリでは40度を記録したそうだ。もう地球温暖化は本当にここにはっきりと示されている。しかし、その気温のせいでさらに扇風機やクーラーは売れ、また環境を壊すというサイクルが進む。Catch 22のジレンマである。
空調設備の話ではなく、木々が街に揺らぎの光を与えたり、覆い隠すわけではなく、ただただ燦々と降り注ぐ太陽を浴びている。森に行けば、そこにはまだ恥ずかしそうな涼しい空気が残っていた。ステラもその涼しさを喜んでいた。
夜、イングランドvsガーナを鑑賞。イングランド代表の試合を見ていると、はっきり言って申し訳ないが、憂鬱な気分になるし、ふと自分は何をしているだろうかと思った。2時間弱を費やした自分を虚しい気持ちにさせる。これも試合に勝つにはつまらないサッカーをする方が勝率が上がるというジレンマだろうか。


2026.6.22

 森で老夫婦とフランス人の青年が話しながら歩いていた。10mおきに止まりながら、また歩みを進める。車で北欧を何度も旅をしているとのことだった。スウェーデンは3日で通り過ぎてしまうけれど、ノルウェーは、In Norway, every corners are different とのことだった。最近、ハーランドのことを聖子ちゃんとよく話しているので行ったことのないノルウェーに想いを馳せた。ある出来事がきっかけになり想いを馳せることがよくあった。ぼくの思考は、おそらくどんな人間でもそうだが、何かふとしたことをきっかけに思いもよらないようなところまで飛んでいくことがある。年金生活だから時間はたくさんあると言っていたが、一つの人間の生きるモデルコースとしては美しいが、ぼくたちの世代を含むこれからを生きる若者にとって、そのモデルは成立するのだろうか。
年金生活の老人にも時間があるが、青年にも時間があると思った。そして、その光景を眺めているぼくにもまた時間は同じようにある気もした。時間がたくさんあるのかお金が問題なくあるのか、どちらだろうかと思った。そんなことを考えてしまうぼくはお金に困っているのだろう。
夜は、夏らしい気温に誘われて、夏らしい映画が観たくなり、Eric RohmerL'Ami de mon amie (友達の恋人)』を鑑賞。何度見たかはわからないが、それでもぼくはEric Rohmerという、日常に点在する語るほどではない普通の会話、何気ない仕草、取るに足らない出会いというもの賛美するような作品を制作をした作家がいたことにとても敬意を持っている。