熊本で震度7の大きな地震があったそうだ。知人や取引先は問題なさそうであるが、被害を受けた方々の無事と避難されている方々の安心できる日々がすぐに戻ってくることを願いたい。8月にマドリードに行こうと思っているのだが、気付けば航空券が値上がりしており、買うタイミングを失っていることに気付く。せっかくヨーロッパの移動しやすい街にいるのに、どこにも行かないというのは、自分がこの海のある田舎町に住んでいることを虚しくさせる。夕方、さきこさんと聖子ちゃんとビーチへ。沈む前の陽をたっぷりと浴びながらhitoでディナー。夕日が海に沈んだ後の空のグラデーションとその前で踊ったり歩いたり音楽をかけたり思い思いにすごす人たちに見惚れていると、振り返ると大きな満月があった。自分がこの海のある田舎町で、自分の人生の中で大切にするものが何かという価値基準のようなものはぼくの中で確実に尖り始めているようにも思えた。
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2026.7.27
母の大学の同級生であるさきこさんがロンドンから海のある田舎町に到着。今日からここに数日滞在される。友達の子供の家に泊まるというのはどのような気分なのだろうか。ぼくはまだその経験がないが、もうあと10年、15年ほど経てばそんな経験もできるようになるのだろう。その息子の父や母を思い出したりするのだろうか、もしくはあの頃自分自身が持っていた感覚とか感情のようなものが香り豊かに蘇るのだろうか。時々、大学生の頃のことを思い出すことがある。もうすでにそれは15年も前のことなのだから、もし目の前にその時一緒に時間を共にした彼ら彼女らをどこか彷彿とさせるような顔をした人間が目の前にいればそれを思い出さずにはいられないかもしれない。ぼくはきっと鑑賞に浸ってしまうだろう。
夕飯はカポナータと玄米、鱈にセモリナ粉をつけてパンフライ。
2026.7.26
今日は、一日中写真の現像をしていた。一喜一憂している場合ではないのだが、それでも自分の撮ったものがうまく仕上がらない際には、心に小さくないダメージがあり、心を沈ませる。
自分自身が他者から離れた場所にいたり、コミュニティのようなものから外れたり、家族というもののない生活をしていると、自分自身の言葉によって自分を作っているように感じる。それは、自分が自分を武装するかのように言葉を紡ぎ、自分自身が誰であるか、何を考えているか、どんな人かを自分の言葉によって形作っているようなものだろう。しかし、自分が自分の言葉で作り上げた自分を破壊するのが他者の存在で、その他者なしでは本当の自分というのは存在しない。他者の暴力にも似たような侵入によって、自分が固まっていくのを壊してくれるので、それが自分自身の言葉と思考で自分自身を縛ってしまうことを遮る。
自分自身が他者から離れた場所にいたり、コミュニティのようなものから外れたり、家族というもののない生活をしていると、自分自身の言葉によって自分を作っているように感じる。それは、自分が自分を武装するかのように言葉を紡ぎ、自分自身が誰であるか、何を考えているか、どんな人かを自分の言葉によって形作っているようなものだろう。しかし、自分が自分の言葉で作り上げた自分を破壊するのが他者の存在で、その他者なしでは本当の自分というのは存在しない。他者の暴力にも似たような侵入によって、自分が固まっていくのを壊してくれるので、それが自分自身の言葉と思考で自分自身を縛ってしまうことを遮る。
2026.7.25
Jayたちに誘われPaardに踊りに行こうとドリンクしていて、途中で気がもたず、断念。ぼくは自分の喜び以上に隣にいる人が喜びを感じることをしたいと思いながら生きてきたが、別にぼく自身がその隣にいる人のためを思って諦めた分の悲しみなんてものはその人には伝わることもなく、別にその隣の人はぼくがしたことに対して喜びなんてものは感じないのではないだろうか。他人の行い全てに同じ熱量で感謝するということは他人である以上難しいことだし、人の行いを可視化することなんて不可能である。何をしていた途中で何かを切り替えて自分のために行ってくれたなんてことを理解するのは不可能である。例えば、カフェで働いていたとしよう。スタッフが一人病欠になってみんなが少し頑張らないといけないとする。それでもお客さんはコーヒーを見ただけでは何もわかりっこないのである。態度を変えるなんてことはするべきではない。しかし、だ。こういう時の感情は自分自身が悲しくなるだけで他に何も消化しようがない。他に何に怒ればいいというのだろうか。ただただ自分が色々な意味で見窄らしく、ただただ虚しい。そして、自分が本当に悲しい気持ちを持って揺れ動くだけで、別に隣人はぼくのことなんて全く気にしないのである。挙げ句の果てにはそんなことして欲しいなどとは言っていないと言われる始末である。そして感謝を要求しているわけでもない自分もいる。自分の人生の在り方に疑問を覚えるが、もうこの人生の歩み方をしてきたので仕方ないと心に決めてはいるものの、それでも感情というものがぼくの中にある限りは、悲しみや虚しさは消えないだろう。その時に自分はどんな風に感情を消費したらいいのかが本当にわからない。こういう時、ぼくは本当に真っ暗な部屋の中にいるような気分になる。
2026.7.24
Pompernikkelに行く。朝からNTSで誰かが選んだのであろうヒップホップがかかっていて、どうも情けなくなったし、怒りが込み上げてきた。ぼくは、朝の心地よさを楽しみにしていたし、一日の始まりを力強く始めるために足を運んだにも関わらず、ヒップホップだった、それでノリノリの店員がそこにいる。もちろん、同時にぼくが自分の家の外にある外部環境を自分の枠の中に収めるということはできないのが日常であり、突然車が突っ込んでくることや彼女が病院に運ばれることとか、電車が止まることとか、友人に偶然あってそのまま思っても見なかったところに行くとか、そういうことお喜んで受け入れるべきなので、朝からヒップホップ、ヒップホップでノリノリでパンを売る店員さえをも受け入れるのが日常を生きるということに等しいとも思うが、何より今日の問題点はそこにはない。意識なくNTSをかけることは、ぼくは選択の放棄だと思っているし、それはA24の映画を好むのと同じような価値観だと思う。それが今日の論点だ。NTSしかりA24しかりは、彼らがこれまでやってきたこと、もちろんぼく自身が彼らの作ってきたものを大いに楽しんできたこともあり残念な感情もありながら、否定的な意見をここに書くならば、すでに彼らがある種の正解のようなものを社会に対して提示してしまっていることが社会にとっては悪であると思うのである。それはマガジンハウスやビームスなどをぼくがある種の文化の弊害と呼んでいたようなもの近付いてきたような気もする。彼らの活動を否定するのではなく、それらがある種の権威的な存在になってしまっていることがぼくはあまり良くないと思うのだ。彼らが自身で好んでその立場に行ったかというとそうではないだろう、社会や観客がそれを望んだわけでもないにも関わらず、気付けば個々人が彼らを無意識のうちにその立ち位置に追いやってしまったとも言える。この問題は、ぼく一人で抱えられるものではない。
そこに流れる音楽はいつからかお客様のものではなく働く人間のためとなってしまったのだろうか。そんなことを気にしないお店の在り方や働く人々が増えたようにも思う。働いている人の楽しい姿は、きっと味や体験を変えるだろうが、それでも働く人が中心の据えられたお店というのはぼくはなんとも好まない。ぼくたちはある時代から食べることやお店に行くことは「そのお店を支えること」という態度を取りすぎているような気もする。街を支える個人店の存在をぼくはとても嬉しく思うし支持するが、しかし、その結果、それを取り間違えたかのような横柄で傲慢なお店が増えているように感じるのも事実である。お店を構えるとは、その土地に住む人々の場所を借りているという側面もあるのではないだろうか。朝から似合わないヒップホップを聴きながらクロワッサンを食べてそんな風に考えていた。
2026.7.23
人をもののように撮影するコマーシャルフォトグラファの写真を見ると吐き気がする。人を人として扱わずにしながらも、人を被写体にしながらそれをお金儲けをしているという自己中心的な思考。人が人として扱われるべき時代が到来しているはずではないか。自分が自分として扱われた経験があればなお一層、それが自分の力になるということを知らないかのようである。ほんの些細なことではあるが、それは意外とその人もしくはぼくにとって一日の活力になるし、それが喫茶店の常連さんが挨拶されるだけで気が良いというのともとても似ているような気がする。何度か話したはずなのに次行ったら覚えていなかったのか挨拶もされなかったら、ちょっと嫌になってその喫茶店から足が遠のくようなことだって簡単に起きる。そんな日々の積み重ねや一人一人の些細な気力みたいなものが意外と大きな社会の中で壁のような大きくてびくともしないようなものに争う力となるのではないかと思う。
ぼくは、人をあまり撮らない理由の一つに、写真の被写体に人が多すぎて日々人間が人を目にしすぎて他のものに目が向かなくなっているのではないか、ということに疑問を持っていたということがある。しかし、最近の気付きは人を人として見ることをしないコマーシャルフォトグラファが増えるのであれば、ぼくは彼らにきちんと正面から対抗するように人を人として撮影することを目指したいとも思う。だからと言って、人を撮る機会にもそれほど恵まれるわけではない。
2026.7.22
用事があり、ステラのドッグシッターをpawshakeというアプリで予約していた。当日の朝にキャンセルされ、返金されたものの、用事に大幅に遅刻することになり、さらに新しいシッターを探すのに予定より多めの金額を払うことになった。文句を言っても、全額返金対応以外に出来ないと言われた。アプリ上で起きた金銭のみ解決をするということに関しては理解できるしお金を多く求める事もしても仕方ないが、ぼくの予定は狂った。それを誰一人としてカバーすることができないということに全く理解できない。クレームというものが効果を持たない時代がやってきていることは日々の生活の中で強く感じるが、そんな誰にも伝わらないような当事者一人が抱えるもしくは受け入れることになる悲しみにも似た怒りは、どこにも放出されることはなく当事者自身の忍耐力とか免疫力とかによって解消される。ここではそれをずっとうだうだということは何にもならないという態度しか存在せず、同時に社会構造は「人間なんだからうだうだいうなよ」といっているようで、大きな企業ーもしくはシステムーが当事者ー弱者もしくは人間ーの寛容さによって成り立っているように見える。弱者は常に柔軟性だけを頼りに生きており、その柔軟な態度に大企業は乗っかっている。世の中が回るためのクッションとして弱者が存在している。それは不思議な構造ではないか、ぼくは弱者が弱くとも生きられるために社会やシステムが存在するべきだと思っているのだが、きっと多くの人間はそうは思っていないのだろう。昨日いただいたケーキの残りを食べた。やめていたグルテンを食べたので勢いがついて、夜はホワイトビーンズを煮込んでスパゲッティを食べた。スパゲッティなんて2ヶ月ぶりくらいだろうか。
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