吉田くんと安齋さんが今日から家に泊まりに来ている。
家でディナーをしながら、日本とヨーロッパのブックデザイナーと本を作る仕事をしているという話を聞いた。8000円程度で販売しようとしていたが、ヨーロッパのデザイナーは€40、日本のデザイナーは4000円台で販売したい、と各々から意見が出た。日本では、4500円程度でしか販売するのが難しいのではないかという日本のアートディレクター意見にぼくは顔を顰めた。今まさに自分の本の値段を決めているからだ。その話の流れで、オランダでミーティングをした他の雑誌を作っているディレクターやデザイナーとの話の中でも共通していたのが、学生が買える値段にしたいということだと教えてもらった。
最初の書籍の価格設定の話も、後者の学生に届けたいという話も、雑誌であることをのぞいては、どこのポイントをとってもどうも腑におちず、怒りのような感情さえも湧き起こり寝れなくなってしまった。もちろん、どんな本ができるのかも知らなければ、どれだけの人がどんな風に携わっていて、何冊刷るのかさえ知らない。しかし、本当に人間は「価格」でものを買っているのだろうか、ぼくたちは熱狂と興奮、欲望でお金を使っているのではないだろうか。作り手は、そこに写されたものや書かれたものの持っている熱狂と興奮を湧き上がらせる存在になるべきではないだろうか。人々は、ものに魂を奪われるべきではないだろうか。そんなことが頭をぐるぐると巡った。少なくともぼくはお金に魂を売ったような人間にはなりたくない。ものの価値は価格によって左右されるべき存在だろうか。価値は価値として時代の流行などに左右されつつも、独立した存在にさせてあげるべきではないだろうか。しかし、価値は誰が判断するのか、これは話がこんがらがるので、ひとまず今日は書かない。
ものが買われていくのは、販売者がどれだけの熱意で販売したいかによって左右するし、買い手がどのくらい欲しいかでも左右する。デザインだけして在庫に責任もなく販売もしないうちは、本当の熱狂なんてものがわからないままに値段を社会のイメージだけで決定し、それらが世の中にあたかも以前からあったかのような顔をして浮流していく、そんな姿はぼくはみたくない。ぼくは、もっとダイナミズムを持った社会のあり方に興味がある。自分が熱狂させられるだけの熱量とファンを持っていたら、価格なんてものは売れるかどうかだけでは決定されない。
Cairo Apartmentは自らでデザインをし、多くはないコピーを販売しようとする出版社としている理由の背景には、今日の話でいうところの「価格」というものには熱量や感情で超えられるものが確実に存在し、自身で作ったものを自身で販売する、もしくは信頼できる熱のある書店やディストリビューターの助けによって販売することで本やアーティストが持っている純白な魂のような、強く燃える炎のようなものを絶やさずにむしろデザインやアートディレクションという薪をくべる行為によって届けたいと思っているからだ。
個人的には、昔からみんなが買っていなかったものが好きだった(それは時に高価だった)。それに、ぼくは気軽に買えるものよりも、もしそれが大量に存在するものだろうが1点ものだろうが、初任給で買ったマッキントッシュのコートとか、両親への旅行チケットとか、親の財布から盗んだお金で買ったどうしても欲しかった1冊の本、みたいな、どうにもこうにもならないほど喉から手が出るほど欲しくて、その個人にとってこの購入経験やもの自体が人生の柱になるような物語のあるそんなものを作りたい。給食代を盗んでまで欲しいと思わしてくれる熱狂と興奮を持ったものはいまでも作られ続けているだろうか。
とか書いていると、ぼくたちの下の階に住むSandraの息子Killyanが陽気なハンドクラップをしながらポップソングを大熱唱していて、こんなことを考えている自分がアホらしくなった。