Jacques Becker監督『穴』鑑賞。とても良い映画で余韻からなかなか抜け出すことができない。そう感じるのは、不思議だと自負しているが、最後まで信じるべきは、自分の精神と身体だなと思った。自分の今の状況と非常に似ている。
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2026.1.30
メモを読み直しているとこんな言葉があった。
「どれほど技術的にうまい演奏であっても、そこに物語がなければ、血肉がなければ、音楽は人の心を打たない」
誰のものか、何の引用か、誰から聞いたのか、どこで見つけたのかもわからないが、この言葉はきっとぼくのか弱くも消えることのない活動を支えてきたのだと思ったら、その弱々しい火が少し明るく灯った気がした。
2026.1.29
昨日くらいからまた喉の痛みから発症し、空咳が出る。鼻詰まりはひどい。今月は散々であるし、血液検査の結果もビタミンD不足だというし、人生で始めてサプリメントを摂取しているが、薬ではないので目に見えるような即効的な効果はまだ見えない。曇り空の下に生きるのであれば、ビタミンDを摂取して、派手な色合いの服を着て、人間を堕落させるような家具を揃えなければならない。そうでなければ、体調を崩すだけなのだ。
2026.1.27
今中が帰った。トラム乗り場まで見送りに行ったが、別れの寂しさと反比例するかのような弱めのハグをして別れた。日本で育った人間にとって後発的に作り上げられたハグという文化は、いまだに笑いやノリ、特別感、違和感の対象であり、それはいつまでもぼくの心の中にも彼らの心の中にも存在するのだろう。じゃあぼくが誰か日本で育った友人とハグをしないのかというとそうでもなく、その中でも今中とは割とハグをしてきたのかもしれないと思った。曖昧な違和感と特別感、ノリを含んだハグ、それはとても現代らしいなと思う。
2026.1.26
夕方、家の近くのパブで一服。ぼくは外に出ていたのだが、今中と聖子ちゃんは黙々と家で仕事をしていたようで、ぼくがパブに呼び出さなかったら二人は家を出なかったかもしれないと言っていた。すでにこの海のある田舎町はそんな空気を今中にも覆い被せ始めていている。懐かしい話で爆笑できるような友人がいるのはとても美しいと思うし、なんだかんだ定期的に顔を合わせているだけで、小さな変化に対応しながら違和感なく、人間同士の関係を続けることができる。人間というのは些細なことで大きく変化したり、些細な変化で「あれ、こんな人だったか」と感じて疎遠になっていったりする。別に友人だし、同じ人間だから嫌なことを言われてもいいかなと思うけれど、疎遠になるのは悲しい。自らが実際的に離れていっているとは言っても。
2026.1.25
朝ごはん食べて、お茶して、昼過ぎまでのんびり家で過ごす。この2年ほどで多くの友人がこの海のある田舎町に遊びにきてくれたがあまりどこにも行かず家の中でのんびりしているだけなので、時々友人の有限な時間とここに来るまでに頑張ってきた時間やお金のことを考えると心配になるが、それはその過ごし方を満喫しているのであって、別に20代の頃のようにあれこれとお店を訪れたりする必要に駆られていないのかもしれない。多くのものをインターネットや本を通じて目にしている現代において、どこかに行って確認作業のようにチェックを入れに行くくらいならば、遠くにいる友人の家のダイニングテーブルを囲んで何千年前から当たり前にそこに存在する太陽の日差しを浴びたり、16世紀に描かれたのと同じように広がる曇り空を眺めたり、会話をしたりしていることの方がよっぽど肌で思考することに繋がるのだろうか。もしくはただの年齢のせいだろうか。Kunstmuseum Den Haagに行き、ビーチ沿いにあるhitoで夕陽を浴びながら過ごす。マーケットでムール貝を買って帰る。今中は仕事が溜まっているというので、なんとなく気が気ではないという感じだった。人にとって、自然と身体に蓄積されるものは仕事の一部だろうか。ぼくは強くそう思っているし、生活とは仕事である。
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