2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.7.17

金曜日。友人のStenが仕事をクビになったという。厳密にいうと、契約更新がなされなかったのだそうだ。仕事ができないのは、もちろん個人の問題であるが、同時に学生が働くような環境においては、仕事の魅力ーそれは時に楽しさと呼ばれ、時に学びなどと呼ばれるようなものーを与えてこなかったマネージメントの問題とも言えるだろうし、その人を教育するようなことをしなかったことも問題である。以前、Comme des Garçonsで働いている時に、何も教えようとしない男性上司にさらに彼の上司が、「色々と教えてあげないと誰もついてこないよ」と言っていた。それに対して男性上司は「会社は学校じゃないんだから教えてやる必要なんてない」と言っていた。その時は、「教える必要なんてものはない、背中を見て育て」というようなことだとぼくは理解したのだが、それらの考え方は仕事の環境に依存しているような気がした。学生には教えてあげる必要があるし、Comme des Garconsのようなここでしか働きたくないと思っているような人が集まる場所であれば、背中を見て育つだろう。
ぼくは、仕事を辞めるというのは理解できるが、働きたいと言ってやってきた人を一度雇ってクビにするというのがあまり理解できない。色々と言いたいこともあるし、個人的な問題すぎてなかなか言葉にするのが難しく、もどかしいのだが、多くの場合、人間が作り上げたはずの構造やシステムに弱者は搾取される。弱者の弱さを憂う時、村上春樹の卵と壁の話をいつも思い出す。たとえ、それが綺麗事だとしても、ロマンチックさを求める行為だとしても、それでも卵側に立ちたい。


2026.7.16

木曜日。また追加支払いを知らせる青い封筒が届いた。何か間違えているのではないかと思うほどの請求金額があり、異議を申し立てようもAIBotとの無力な戦いがあり、メールしても返事が来ない。返事が来たとしても、親身になるわけでもなボーディングクラスで教えられたように定型文の返答があり、イレギュラーを受け入れるということはない。社会は破綻しているのではないか、そんな社会の中で真面目に自分の存在や生の意味や、人生の中で得られるものを自分はきちんと受け取ることが出来るのかを真摯に実践することは可能なのだろうか。そもそもそんな疑問が生まれる社会や環境というのは不健康だとぼくは思う。

2026.7.15

 水曜日。ずっと裾上げをしないといけないと思い棚に入れっぱなしにしていたパンツの裾上げに行く。日本だとどこでもできるような気もするが、この海のある田舎町では、探さないといけないし、言い値であり、また、1週間を待たされる。別に1週間かかるのであれば、受け入れて1週間待つが、日本で1時間で仕上がるものがなぜこの国では1週間かかるのだろうか。一度得たものを捨てて新しい価値観を受け入れるというのはなかなか苦労するものだと、もう3年目になったこの国での暮らしを憂いている。3年の空白のような時間を30代の後半に過ごしているわけだが、本当に自分にとって意味のあることなのだろうか。価値がないことをしていることの価値や、意味のなさの魅力、正しくない弱者の意見の立場に立つ、失敗という大きな後ろ盾、みたいなものを少し脇に置いたとして、20歳くらいから無形物を求めるように、自分の中で形になり始めた有形のものを破壊するような感覚で生きてきたはずだったが、今、暗闇の中の濁流に飲まれたかのような感覚で右も左もましてやそこに出口があるのかすらわからないようなーしかしその中ではっきりと感じているのは確実に死に向かっているという全ての人間の持つ儚さー生活をしているが、家も子供もなく、少しの心の余裕を与えるほどのお金もなく、袋小路のような生活の中で、過ぎ去る日々を誤魔化すように生きてはいないだろうか。無形に憧れながらも、何かを掴むことを目指し掴んだ有形のものを捨てる行為と、有形のものを最初から諦め、曖昧な無形を信じるのでは姿勢が全く違うのだ。ぼくは、前者であったがいつしか後者のような都合の良い自己解釈によって自分の人生を固めてはないだろうか。
5つのスーパーに立ち寄り、そのうちの1つのアジアンスーパーで豚しゃぶ用のお肉を買い、そのうちの一つのターキッシュスーパーで捌きたてのチキン胸肉とレバーとハートを買い、そのうちの一つのオーガニックスーパーでグラスフェドビーフのステーキを買った。ただ買い物の中毒と言えるような買い物をして無駄に時間を過ごしているような気もするが、自分が望むものを、あのお店のあれが美味しいというものを買う姿勢は昔から全く変わっていないし、いつもこうやって時間を無駄にしているのだが、ぼくにとってはこれをしない人間はショートカットしているのではないかとも思う。それがある海のある田舎町ではアジアンスーパーで、ターキッシュスーパーで、オーガニックスーパーであっても、違う街でジャム屋でジャムを、チーズ屋でチーズ、また違う街で豆腐屋で豆腐を珈琲屋でコーヒー豆を買うのと何が違うのだろうか。ぼくにとっては「その場所の自分の好きなあれ」を求めることが自分が集積した無形のものの角を研ぎ鋭くする行為でもある気がしてきた。とにかく丸くならないこと、それが無形であっても。
祇園祭が前衛と歴史を兼ね備えた美しい街で行われている一方、祇園祭のない街では戦争が行われ、また違う祇園祭はないが海のある田舎町では苦悩が堂々巡りをしている。

2026.7.14

TilburgにあるDe Pont Museumへ。Steve McQeenの展覧会『ATLAS』。帰り、駅前ので電車までの時間を潰しながらああだこうだと話して帰宅。帰宅してスペインvsフランスを観戦。この大会でまざまざと見せつけられていた超人的な個人の選手が問題を解決するというのではなく、フットボールは個人競技ではないぞ、フットボールは超人的個人を不要とする意思と特徴のある個人の集まった団体競技だと、フットボールの勝利を見たような気がして興奮してしまった。個人が締め出され、問題すら起きずに、匿名的になってしまった場合に、匿名の個人が何か強く力を発揮するのがとても難しいという問題を見せられたような気がした。匿名になるべきではないということでもあり、超人的な個というものを求めすぎる社会への反骨心をみた。そんな風に勝手な物語を読み解くと、寝れずに結局明け方30時ごろ(4)まで起きていた。決してそれだけが起きていた理由ではないのだが。

2026.7.13

 日本代表の敗戦から2週間ほど経ち、全くニュースなどをみていなかったが、「大会中はエゴを消せ」という話があったという記事を見た。エゴを消せは、ナショナリズムではないか?日本人である前に個人でありたいし、根がなくなった海外生活者にとって、日本とはないしは日本人としての自分とはを考え意識するがゆえに、日本であることや日本人であることを自分の特徴のように捉え過ぎているのではないかと思てならない。ぼく自身も、時に日本人であることを意識しすぎるがゆえに、日本の話をしすぎている気がするし、ある種言動や行動に「日本人なんだからこうするべきだろう」というステレオタイプみたいなものが、他者の目にある偏見ではなく、自分が自分の行動を制限するという点において降りかかっているようにも思う。日本人あるが日本人である以前に個人であるべきだろう。
日本代表の「大会中はエゴを消せ」の本当の意図を深くは知らないが、ナショナルチームのために戦う上で日本人の良さは献身性であったり団結力である、というようなことを言わなくとも自分の中に存在するものとして、個人がありたいと思う。生きるということにおいてまばたきすることを語らないのと同じように、だ。

2026.7.12

聖子ちゃんが大衆の前で色々な男性と乱れているのをそれから目を塞ぐという夢で目が覚めた。そんなことが実際に起きるとは考えにくいし、本人もそれを望まないだろうが、夢としてぼくの中に訪れたのは事実である。現実や見たくないものから目を塞ぐなということを示唆しているのだろうか。ぼくは、大体において悩んでいることを解決しようとしているのか、堂々巡りをしてうだうだと考えているだけなのか、ただ勇気がなくてそこに深く取りかかろうとしないのか、とにかくいろんな感情の中で生きすぎていて自分でも自分の正しい姿が雲隠れし始めているように思えてならない。

2026.7.11

Margurette DurasSIX FILMS』読了。
天気がいいので、5つある窓を全開にして太陽の光を部屋に取り込んでいるとふと何かを思い出すような感覚が訪れた。ほんの少しの気の利いた家具しかない空っぽの部屋でひたすらに本を読み、ランニングをする、少量の質の良い食事をする。ぼくはそんな生活に憧れている。それができるような精神力と金銭的な充足を持ちたいというような話を聖子ちゃんにしていると、「それがみんなが憧れてる生活って今まで気付いてなかったの?それがしたいけどみんな仕事してるんだよ」と。20時半からランニングののち、イングランドvsノルウェー。このフットボールをすると勝つべきはイングランドだと思わされるような戦いぶりだった。