VOICE by JUN IWASAKI

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2022.7.31

聖子ちゃんと「政治の話をしないで」と喧嘩になる。政治観が好きじゃないとか、政治家の好みが違うとかそういう話ではなく、政治にはあれこれと「~らしい」とか「~っぽい」とか、それからあらゆる愚行を隠す行為だとか、そういうものに彼女はうんざりするのだそうだ。ぼくがあれこれと「~らしいで」とニュースや評論家の話などの情報に結局振り回されているということに嫌悪感を感じるらしい。正論だったが、ぼくにだって日々にうんざりすることがあり、一次情報ではないものを身体に入れてそれで会話するということもある。基本的には、ぼくも聖子ちゃんも一次情報しか信頼しない性格ではあるので、それにうんざりする気持ちもわかる。
ぼくたちが自分自身の意見だと見なしているものの多くはよく考えてみれば、誰かの意見のただ受け売りに過ぎないということが、往々にしてある。こういう風に考えるのは、本当に心寒くなる話ではあるが、ぼくたちは多くの場合メディアを通して世界を眺め、メディアの言葉を使って語っている。それに「〜らしいで」という言葉をつけるか、つけないか、
喧嘩をするとどっと疲れて寝てしまった。最近、腹の底から力が出る、力を出そうという感覚がなくなってしまった。

2022.7.30

朝Stellaとランニング。昨晩遅かったこともあり、7時半に家を出た。その頃には、もうすでに今日は猛暑になるのだろうと感じるほどの熱波の気配を感じながら、戦々恐々とStellaと家のまえでストレッチ。
それぞれにピンクと水色の日傘をさした背丈の似た双子のような女性たちが坂の下から登ってきた。暑さのせいで街は8月のパリのように静まっており、遠くからどこからともなくインドに旅行に行ったときに至る所から漏れ聞こえてきていたお祈りの音楽のようなリズムが聞こえる。その二人とすれ違う時に、傘の中を覗き込んでみた。首には、飛行機に備え付けられているような小さめのヘッドフォンのような扇風機がかけられていた。
ここ数年、夏の暑さに対抗するべく、各所から色々な夏の暑さ対策グッズが出ている。そのうちの代表例が手持ち扇風機で、今日のこの女性がつけていた首掛け扇風機も、今年はよく見かけるようになった。
どこで売っているのだろう、どんなブランドが作っているのだろうかと気になり調べたところ、Dysonやパナソニック、バルミューダら家電メーカーが出す首掛け扇風機はなく、大概において、ニトリや新規参入ブランドのようなことが多いようだ。
扇風機を持ち運びできるということさえ、iphone的だなと思うが、勝手な偏見にも思われるが、怠惰な考え方だなと思う。
暑くなれば新しい扇風機のシステムを開発し、ジャケットに扇風機をつける。もちろん、暑くなってしまったので、その後の対処として、ジャケットに扇風機をつけたり、首に扇風機をつけたりするのだろうが、その電力はどこから来るのか、逼迫の夏2022に正しい選択か、涼しさに慣れるとまた部屋に入ればクーラーが必要にならないか、便利になれると何でもかんでも便利を求めないか、生活において便利を求め続けて、欲求のままに生きていくと最後には便利と安易さ、安さが優位にたつ世の中にならないか。我慢というか、ものごとの構造に対する想像力というべきだろうか、欠如しているように思えてならない。
例えば、暑さでいうならば、テントを一枚張ってみる、影に逃げ込むのではなく、作ることを考えられるのが人間という動物だと思う。その建物が建てられる建築デザインの段階では、夏は涼しく冬は暖かい構造にデザインされていただろうか。それを考えられるのがデザイナーの仕事だと思うし、ビジュアルを作ることがデザイナーの使命ではない。その場所の魅力と必要なもの、目指すべき未来を見据えて考えられることが大切だと思う。
新しいウィルスが生まれるとワクチンを接種する。臭いものには蓋というようなその都度対応するしかない部分もあるのだろうが、それがずっと続くのは気分が良くない。何か問題が起きればそれを上書きするように何かを作る。ぼくは、日々生きる中で小さな違和感を感じながら生きている。
なぜウィルスが生まれたか、なぜ問題が生まれるかそのことに想像力と探究心を持とうではないか。ぼくは、今ここにある現状を少しの新しさを持って大きく変化させたいと思っている。一つの作品を買って他に何もいらない気分になるような、そのものが家に来たから心や空間の広がりを感じられるような、その本があるから自分の生活スタイルが変化するような、態度や振る舞いをみて背筋が伸びるような、そんな風にありたいといつも思う。

2022.7.29

Kiko KostadinovチームがDSMでブックサインニングを行う。書籍をサンプルさえも見ずに列をなし購入するという現象への違和感を感じながら、デザイナー本人と会うという原始的でフィジカルなエクスペリエンスがいかにモノの価値を上回るのかを見た気がした。ある意味、人間の根源的な部分は「会うこと」「話すこと」「フィジカルコンタクトをすること」なのだろうなと思わされた。やはり身体的要素がそこにはあり、触れ合うということがいかに動物の心には栄養となるのかということを垣間見たように思う。
久しぶりにKikoチームのParideとAitorと話す。二人とも特に変わらず元気そうだったし、コロナの話さえせず、何事もなかったかのようだ。
ファッションデザイナーの人気とアーティストの人気の違い、ファッションというマスコンテンツにおけるカルト的なブランドデザイナーとアートという狭いフィールドでのマス的アーティストの違いについて妙に感じされられた。
おそらく日本においては、ファッションのマーケットは明らかに肥大しておりこれ以上にどう大きくなっていけるのかを真剣に考え突破していかなくてはならないのだろう。所有欲求や消費欲求、ルッキズムや、自分の喜びではなく人との比較によって生まれる喜びなど、それらの要素を包括してくれるファッションは、日本人ないしは東アジア人の性格との相性が良いのだろうと今日のイベントを通じて強く感じた。
そんなことも興味深いのだけれど、二日連続でRose Bakeryパリで働いていたときにとてもお世話になったアスカさんのピリッとしながらも剽軽な声を聞き、手先で話すような手振りを見て懐かしい気持ちと、生活を全うすることの喜びや美しさを再確認したようだった。2016年に最後に会って以来6年ぶりの再会で、子供が2人できたアスカさんを見て、以前からある母のような眼差しに、自分が自分に戻れるような感覚さえ感じてしまったのである。都市に侵されているのだろうな。
アスカさんがご結婚もお子さんも産まれる前に、「アスカさんはお店をしようと思わないんですか?」と尋ねたことがあった。アスカさんの作る料理の質感や空気、その時の驚きは、歯石のようにぼくの脳に今でもこびりついている。「私は、本当にお母さんになれるならそれが一番の幸せなんですよ」とRose Bakeryのキッチンという戦場でお疲れ気味の中、ふと話していたのがずっと本棚の本と本の間に差し込まれた展覧会のDMのように頭の片隅に残っていて、昨日と今日でそのアスカさんが二人の子供のお母さんになっていることも、それにまだRose Bakeryで働いていることにも複雑ながらぼくも同様に喜びを感じた。

2022.7.28

社会の成り立ち、それを崩すと言うことは、「自然に戻る」ということ。そうすると、生活はますますワイルドになり、タフになる。社会が出来上がったことによって、ぼくたちの生活は多くの人間が均一に生活できるようになった。平等を謳えるようになった。
社会の崩壊は、平等性の崩壊であり、動物本来の生活へ戻る第一歩である。しかし、自然と共に生きることは、社会を崩壊させることとは決してイコールにはならないはずである。
社会を崩壊させた後に待っているのは、過去の栄光という残骸と懐古主義と原始時代をハイブリッドに兼ね備えたとてもタフでワイルドな生活なのである。
社会を崩壊させずに自然に戻るように共に生きる姿を。

2022.7.27

今日も、同じことの繰り返しだが、Stellaとランニング。
昨晩、ストレッチを30分ほど入念に行ってから寝たのだけれど、毎朝感じていた寝起きの腹痛が軽減された。スッと起きることができる。背中から来る痛みだったのだろうか、背中が凝り固まりすぎていてその痛みが腹部にまで回ってきているのかなと予想できるが、実際には何が起きているかわからないがとにかく軽減されていて驚いた。
大江健三郎『人生の親戚』を読み進める。久しぶりに、音楽を聞くよりも、映画を観るよりも、人と話しているよりも、本を読みたいと思わされる物語に夏の砂浜の波が引くときの力のようにぐいぐいと引き込まれていく。自分はもし人生において絶望に絶望を重ねて、それでもなおそれを一人で抱えて生きていくだけの覚悟はあるだろうか。この物語の登場人物たちは、生きることを選び、死んでいったものたちを記憶しているのは自分だという意思を持ち、美しいまでに絶望の中でも飄々と生きている。そういう物語を読んでいると、ぼくには聖子ちゃんというかけがえのない人との物語があり、それをぼくたちはまだはっきりと語る術を持っていない、今まだそれを建設中なのである。Cairo Apartmentは、その物語を語るに値する存在であり、建設中の家なのだ。建設中から、物語を語る術を探っている。そうやって一冊の本が完成した。みんなの心の中にあるのだ、その語るべき物語が、ぼくはぼくしか持っていない語られるべき物語を語りたい、人の人生を間借りしたような、横綱のまわしを借りて相撲を取るようなそんなことは決してしたくないのである。
帰宅後、そうめんを食べながら、サッカー日本vs韓国を観戦。Jリーグ組の代表戦で、お客さんが入らないというのは、結局のところ、日本代表が人気がないのか、それか観戦チケットが高価か、ロケーションか、Jリーグの選手が人気がないのか。もし、Jリーグの選手が人気がないというのであれば、結局日本代表のファンというのはミーハーな層によって支えられており、ミーハーなファンが反応しない選手が出ないのであれば観戦しない。現に、PSGのツアーは大成功だった。それにはぼくらが昔やっていたTVゲームのように分かりやすいだけのスーパースターが揃っているからで、そういう風に考えていくと、結局のところ、日本サッカー全体にはミーハーなファンが多いということになるだろうし、ミーハーな人はミーハーな人に影響を受けながら生きているので、「サッカーが人気ない」と誰かが言い出すとどんどんと離れていくだろう。ミーハー人口の増加の根源には、「思考力の低下」、「探究心の減少」などが大きく絡んでいる。それは学校教育でもあり、もっと辿れば家での日々の教育であり、生活なのである。サッカーファンが減りました、と新聞の記事で大々的に報じ、それに対して危惧を表明するサッカーを仕事にする人。市井の人間でただ事象に対して文句をいい、煽り、アクションを起こさない人たちは、自分の生活を顧みることである。そこに彼らの問題とするものの多くは蔓延っている。国ないし、チームなど大きな構造は幻想であり、それらが何かを変えることは難しい、ぼくたちが死ぬまで持ち続けられるものは、自分自身しか持ち得ない「自分の意思」というものである、そこに意思決定という決断する権利をも有するのである。
話がずれたので、サッカーや文化の話に戻ると、大事にするべきは辛い時も嬉しい時にも離れず、観戦してくれいるコアファンであり、それを主軸にそのサブジェクトにまつわることを構成していけば自然と質の良い、気の利いたものになっていくのではないだろうか。サッカーだけではない、これは大きな日本の文化に蔓延る問題なのだ。今夜も、体操とストレッチをして就寝。

2022.7.26

昨日、米山さんの話を聞いてから、お腹が痛いのがますます心配になり、朝一番で内科へ行く。ちょうど検査の時間に空きがあるから検査するかという話になり、内臓の超音波検査をする。初めて自分の内臓を見たのだが、何がどうなっているのかすらよくわからない。黒いのが水で、白いのが
病院で小さなポリープが見つかった以外は、特に木にするようなことはないという診断を受けたので、気分がよくなりOnibus Coffeeで一服。あまり調子に乗るもんじゃないと言われそうではあるが、気分がいい時は気分良く過ごしたい、でなければ誰のための人生だ。
八百屋で食材を買って、家に帰りつるむらさきとなめこのうどんを食べる。
ポール・トーマス・アンダーソン監督『インヒアレントヴァイス』を鑑賞。観ながら寝落ちをしてしまう。時に絶望的に寝起きの悪い昼寝をすることがある。無駄に1時間超寝てしまうと昼寝の心地よさはそこにはもう存在せず、残るのは違和感と時間を無駄に過ごしてしまったという悲しみに近い感情。夜は、聖子ちゃんが揚げ浸しを作ってくれた。体調が優れないぼくに、それが好物だということを知って何も言わずに食卓に並べてくれる彼女の優しさになんだか感動してしまう。夜は、早めにベッドに入り大江健三郎『人生の親戚』を読み進める。

2022.7.25

Stellaと二子玉川までランニング。休みの日だと気持ちよく時間を気にせずに走れるので、快適なのだが、今日は驚くほどの快晴でとても暑い。夏らしくていいけれど、これだけジリジリと肌の穴にまで光が染み込んでくるように暑くて照り返しが強いと、やっぱりもう少し早い時間に出発しないとStellaもぼくもぶっ倒れてしまう。暑すぎて、河川敷をパンツ一丁で走っているのだが、それが懐かしさもあいまってかとても心地よい。もしかしたら世代や地域的な認識の違いはあるかもしれないが、河川敷とかビーチって、その上裸スタイルが、許容されるというか、もちろんビーチだとそれが当たり前なので、共通理解があるのだろう。もしかすると、河川敷は人が多いとNGかもしれない、いやNGだと思う人もいるかもしれない。結局、ルールってこういう風にあって欲しいなというのが僕の理想で、人が嫌じゃないかで判断されるルール、ルールだけに従っていると、ルールに縛られて、ルールのために生きているというような無責任な人間しか生まれてこない。だから、一般的には上裸はもちろんNGだけれど、河川敷でランニングする人、すぐに通り過ぎる人、大勢の前ではきちんと隠すなど相手への理解を示しながらそうしているとグレーに変わるようなことも存在する。子供はよくて大人はダメとかそういうのは倫理観的な視点や感情的な視点で見ればもちろん理解できるが、動物的な観点でみるととても理解できないし、法律という視点でも解釈がとても難しい。そんなことはこの世の中にたくさん存在する。
ランニングの後、やはり背中が痛いので、このタイミングしかないと思い整形外科に行き、14時カナさんと米山さんと田園調布駅前で合流し、葉山へ。BLUE MOONで一服しながら、海へ飛び込み、浮かぶ。夏の昼間の海って全てを受け入れてくれるようでとても幸せな気分にしてくれる。浮いていると、レコーディングなどで使われる無音ルームに入ったかのように全ての音が遮断されるような感覚もあり、ただ感情としては音が残響として残る。眺める空もそこには何もなく、たまに通り過ぎる鳥や白い雲をみていると、ものの動きの優雅さを感じる。葉山のビーチでこうしていると、山と空との境界線がとてもシャープで平面図のような感覚もある。
コマチーナでディナー。Stellaがいたので、テラスを予約していたのだが、ふと旅行に来た気分になる。このままどこかで泊まってまた明日には海に飛び込みたいような気分。帰りは、みんなお酒を飲んでいたので、カナさんの車を運転して、みんなをドロップオフし、最後、カナさんを駐車場まで送り届け、終電で帰宅。夏は、こういう日がないとなと思う。