2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.7.8

パリ期間は走れなかったもの、先月から始めたランニング、リズムを掴んだのか、調子が出てきた。Satisfyのプロモーションビデオで流れていたTV not on the radio 『Wolf like me』を聴いているとどんどん足が回る。今日も8kg。
夜、Filmhuis Den Haagで、『The Invite』鑑賞。A24制作のオリヴィア・ワイルド監督の新作。脚本はウィル・マコーマックとラシダ・ジョーンズ、音楽はDev Haynes。エンターテイメント映画を映画館で久しぶりに観たが、観客の笑いに冷めることもあれば、誘われてしまうこともあり、エンターテイメント映画は映画館で観るのも楽しいと思った。映画体験としてはなかなか良いものだったが、その笑いの使い方が、どうもA24っぽい感じや、多くの人が笑えるネタという掴みのポイントが浅いような気がして、ちょっとゲンナリした。それは海外で友達を作るのに、エロの話やドラッグの話をすれば仲良くなったりするというようなものに近い。実体験として、そのようなものを挙げるが、実際はそんな会話なくとも仲良くなる方法は山ほどある。例えば、天気とか週末の話とかスモールトークのようなものも同様である。


2026.7.7

火曜日。今日もビーチまでランニングをして海に飛び込んでまたランニングして家まで帰る。家からビーチまでの往復はおおよそ8kg弱の距離だが途中で海に入るのでランニングの再開にはちょうど良い距離とリズムを維持できている。アルゼンチンvsエジプトを観戦。エジプトの完成度の高いカウンターに、勇敢さと貪欲さの失われた自チームのスウェーデン戦とブラジル戦を思い出し、エジプトを応援する人たちとそのチームを羨ましく思った。なぜあれほど勇敢だった2022年を経て、よく似たメンバーで挑んだのにも関わらず我々のチームは勇敢さや貪欲さを失ったのだろうか。

2026.7.6

スペインvsポルトガル。中盤を制圧したものが勝つと思っていたが、そんな簡単は話ではなく一人の勇敢でチームが頼りしていた選手の怪我により一気にチームが崩れ始めたように見えた。人間は、物事に物語を見ようとする生き物だとぼくは思うが、この試合も多くのみんなが物語を見ようとした、新世代のヒーローvs散り行くスーパースター、ラミン・ヤマルvsクリスチアーノ・ロナウド、という構図は本人たちは全く気にする素振りも見せなかった。大体において他者や鑑賞者は物語を見出そうとするのである。それは絵画や写真を見るときにも同様に、である。

2026.7.5

夕方、ランニング。帰宅してノルウェーvsブラジル。勇気を失った者は、敗北するということをブラジルの試合運びを見て思った。ハーランドという優れた才能が真ん中でずっしりと待ち構えているという物質的な恐怖もありながら、決して物質が直接的に与える恐怖だけではなく、自分自身の中から生まれる恐怖、例えば失ってしまうことやこうなってしまうのではないかという不安と強く絡み合う恐怖、そんなものが人間が本来持ち合わせる勇敢さを削いでいるように見えた。そして、ブラジルは2-0の完敗を喫したのである。

2026.7.4

作品のサブミッションのために文章を書いている。じっくりと作品を見て、散歩したりしているとやっと文章になってくることがあるが、お風呂に入ったり散歩したりすると頭が冴えるのはなんでだろうか。
ぼくは、近年、主に霧やカーテン、窓枠、壁、ドアなど、視界を遮るものを題材にした写真を撮っている。もちろん、それらの主題は長く自分の無意識のうちに存在し、ぼく自身がそうしたものを撮り続けていることもある写真を継続して買ってくれている方にも指摘された。特に霧やカーテンは、ぼくの作品の中では物事を隠す存在として立ちはだかり、また、向こうを隠しつつも垣間見せ、特に閉じられたカーテンは隠されたものを見ようとする欲望を示唆している。そのような構図は、鑑賞者に自らのまなざしを自覚させ、鑑賞者の想像力をかき立てるのではないかと思うのである。見えないものを見ようとする欲望は、絵を見るという行為の前提さえをも問い直してくれるのではないかと思う。同時に目に見えないものへの恐怖に立ち向かう勇気を与えてくれる。ぼくの敬愛する大江健三郎は、「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」と話していたが、ぼくは彼のアイデアに多く共感していて、どのように閉鎖的な社会の中で未来に光を見るか、前に向かって進めるか、作品発表を通じて表現したいと思っているのだ。夜、じっくりとゆっくりランニング。

2026.7.3

朝早くに海のある田舎町に到着。パリから帰って、一日中疲弊していた。2年前にこの海のある田舎町に引っ越して以来、この夏は最も季節の移ろいを感じ、見たことがないほど嘘みたいな晴れが続いている。暑いといいながらも、それがとても心地よいし、家にある5つの窓を全て開けっぱなしでいられることの喜びを感じている。やはり扉が開かれているというのはいい。扉が開かれた作品を作りたいし、そんなメンタリティーで生きていたい。暑い暑いとみんな文句を言っているし、暑いことを想定されずに何百年前に作られた土地に住む人々は、文句ではなく忍耐を覚えなければいけない。暑いならどうするか、人間が主体すぎる社会においては文句が増えるのではないかと思えてならない。冬にあれだけ分厚い雲間から漏れるような弱々しい太陽を求めてブランケットとダウンを着て太陽を浴びようとするのだから、実際には天気がいいのだから誰も文句は言えない。シモーネ・ヴェイユ『An Anthology』を読み進める。


2026.7.2

 朝、FedericoとAmbraと家の近くの57 grains Coffee Shopでコーヒー。帰りFedericoの家に少し立ち寄る。P1でクロワッサン、Epi_Epicerieで野菜とフルーツを家で仕事を続けるDonimikaに買って帰る。朝から晩まで家から出ずに働いているので、働きすぎて心が病まないか心配である。犬でもいればまた違う生活になるのだろう。BrunoとChez Nenesseでランチ。作品について少し話す。今日はフレンチフライの日らしく、前菜にエビとアボカドのサラダ、メインにステーキとフレンチフライを食べる。
その後、マルセル・デュシャンが住んでいた11 Rue Larreyへ。このところぼくはずっと開いた扉について考えていて、リサーチの過程で知ったマルセル・デュシャンが作った扉の作品11 Rue Larreyからかなり影響を受けているので、実際にそれがあった場所に来たいと思ったのだ。閉じられた扉とは、道を塞ぐものであり、開かれた扉とは道になる。そして、少し開かれた扉からは光が漏れ、未来への希望を示唆する。ざっくりと言えばぼくはそんなテーマで作品を作ろうと思っているのだが、まあうまく形にならない。フランス語の諺に、Il faut qu'une porte soit ouverte ou fermée(扉は開いているか閉まっているかどちらかでないといけない)というものがある。要は、白黒はっきりしましょうというものだと思うが、マルセル・デュシャンが制作した11 Rue Larreyの扉の作品は、一つの扉が二つの部屋の間に接続されており、一つが開けば一つが閉じる、一つが閉じれば一つが開くというような構造になっており、諺とは裏腹にも単純明快な解決策を否定していると言われている。またある人は常に開いているし常に閉じている、両義性を表現しているとも言っている。実際にマルセル・デュシャンは女性ローズ・セラヴィとしてマン・レイの作品にも登場している。それはぼくの作品からは少し離れたテーマであるが、自分の、作品を考える上で同じように扉というものが含む観念を理解しようとしているのである。そういう点において、実際に家に行けないとしても目の前まで来てその場所を知ることはとても小さいながらに大切にしたいと思うことなのである。19時ごろ、夏帆ちゃんと合流しZander GalerieMolly Springfieldのオープニングへ。その後、またPetit Lippへ。夜行バスでオランダに帰る。毎回思うが、夜行バスに乗ると自分を試されているような気持ちになるし、感情的な気持ちを抱えたまま最初の一時間くらいを過ごすことになる。そして、いつものことだがいつの間にか寝ている。途中で目を覚ます頃には、すでに窓の外はうっすらと青くなっている。