2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.7.16

木曜日。また追加支払いを知らせる青い封筒が届いた。何か間違えているのではないかと思うほどの請求金額があり、異議を申し立てようもAIBotとの無力な戦いがあり、メールしても返事が来ない。返事が来たとしても、親身になるわけでもなボーディングクラスで教えられたように定型文の返答があり、イレギュラーを受け入れるということはない。社会は破綻しているのではないか、そんな社会の中で真面目に自分の存在や生の意味や、人生の中で得られるものを自分はきちんと受け取ることが出来るのかを真摯に実践することは可能なのだろうか。そもそもそんな疑問が生まれる社会や環境というのは不健康だとぼくは思う。

2026.7.15

 水曜日。ずっと裾上げをしないといけないと思い棚に入れっぱなしにしていたパンツの裾上げに行く。日本だとどこでもできるような気もするが、この海のある田舎町では、探さないといけないし、言い値であり、また、1週間を待たされる。別に1週間かかるのであれば、受け入れて1週間待つが、日本で1時間で仕上がるものがなぜこの国では1週間かかるのだろうか。一度得たものを捨てて新しい価値観を受け入れるというのはなかなか苦労するものだと、もう3年目になったこの国での暮らしを憂いている。3年の空白のような時間を30代の後半に過ごしているわけだが、本当に自分にとって意味のあることなのだろうか。価値がないことをしていることの価値や、意味のなさの魅力、正しくない弱者の意見の立場に立つ、失敗という大きな後ろ盾、みたいなものを少し脇に置いたとして、20歳くらいから無形物を求めるように、自分の中で形になり始めた有形のものを破壊するような感覚で生きてきたはずだったが、今、暗闇の中の濁流に飲まれたかのような感覚で右も左もましてやそこに出口があるのかすらわからないようなーしかしその中ではっきりと感じているのは確実に死に向かっているという全ての人間の持つ儚さー生活をしているが、家も子供もなく、少しの心の余裕を与えるほどのお金もなく、袋小路のような生活の中で、過ぎ去る日々を誤魔化すように生きてはいないだろうか。無形に憧れながらも、何かを掴むことを目指し掴んだ有形のものを捨てる行為と、有形のものを最初から諦め、曖昧な無形を信じるのでは姿勢が全く違うのだ。ぼくは、前者であったがいつしか後者のような都合の良い自己解釈によって自分の人生を固めてはないだろうか。
5つのスーパーに立ち寄り、そのうちの1つのアジアンスーパーで豚しゃぶ用のお肉を買い、そのうちの一つのターキッシュスーパーで捌きたてのチキン胸肉とレバーとハートを買い、そのうちの一つのオーガニックスーパーでグラスフェドビーフのステーキを買った。ただ買い物の中毒と言えるような買い物をして無駄に時間を過ごしているような気もするが、自分が望むものを、あのお店のあれが美味しいというものを買う姿勢は昔から全く変わっていないし、いつもこうやって時間を無駄にしているのだが、ぼくにとってはこれをしない人間はショートカットしているのではないかとも思う。それがある海のある田舎町ではアジアンスーパーで、ターキッシュスーパーで、オーガニックスーパーであっても、違う街でジャム屋でジャムを、チーズ屋でチーズ、また違う街で豆腐屋で豆腐を珈琲屋でコーヒー豆を買うのと何が違うのだろうか。ぼくにとっては「その場所の自分の好きなあれ」を求めることが自分が集積した無形のものの角を研ぎ鋭くする行為でもある気がしてきた。とにかく丸くならないこと、それが無形であっても。
祇園祭が前衛と歴史を兼ね備えた美しい街で行われている一方、祇園祭のない街では戦争が行われ、また違う祇園祭はないが海のある田舎町では苦悩が堂々巡りをしている。

2026.7.14

TilburgにあるDe Pont Museumへ。Steve McQeenの展覧会『ATLAS』。帰り、駅前ので電車までの時間を潰しながらああだこうだと話して帰宅。帰宅してスペインvsフランスを観戦。この大会でまざまざと見せつけられていた超人的な個人の選手が問題を解決するというのではなく、フットボールは個人競技ではないぞ、フットボールは超人的個人を不要とする意思と特徴のある個人の集まった団体競技だと、フットボールの勝利を見たような気がして興奮してしまった。個人が締め出され、問題すら起きずに、匿名的になってしまった場合に、匿名の個人が何か強く力を発揮するのがとても難しいという問題を見せられたような気がした。匿名になるべきではないということでもあり、超人的な個というものを求めすぎる社会への反骨心をみた。そんな風に勝手な物語を読み解くと、寝れずに結局明け方30時ごろ(4)まで起きていた。決してそれだけが起きていた理由ではないのだが。

2026.7.13

 日本代表の敗戦から2週間ほど経ち、全くニュースなどをみていなかったが、「大会中はエゴを消せ」という話があったという記事を見た。エゴを消せは、ナショナリズムではないか?日本人である前に個人でありたいし、根がなくなった海外生活者にとって、日本とはないしは日本人としての自分とはを考え意識するがゆえに、日本であることや日本人であることを自分の特徴のように捉え過ぎているのではないかと思てならない。ぼく自身も、時に日本人であることを意識しすぎるがゆえに、日本の話をしすぎている気がするし、ある種言動や行動に「日本人なんだからこうするべきだろう」というステレオタイプみたいなものが、他者の目にある偏見ではなく、自分が自分の行動を制限するという点において降りかかっているようにも思う。日本人あるが日本人である以前に個人であるべきだろう。
日本代表の「大会中はエゴを消せ」の本当の意図を深くは知らないが、ナショナルチームのために戦う上で日本人の良さは献身性であったり団結力である、というようなことを言わなくとも自分の中に存在するものとして、個人がありたいと思う。生きるということにおいてまばたきすることを語らないのと同じように、だ。

2026.7.12

聖子ちゃんが大衆の前で色々な男性と乱れているのをそれから目を塞ぐという夢で目が覚めた。そんなことが実際に起きるとは考えにくいし、本人もそれを望まないだろうが、夢としてぼくの中に訪れたのは事実である。現実や見たくないものから目を塞ぐなということを示唆しているのだろうか。ぼくは、大体において悩んでいることを解決しようとしているのか、堂々巡りをしてうだうだと考えているだけなのか、ただ勇気がなくてそこに深く取りかかろうとしないのか、とにかくいろんな感情の中で生きすぎていて自分でも自分の正しい姿が雲隠れし始めているように思えてならない。

2026.7.11

Margurette DurasSIX FILMS』読了。
天気がいいので、5つある窓を全開にして太陽の光を部屋に取り込んでいるとふと何かを思い出すような感覚が訪れた。ほんの少しの気の利いた家具しかない空っぽの部屋でひたすらに本を読み、ランニングをする、少量の質の良い食事をする。ぼくはそんな生活に憧れている。それができるような精神力と金銭的な充足を持ちたいというような話を聖子ちゃんにしていると、「それがみんなが憧れてる生活って今まで気付いてなかったの?それがしたいけどみんな仕事してるんだよ」と。20時半からランニングののち、イングランドvsノルウェー。このフットボールをすると勝つべきはイングランドだと思わされるような戦いぶりだった。

2026.7.10

 12時半にランニングに出かける。いつもよりもかなり走りづらい。東京にいた頃は朝走ってから出勤というリズムを保っていたが、あれからもう7年くらいが経ち、ぼく自身の身体の変化もあり、日中の暑い時間のランニングはかなり堪えることがわかった。ビーチまでの往復で8km程度。22時よりFilmhuis Den Haagで ケイン・パーソンズ監督『Backrooms』鑑賞。若干20歳でこれが初監督作品。映画を勉強しているPascaleらがなかなか興奮気味に話してくれたので、割と期待を持って、そして、気味が悪いという前評判もあり若干構えて鑑賞したが、これがデイビッド・リンチやキューブリック的なものと比較されるのは、ぼくはどうも好まないと思った。「伏線のようなもの」が張り巡らされているだけで優越感を求める考察好きたちが共鳴するだけの映画なのか、もしくはぼくが持ち得ないインターネットと共に育った世代の持つ特有の感覚を有する映画なのか、かなり難しいと思ってしまったし、壮大なテーマを抱えようとしているが故に届くべき場所に行きつかずに終わったような感覚もあった。映画の内容ではなく、ケイン・パーソンズという作家に共鳴したことは確かである。そして、A24が彼のアイデアを買い取らずにディレクターとして起用していることは明らかにポジティブだと思ったが、A24が彼にここまでの機会を与えることが本当に作家としてのパーソンズに良かったことなのか、ぼくにはそう思えない。キューブリックの処女作『Day of the Fight』も、長編処女作『Fear and Desire』も借金をして制作している。リンチも同様に『Eraserhead』制作に5年を費やし、新聞配達をしたり、短編映画を撮ったりしながら長編を完成させた。その5年間は子供が生まれたタイミングもあり、工業地帯に購入した家で「暴力、憎悪、不潔」に満ちた雰囲気の中で暮らしたというのが逸話であるが、その貧困地帯での経験が、『Eraserhead』の世界にきちんと反映されているようにも見える。処女作がこうあるべきだという話ではなく、そうあった人たちの作品とこれらが比較されるのは、観客を浅い満足感で満たしてしまうのではないかと思うのである。ぼくはA24をこの時代における警戒するべき存在と否定的に捉えているのだが、この映画も同様にぼくにはそのように見えてしまった。
映画を映画館で観るということは、映画館に行くまでの高揚感とか、それまでも含まれるのであればこの映画は明らかにマーケティングに成功した映画だと思う。良い映画だけが良いわけではないし、時にそして多くの場合に悪いとわかっていながらもその立場にいることの態度も示すべきだ。