2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.7.13

 日本代表の敗戦から2週間ほど経ち、全くニュースなどをみていなかったが、「大会中はエゴを消せ」という話があったという記事を見た。エゴを消せは、ナショナリズムではないか?日本人である前に個人でありたいし、根がなくなった海外生活者にとって、日本とはないしは日本人としての自分とはを考え意識するがゆえに、日本であることや日本人であることを自分の特徴のように捉え過ぎているのではないかと思てならない。ぼく自身も、時に日本人であることを意識しすぎるがゆえに、日本の話をしすぎている気がするし、ある種言動や行動に「日本人なんだからこうするべきだろう」というステレオタイプみたいなものが、他者の目にある偏見ではなく、自分が自分の行動を制限するという点において降りかかっているようにも思う。日本人あるが日本人である以前に個人であるべきだろう。
日本代表の「大会中はエゴを消せ」の本当の意図を深くは知らないが、ナショナルチームのために戦う上で日本人の良さは献身性であったり団結力である、というようなことを言わなくとも自分の中に存在するものとして、個人がありたいと思う。生きるということにおいてまばたきすることを語らないのと同じように、だ。

2026.7.12

聖子ちゃんが大衆の前で色々な男性と乱れているのをそれから目を塞ぐという夢で目が覚めた。そんなことが実際に起きるとは考えにくいし、本人もそれを望まないだろうが、夢としてぼくの中に訪れたのは事実である。現実や見たくないものから目を塞ぐなということを示唆しているのだろうか。ぼくは、大体において悩んでいることを解決しようとしているのか、堂々巡りをしてうだうだと考えているだけなのか、ただ勇気がなくてそこに深く取りかかろうとしないのか、とにかくいろんな感情の中で生きすぎていて自分でも自分の正しい姿が雲隠れし始めているように思えてならない。

2026.7.11

Margurette DurasSIX FILMS』読了。
天気がいいので、5つある窓を全開にして太陽の光を部屋に取り込んでいるとふと何かを思い出すような感覚が訪れた。ほんの少しの気の利いた家具しかない空っぽの部屋でひたすらに本を読み、ランニングをする、少量の質の良い食事をする。ぼくはそんな生活に憧れている。それができるような精神力と金銭的な充足を持ちたいというような話を聖子ちゃんにしていると、「それがみんなが憧れてる生活って今まで気付いてなかったの?それがしたいけどみんな仕事してるんだよ」と。20時半からランニングののち、イングランドvsノルウェー。このフットボールをすると勝つべきはイングランドだと思わされるような戦いぶりだった。

2026.7.10

 12時半にランニングに出かける。いつもよりもかなり走りづらい。東京にいた頃は朝走ってから出勤というリズムを保っていたが、あれからもう7年くらいが経ち、ぼく自身の身体の変化もあり、日中の暑い時間のランニングはかなり堪えることがわかった。ビーチまでの往復で8km程度。22時よりFilmhuis Den Haagで ケイン・パーソンズ監督『Backrooms』鑑賞。若干20歳でこれが初監督作品。映画を勉強しているPascaleらがなかなか興奮気味に話してくれたので、割と期待を持って、そして、気味が悪いという前評判もあり若干構えて鑑賞したが、これがデイビッド・リンチやキューブリック的なものと比較されるのは、ぼくはどうも好まないと思った。「伏線のようなもの」が張り巡らされているだけで優越感を求める考察好きたちが共鳴するだけの映画なのか、もしくはぼくが持ち得ないインターネットと共に育った世代の持つ特有の感覚を有する映画なのか、かなり難しいと思ってしまったし、壮大なテーマを抱えようとしているが故に届くべき場所に行きつかずに終わったような感覚もあった。映画の内容ではなく、ケイン・パーソンズという作家に共鳴したことは確かである。そして、A24が彼のアイデアを買い取らずにディレクターとして起用していることは明らかにポジティブだと思ったが、A24が彼にここまでの機会を与えることが本当に作家としてのパーソンズに良かったことなのか、ぼくにはそう思えない。キューブリックの処女作『Day of the Fight』も、長編処女作『Fear and Desire』も借金をして制作している。リンチも同様に『Eraserhead』制作に5年を費やし、新聞配達をしたり、短編映画を撮ったりしながら長編を完成させた。その5年間は子供が生まれたタイミングもあり、工業地帯に購入した家で「暴力、憎悪、不潔」に満ちた雰囲気の中で暮らしたというのが逸話であるが、その貧困地帯での経験が、『Eraserhead』の世界にきちんと反映されているようにも見える。処女作がこうあるべきだという話ではなく、そうあった人たちの作品とこれらが比較されるのは、観客を浅い満足感で満たしてしまうのではないかと思うのである。ぼくはA24をこの時代における警戒するべき存在と否定的に捉えているのだが、この映画も同様にぼくにはそのように見えてしまった。
映画を映画館で観るということは、映画館に行くまでの高揚感とか、それまでも含まれるのであればこの映画は明らかにマーケティングに成功した映画だと思う。良い映画だけが良いわけではないし、時にそして多くの場合に悪いとわかっていながらもその立場にいることの態度も示すべきだ。

2026.7.9

 そういえば、書くのを忘れていたが、昨日オリヴィア・ワイルド監督『The Invite』を観た後に、同じ回を見ていた時々映画館で遭遇するぼくが苦手なブラジル人の男性とまた偶然に遭遇した。彼はたくさん話したわけではないのにいつも友達のように接してくれるので、ありがたいといえばありがたいが、いつも高圧的で、何かを押し付けられるようで好きになれない。そんな彼からヴィム・ヴェンダース『Perfect days』が好きだと言われた。ぼくは、あの映画が好きではないことは何度かここでも書いたと思うが、全てが正しいと描かれる教育番組のようだとその話をしたところ、「君はバイアスがかかっている、もっとフラットな目を持つべきだ」と言われた。彼のその言葉もまたぼくを諭すようで、偽善の正義感の上にのみ成り立つような佇まいがどうも癪にさわり、別れの挨拶をして映画館を出た。帰り道に、頭からそのことが離れず若干むかついたこともあって、バイアスについて考えていた。カタカナで誤魔化さずに日本語にするならば、偏見や先入観であり、彼のいうバイアスとは、ぼくはヴィム・ヴェンダースに対して偏見や先入観を持っているということだったのか、それともぼくが日本の美徳や美意識について偏見を持ちすぎているということだったのかと考えていた。そんなこと以上に、ぼくはおそらく偏見や先入観のない社会は望まないだろう。コントラストは偏見や先入観によってのみ運ばれるわけではないとしても、コントラストを持った社会の姿をぼくは好む。その偏見や先入観こそがものに対峙するときに一つの角度を与えるものとなるし、その人なりのものの見方になるのではないだろうか。もちろん偏見のない目を持つことは時に特に大事なことだろうが、均一化する社会において個人の尊厳を守るのであれば、バイアスがかかった人間をバイアスがかかったままにしておくことが一番であり、それがもし良くても悪くても、ぼくは個人の尊厳を守ることを優先したいと思う。

2026.7.8

パリ期間は走れなかったもの、先月から始めたランニング、リズムを掴んだのか、調子が出てきた。Satisfyのプロモーションビデオで流れていたTV not on the radio 『Wolf like me』を聴いているとどんどん足が回る。今日も8kg。
夜、Filmhuis Den Haagで、『The Invite』鑑賞。A24制作のオリヴィア・ワイルド監督の新作。脚本はウィル・マコーマックとラシダ・ジョーンズ、音楽はDev Haynes。エンターテイメント映画を映画館で久しぶりに観たが、観客の笑いに冷めることもあれば、誘われてしまうこともあり、エンターテイメント映画は映画館で観るのも楽しいと思った。映画体験としてはなかなか良いものだったが、その笑いの使い方が、どうもA24っぽい感じや、多くの人が笑えるネタという掴みのポイントが浅いような気がして、ちょっとゲンナリした。それは海外で友達を作るのに、エロの話やドラッグの話をすれば仲良くなったりするというようなものに近い。実体験として、そのようなものを挙げるが、実際はそんな会話なくとも仲良くなる方法は山ほどある。例えば、天気とか週末の話とかスモールトークのようなものも同様である。


2026.7.7

火曜日。今日もビーチまでランニングをして海に飛び込んでまたランニングして家まで帰る。家からビーチまでの往復はおおよそ8kg弱の距離だが途中で海に入るのでランニングの再開にはちょうど良い距離とリズムを維持できている。アルゼンチンvsエジプトを観戦。エジプトの完成度の高いカウンターに、勇敢さと貪欲さの失われた自チームのスウェーデン戦とブラジル戦を思い出し、エジプトを応援する人たちとそのチームを羨ましく思った。なぜあれほど勇敢だった2022年を経て、よく似たメンバーで挑んだのにも関わらず我々のチームは勇敢さや貪欲さを失ったのだろうか。