暑いので窓を全開にしているが、ふと日本の5月や6月の日々を考えた時に暑いので窓を開けっぱなしにするということは少なくなってきたのではないかと思った。ぼくは、クーラーが苦手なので、どれだけ暑くても窓を開けっぱなしで過ごしていたが、この海のある田舎町で窓を開けているのとはわけが違う。それにしても、最近、新しく海外生活を始めたかのような思考ばかりが巡る。残念ながらそこに全てが真新しく見えるというような初々しさは存在しないのだが、いまだにこの土地に馴染もうとすることを拒むような、受け入れられないというような、ものだ。嫌な気持ちにさせるような腹痛があるので、若干の食事制限をしながら過ごしているが、そのせいもあって気が乱高下する。家にあるもので簡単に夕食を済ませ、夕方から聖子ちゃんとステラとビーチへ行く。結局、海水はぼくにはまだ冷たすぎるので、泳ぐほどではなく、浸かるくらいしかできない。どんどんと海面に近づく夕日とただただビーチで各々の時間をゴロゴロと過ごす人々を眺めながら、ヨーロッパの海の近くの街にいることに喜びを覚えた。もし一人でシェアハウスなんかに住んでいたら、ぼくはどんな生活をしているのだろうか。あまり一人で暮らした経験がないので、自分がどんな生活をするのかにとても興味がある。きっとシェアハウスの部屋の中に籠るのは苦手だろうからカフェに行くかビーチに来るか。そもそもこの街にはいないだろうが、もし海のある田舎街で一人で暮らしていたら、きっとぼくの家は空っぽで、常にビーチに行くような準備があり、ビーチに行くための食事があり、ビーチで読む本だけが積み上げられているのだろう。ぼくの脳内にいつからか出来上がった夏の情景というものを具体化してみたいと思うだろう。ぼっとしていると、だいたい思考もぐるぐると巡るもので、自身の決断の上にある失敗や困難について考えていた。もし自分で選択したことが決してうまくいかなかったとしても、結果的に大失敗だとしても、大きな損害を受けたとしても、さらに負のサイクルや思考を生んでいたとしても、そこから浮かび上がるのに苦労しているとしても、その時に感じていることや考えていることはインターネットで得る情報よりも表面的に完成された何かよりも、人の力を使って得てしまったそれよりも、確実に輝くだろう。その時に培った思考の皺は自分だけの価値になる。そして、いつかそれは自分の言語を構築するものとなるだろう。言葉に言葉が持っている単語数がそのまま伝える以上の情報と情景を与えるだろう。5分間の英語と5分間の日本語というスピードの違いだけではなく、その言葉の情景をぼくはもっと深めたい。それがグローバルスタンダードに対する個人の言語である。聖子ちゃんが30代後半にもなって資産も何もないと言っていたが、きっと今の停滞している間に刻まれる全ての思考の皺はある種の資産となって、将来のぼくたちにきっと思慮深さを与えるだろう。目に見えないものの存在に目を向け耳を傾ける。
今日は、思考の乱れのようなものがここに書けたような気がして満足感が高い。人間なんてだいたい一つのことを目の前にしていても、なぜか全く違うことを考えてはその後にふとしたことでまた何か違うことを考えていたりするもんである。海と夕日を目の前にしていても、することのなかった一人暮らしを考え、決断の上にある失敗と困難について考えている。それらは交わることがなかったが、海と夕日を前にしなければ、その二つは並ぶことがなかったかもしれない。ぼくは、その人間特有の飛び散った思考の流れのようなものを言語化することが好きでここに文章を書き続けているのだ。