2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.5.15

日本代表のメンバーが発表された。ぼくはなぜただの発表を心待ちにしているのだろうか、と思った。最近、自分の高揚感に対して不安を覚えるようになった。世の中に起きる全ては自分がそれに関心を抱かなければ存在しないものとしてみなされるような気がするのだ。ぼくは人間不在の社会について深く考え、興味を持ってきたはずだった。少なくとも、家を引越しするときはそこに残された空っぽの空気を纏った建てつけの家具にたくさん会話をして別れの挨拶をしてきたほどには、人間不在の社会の存在を肯定的に捉えてきた。それでも、積極的な社会参加を拒むような生活のせいか自分の高揚感に不安を感じるのである。意味なんてものを求め過ぎているのかもしれない。そして、自分がそれに関心を抱かなければその出来事は存在しないという考え方も頭の中によぎるようになった。
夜、MeesJoyJannahとドリンク。Meesは多感な若者で、JoyJannahは大学に通っている。Joyは映画を勉強し、Jannahは音楽を学んでいる。彼らはこれからパーティに行くと言っていたが、ぼくは家に帰った。家に到着したのは24時半ごろだった。

2026.5.14

最近夜に寝られず、昨晩も最後に時計を見た時には26時半か、それを過ぎたような時間だった。今朝も目は覚めたものの10時までベッドから起き上がれずにいた。明日は日本代表のW杯に向けたメンバーが発表される。

2026.5.13

自分が好きではない方法で、社会を渡っていく人がいる。それが善とされるのであれば、ぼくはそれを否定するのではなく、自分自身が正しいと思うやり方で、自分自身が社会を渡っていかなければならない。現代社会はある種、闘争のような構図を不幸にも抱えていて、自分の中で何かうまくいっていない時は、他の何かがうまくいっているように感じる。自分の正しいと思うやり方で、船を大陸に到達させなければならない。自分自身の方法が偏屈だとしても、正しいと信じていたとしても、もしくは他者が情けない方法で航海をしていたとしても、だ。大波に攫われて難破していてはいけない。特に偏屈である場合には、そして、他者が情けない方法で大陸に到着しているときはなおさらである。

2026.5.12

自分自身にとって、もしその行為が不幸だとしても、その不幸というものが自分の人生に与える深みを鑑みた時に、それが不幸と言えるだろうか。結局のところ、全ては自分次第なのだろうか。自分次第という考え方は常に善いものであり得るだろうか。
アヤさんがうちへ遊びに来る。

2026.5.11

自分が正しいと思っていることが本当に正しいという確証はどこにあるのだろうか。自分がそれを正しいと思う以外に、それを正しいという確証を持つ方法はあるだろうか。

2026.5.10

ぼくが、特にオランダに来てから、主題として撮り始めている壁と扉、どちらも道を作るものであるのは間違いない。精神的な意味で道が記すものは、行き先を示す光の差し込む道でもある。「この世界は閉ざされた扉である。それは一種の障壁である。そして、同時に通路でもある。」シモーヌ・ヴェイユはそう言った。サミュエル・ベケットも、シモーヌ・ヴェイユも、大江健三郎も、ぼくに精神的な光の存在とそれが人間の営みにおいて大きな力になるということを示してくれる。

2026.5.9

 品川くんと彼の珈琲屋品川やの一周年記念品を作っている。やっと入稿までたどり着いた。去年撮った写真が1年越しに形になって、なんとなく目の前にあった紙の壁みたいなものにジャンプして突き破ってしたような感覚があり、嬉しい。それは昔テレビ番組とかでよく見た、紙の裏側にいる人が紙を突き破って登場するものによく似ている。紙自体は、大した障害ではなく、大きな障害は自分自身の心にあったり、「飛び込んでください」という掛け声みたいなものを求めていたりするだけなのである。その壁は実際には障害ではなく、通路になる。シモーヌ・ヴェイユもそう言っていた。テレビ番組の話ではなく、扉は障害ではなく、通路になる、と。