2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2024.10.5

 「ある意味ではいいよね」とぼくが大学生の頃からよく耳にするようになった。昔からある言葉かもしれないが、明確に覚えているのは、大学生の頃からだろう。
「本来の意味を踏まえるとそれほどだけど、ある意味ではいいよね」の省略か。
「真正面から見るとそれほど大したことないんだけど、横から見たらいいよね」とか「きちんと捉えるとそれほど大したことないけど、まあ違う側面もあるよね」とも言い換えられるだろう。ぼくらの生きる世界には、まさに「ある意味ではいいよね」が氾濫している社会だ。
真正面からきちんと捉えようとすると非常に大したことないものが溢れすぎてはいないだろうか。そろそろ「ある意味ではいいよね」というのをやめた方がいい、ぼくたちの社会を自分自身の言葉によって破壊することになりはしないだろうか。

2024.10.3

時間を見つけて、一言でも文章を書かないといけない、文章を書き出すとすぐに終わるわけでもないし書き続けたくなるのは当たり前なのだが。これがコツでもある。嫌でも始めてしまうと意外と進められる。ベッドから起きるのが嫌だなと感じていても、起きて顔でも洗ってしまってしまえばもうベッドから起きたくないと思っていたのが嘘のようである。ランニングを毎日続けたくても、走り出すのが億劫である。しかし、走り始めてしまえば気が乗れば10kmでも走ってしまう。
ここ数日感情的に文章を書きたくなるような感情にさせられるのは、ぼくの文章の愛読者である吉田くんがぼくが感情的になる話題を毎日ふっていたのだろうか。馬に乗って歩くのが楽しい人が、馬が歩かなくなったから釣竿で馬の顔の前ににんじんを吊るすことによって馬を前進させたように、吉田くんもぼくが文章を書きたくなるような話題を日々提供してくれていたのだとすると、彼の頭の良さを見習いたいと思う。

2024.10.2

 ぼくのこの文章の愛読者を公言している吉田くんと一緒に家の周りを歩いていると「ここが日記に出てきたカフェですね、嬉しい」とか、「日記に出てきたビーチに行きたいです」とか言うものだから、恥ずかしさと同時に羨ましさを覚えた。人の文章や小説、作品の中に出てきたものに実際に出会えることなんてなかなかない。映画のロケ地を巡る人もいるが、この場所で描かれたのか、作られたのかと思うともっとその作品なり文章が身近なものに感じられるだろう。自分がこう書くと自分が偉大なことをしているような描き方になってしまうが、そういうわけでもなんでもない。
ぼくも、デン・ハーグに住みながらゴッホが住んでいた、フェルメールが時々絵を描きにきていた、スピノザがいた街であると思うと彼らの作品や文章が親密なものに感じるのである。

2024.10.1

吉田くんと安齋さんが今日から家に泊まりに来ている。
家でディナーをしながら、日本とヨーロッパのブックデザイナーと本を作る仕事をしているという話を聞いた。8000円程度で販売しようとしていたが、ヨーロッパのデザイナーは€40、日本のデザイナーは4000円台で販売したい、と各々から意見が出た。日本では、4500円程度でしか販売するのが難しいのではないかという日本のアートディレクター意見にぼくは顔を顰めた。今まさに自分の本の値段を決めているからだ。その話の流れで、オランダでミーティングをした他の雑誌を作っているディレクターやデザイナーとの話の中でも共通していたのが、学生が買える値段にしたいということだと教えてもらった。
最初の書籍の価格設定の話も、後者の学生に届けたいという話も、雑誌であることをのぞいては、どこのポイントをとってもどうも腑におちず、怒りのような感情さえも湧き起こり寝れなくなってしまった。もちろん、どんな本ができるのかも知らなければ、どれだけの人がどんな風に携わっていて、何冊刷るのかさえ知らない。しかし、本当に人間は「価格」でものを買っているのだろうか、ぼくたちは熱狂と興奮、欲望でお金を使っているのではないだろうか。作り手は、そこに写されたものや書かれたものの持っている熱狂と興奮を湧き上がらせる存在になるべきではないだろうか。人々は、ものに魂を奪われるべきではないだろうか。そんなことが頭をぐるぐると巡った。少なくともぼくはお金に魂を売ったような人間にはなりたくない。ものの価値は価格によって左右されるべき存在だろうか。価値は価値として時代の流行などに左右されつつも、独立した存在にさせてあげるべきではないだろうか。しかし、価値は誰が判断するのか、これは話がこんがらがるので、ひとまず今日は書かない。
ものが買われていくのは、販売者がどれだけの熱意で販売したいかによって左右するし、買い手がどのくらい欲しいかでも左右する。デザインだけして在庫に責任もなく販売もしないうちは、本当の熱狂なんてものがわからないままに値段を社会のイメージだけで決定し、それらが世の中にあたかも以前からあったかのような顔をして浮流していく、そんな姿はぼくはみたくない。ぼくは、もっとダイナミズムを持った社会のあり方に興味がある。自分が熱狂させられるだけの熱量とファンを持っていたら、価格なんてものは売れるかどうかだけでは決定されない。
Cairo Apartmentは自らでデザインをし、多くはないコピーを販売しようとする出版社としている理由の背景には、今日の話でいうところの「価格」というものには熱量や感情で超えられるものが確実に存在し、自身で作ったものを自身で販売する、もしくは信頼できる熱のある書店やディストリビューターの助けによって販売することで本やアーティストが持っている純白な魂のような、強く燃える炎のようなものを絶やさずにむしろデザインやアートディレクションという薪をくべる行為によって届けたいと思っているからだ。
個人的には、昔からみんなが買っていなかったものが好きだった(それは時に高価だった)。それに、ぼくは気軽に買えるものよりも、もしそれが大量に存在するものだろうが1点ものだろうが、初任給で買ったマッキントッシュのコートとか、両親への旅行チケットとか、親の財布から盗んだお金で買ったどうしても欲しかった1冊の本、みたいな、どうにもこうにもならないほど喉から手が出るほど欲しくて、その個人にとってこの購入経験やもの自体が人生の柱になるような物語のあるそんなものを作りたい。給食代を盗んでまで欲しいと思わしてくれる熱狂と興奮を持ったものはいまでも作られ続けているだろうか。
とか書いていると、ぼくたちの下の階に住むSandraの息子Killyanが陽気なハンドクラップをしながらポップソングを大熱唱していて、こんなことを考えている自分がアホらしくなった。

2024.9.30

時にはそれができないと自分自身に言い聞かせてしまった方が楽なこともある。例え、その可能性が残っていたとしても。しかし、それは人間にとって健全な思考のあり方だろうか。もし健全でないとしても、それをすることのほうが少しくらいは健全に近い存在でいられるのだろうか。

2024.9.26

6時半起床、デン・ハーグを離れパリへ向かうカナさんを見送る。トラムに乗り込んだカナさん の後ろ姿には、何かを寂しさなどは存在せず、きっとすぐ会うのだろうという気がした。
家に帰り、トイレに座りながら、ふと思った。と書いたところで突然頭の中から書きたかったことがするすると抜け出した。ぼくは何を書きたかったのだろうか、ぼくはトイレで何を思ったのだろうか。それすらをもぼくはここに書き記さないと二度と思い出すことはないだろう。こうやって文章を書いているうちに書こうと思っていたことがある場所からどんどんと離れていくような感覚がある。それを追いかけるためにどんどんと文字を打ち込んでいくが、それでもそのスピードを上回るスピードでどんどんと離れていくその言葉は、結局なんだったのかわからない。

2024.9.25

昼から電車でユトレヒトへ行く。シュレーダー邸を目的にした日帰り旅行。
世界の至る所にまだまだ見るべきものも、見たいものがある。そう思うと、世界には自分が知った気になったものは多数存在していて、情報という寝転んだ状態から、実際に目の当たりにすることで、経験として立体感を持たせむくむくと立ち上がらせる必要がある。
先週末にVan Gogh Museumでゴッホを見た時にも思ったが、自分が小学生の頃に憧れていた絵画の現物がここに存在しそれを実際の肌に浴びせるように見るということが自分の人生の盾となるのではないかと思っている。
しかし同時に、ぼくは小学生から大学生までの欲求によって蓄積されてきたものをすり合わせるような作業を20代と30代初頭で行った結果、ここ数年間過去に執着し始めようとしているような度胸のない自分の感覚さえをも垣間見るような気がして、ゾッとするのである。それは、老化の始まりであり、死への第一歩である。世界は成長し、文化は受け継がれ、新しいものはどんどんと生み出され淘汰され、過去のものは新しいものたちの価値観によって再発見される。それは、何もない広大な砂漠に家が立つことによってそこに三角形の影ができたかのように。
そんな中で自分自身の10代、20代に受けた影響をひきづったまま人生の折り返し地点とも言われるような35歳を迎えたくはないと思ったのである。筋肉は、30歳を超えるとどんどんと少なくなっていくというが、文化への意識とか知的欲求とか、そんなものは10代、20代、30代はほっておいても筋肉同様に存在するのだが、いつの間にか過去にしがみついたような、「ぼくは昔は毎日10km走っていたんだ」というような過去を賞賛するものへと変化するのである。常に現代のアップデートされた自分の感覚によって新しいものも古いものも関係なく自身にとっての新発見に喜びや好奇心を抱き探求することをやめてはいけない。それが自分自身の今後の人生の食糧となっていくような気がしている。
言葉で言うのは簡単なんだけどな。