2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.10.14

アントワープのUnkruidのSebastianとJosineからビデオコールできないか、と突然メールが来た。13時からビデオコール。新しく楽しいことができそうである。
1年以上前にUnkruidでやっているプロジェクトが面白そうだったので、「何か将来的に一緒にできそうなことがあれば声かけて欲しい」とメールを送っていた。それから何も返事がなく、DSM銀座のバイヤー夛田さんが彼らと仲良いので、今年の1月に二人のところに泊まりにいっていた際に、彼らからぼくへのメッセージを受け取ってくれていた。それから特別に何も連絡もなく、直接の会話もなかったのだが、先週くらいに友人Frederiqueの主催するミュージックフェスティバルDucttapeにKim David Botsの名前がアナウンスされ、なんとなく見覚えがあったので、調べているとUnkruidのショートフィルムのサウンドトラックを担当しているミュージシャンだった。DSM銀座のオープンハウスでもパフォーマンスを行なっていた。そんなことで色々徘徊していると、それもまた偶然、今朝Unkruidからもなぜかメールが届いた。時に現実に起きることは何か一本の糸で繋がったかのように、どこかを引っ張れば芋掘りのようにそこにくっついているものが同じようにずるずるとついてくることがある。ビデオコールで、Sebastianは彼らのプロジェクトの話とビジョンの話を熱心に聞かせてくれた。彼がいうには、ぼくの活動を知ったのは、ぼくが昨年送ったメールではあったものの、4年ほど前に、今はなきロンドンのLivingstone Studioでぼくの『To Find The Right Chair』を見たことがあって、強く印象に残っていたことをふと昨日思い出したのだという。わかりやすく大げさであからさまに激しいものを嫌うようなぼくの性格のせいもあるが、『To Find The Right Chair』はある種の強烈な抑制が効いた異常な世界観を纏ったCairo Apartmentの処女作であったなと時々思うのだがーそれは、自分がJUN IWASAKIであるのか、Cairo Apartmentの主宰であるのかによって大きく変化する感覚ー、あの時の、今以上に無知で粗野な心が一つの無形の価値を作っていたことは間違いないし、可視化できるそれら色形だけではなく、どのお店に置きたいか、どんな風に流通するのか、とか、ある種の視座と心持ちがあった。「とても気に入っているが本の販売はしていないのでできない」と言われても、それでも「一冊展示してくれないか」と食い下がらずに声をかけたそのお店の一つがLiving Stone Studioだった。その頃の炎のようなものはまだぼくの心の中に灯っているだろうか、まだ潰えてはいないだろう。そして、今日の出来事に繋がるようにそんな小さな炎を見つけてくれるような人もいれば、その炎に薪をくべてくれる人もまたいる。この出来事は、心への栄養となると同時に、今のぼくに釘を刺すかのような日だった。
夜は、Nelly Kaplan『 La Fiancée du pirate』、UnkruidによるCassandra Lafon『shape the space around yourself』を鑑賞。『shape the space around yourself』は、かなり名作であるので、まだ未鑑賞の人や既に観た人にも再鑑賞を強くお勧めしたい。


2026. 10.13

この夏、全く2100年の生活学を更新していなかったのだが、10月10日、2100年の生活学におけるタイトル的な日付ではなく、実際的な刻の日付としての10月10日を境に書かないければいけないし、書くことで再び自分の生きる時間を自分の力で掴むことでしか、地に足がつかないのではないかと思った。ということもあり、突然なんの前触れもなく書いている。ここに戻ってこれたことが何よりも嬉しい。毎日書いていなかったといえば嘘になり、書いていたと言えばまたそれも嘘のような夏の2ヶ月があった。怒濤のような時間があり、なんとなく夏の暑さに流されたような感情があり、この海のある田舎町にある人々の楽観的なリズムに揉まれた思考の巡りもあったはずなのに、それらはまだ形となって姿を見せていないとも言える。多くは、macbookのメモに記録されていたり、iPhoneのメモに記録されているのだが、それでもある種の言葉として成立して独自の音やリズムを持っていない状態である。徐々にここにぽっかりと空いた空白を埋めるように回想的なものも含めて書き加えていきたいが、まずは1日1日の言葉に注力したいとも思う。
あまり普段は前日の文章を読み直すようなことはしないのだが、久しぶりに書いたこともあり、昨日の文章を読んでいると、「合理主義で利己的な人間の対になるように楽観的で感情的な野性的な人間」と書いていた。自分が書いたことなのに、既に過去の人もしくは他者が書いたかのような文章として読んでいる自分がいて、恥ずかしながらその言葉選びがとても興味深く思えてしまった。会話のように即興的に書いていると、言語の矛盾とか文法的な間違いや意味を捉えるのが難しいこと、時に間違えすらをも飛び越えるようなことがある。それがまたぼくは好きでもある。誤字脱字も含めて、それさえをも超越した文章によって他者の中に感情を隆起させたいと思いながら書いているのだが、自分が書いたはずの文章なのに、対義語ではない言葉を対義語のように使えるのが言葉の不思議で面白いところであるし、そんな感覚を持ち合わせていたいと、自分の文章を読んでいて思った。別に自分を特別視するわけでもないし、自分自身を「アーティスト」だとか特別な感覚を持っていると思うことも全くない。これはぼくだけが喜んでやっているかもしれないなと思うことはあるが、自分にしか捉えられない感覚があるとも思わない。
真夜中にNelly Kaplan『Plaisir d'amour』を鑑賞。結局30時前にベッドへ行った。最近はあまり眠れない。

2026.10.12

月曜日。突然ものすごく寒くなったので、家の3つある部屋と4つある扉をピシッと閉めきり、ベッドルームではない小さい方の部屋に篭る。他の部屋の電気もつけず、小さいスペースで2人と1匹で過ごしていると、カーテンがなくともそれなりに暖かいなと思えてきた。2025年の電気代が異常な金額だったので、今年の年明けから追加徴収に首が回らなくなりそうになり、それ以来完全に暖房の栓を締め、過ごしている。夏は電気がいらないし、全く問題ないのは承知の上だが、この時期あたりからは厳しくなりそうだ。健康のためにそんなケチっていても仕方ないとは思われるだろうが、暖房をつけても寒いのだから、寒いなりの動き方を学ぶべきではないだろうかと思う。動物は適応する生き物なのだから、寒ければ体を動かすだろうし、暑ければ動かないだろう。寒ければ太るだろうし、さむければヨガやランニングもするだろう。自己を中心に据えた考え方を肯定するような生き方にそれほど魅力を感じないぼくではあるし、そんな人々の行動を見ているとうんざりする日々ではある。そんなことでぼくは感情を失った合理主義の利己的な人間ではなく、それなりに楽観的で感情的で野性的な人間として環境依存をするためにも既に締まっている暖房の栓を再びグッと締め直した。

2026.10.11

 昨日はぼくの住む海のある田舎町ではミュージアムナイトが開催されていた。町中のミュージアムや関連施設で夜中までイベントやコンサート、アクティビティが開催されるというもの。話を聞いていると、この町にはイベントが多いという、それは人々が出歩くのが好きだからなのかはわからないが、とにかくパブリックイベントが乱発している。無料ではない。国が街を起こすようにイベントを企画することは、素晴らしいのか。という疑問が湧いたので、友人に「ミュージアムナイトについてどう思っているのか?」と話を聞いてみたら、素晴らしいとのことだった。明らかに人が動き出すし、人々が協力して自分の街を作ることは素晴らしいかもしれないが、ぼくは、なんだか情けない気持ちになってしまった。実際に色々な人々が参加することによって、金銭面でのサポートもあるのだろう。市からの助成金もあるのだろう。しかし、実際にそこに存在するアクティビティの内容はどうだろうか。それらは本当にアーティストを支援するためのものだろうか、団体や施設がアーティストに機会を与えるのではなく、忙しない中で知人や身内に相談してイベントを企画していないだろうか。身近なもので固めていないだろうか。本当に満足する、企画者自身がお金を払って行くだけのクオリティを担保しているのだろうか。心躍るイベントはそこに存在するのだろうか。そんな風に考えていると、助成金をもらった施設の活動は本当に目も当てられないものがある。そこに卵が必要なのだから、卵を用意する。それがフリーレンジが、オーガニックか、ローカルなのか、美味しいのか、なんて、気にしていない。ぼくはこの海のある田舎町ににいると、どうしても、そこにあることの重要性しか感じされないのである。枠が先に決まり、そこに埋めあわれる何かが必要なので用意しているように見えてならない。本来、そこにトマトがあるからガスパチョを作ろうと思うのではないか。だから、夏にスッキリと食欲を満たすようなガスパチョができるのだ。
作品制作だってそうだ、アワードを受賞するための作品も、助成金をもらうための政策や作品も存在する。それらは、誰のために存在するのか、ぼくにはまだわからない。
ぼくは、常にオーガニックな形でありたいと思う。

2026.10.10

ぼくにとってはここで文章を書くことはただの自問ではなく、自問と並走してくれる具体性と蓄積をともなった身体的なランニングのようなものなのかもしれない。
ここに文章を書き殴ることでしか消化できない感情があり、恋人に話すでも、家族に話すでも、友人に話すでもなく、また自問するだけでもその感情は消化できず、出口が見つからない。その出口というものは自分で歩き回って見つけることもあるのだが、ここに日記でもない、散文でもない、詩でもない、短編でもない、本当なのか嘘なのかすらわからないような文章をただただ書き殴ることによって、自らを奮い立たせたり、言葉のリズムを掴んだり、思考の詰まりを促したりしていると出口が見つかるような、出口から差し込む光を見つけたりする。
また、時にその苦しみを何も知らないトリックスターのような人や、その瞬間にただ出会っただけの自分にとっては顔のない人によって出口がもたらされるようなことすらある。ぼくが常に野生性を持った人間に惹かれ続ける理由としては、出口がないように見えるところでも彼らがいとも簡単に出口を作ってしまうような力を持っているからだろう。
占い師には興味はないが、何も知らない人に話を聞いて欲しいとか、誰にも打ち明けられないようなことを抱えてしまっている時とか、顔のない自分自身として、そして、顔のない他者として話を聞いてくれるような存在は人間社会にとても大切なのではないだろうか。祇園や銀座で遊んだりしている人は、その瞬間に全てから、おそらく重力からすらも解放されているように見える。祇園や銀座のような場所だけではなく、市井の人間にとっては、告解室のような、社会に具体性を持って存在しながらも、マップで黒く塗りつぶされるような、ブラックホールのような地球外もしくは惑星宇宙の外へ繋がるような場所、意識の外へ繋がるような、家でいうトイレや煙突のような場所がきっとぼくたちには必要である。システムやルールが社会を締め付け始めるならば、そのグレーや黒く塗られた場所は細く貧相な姿になっていくだろう。
そして、その有限の中での無限への思考の導線を与えてくれるのが、瞑想であるとも言えるが、何よりも「物語」なのではないか。無限に広がる有限宇宙の縁をなぞるのではなく、有限宇宙を豊かなふくよかさと、温かみを持ったものへと変換させるものとして。

2026.8.10

友人が海のある田舎町に遊びに来てくれて、楽しい時間を過ごした翌日はいつだって感傷的になってしまう。それを誤魔化すかのように夕方までひたすらに溜まっていた仕事を終わらせる。それが全てお金になっているかと言われると正直そうは思えないし、どうも道楽というか、趣味というか、お節介というか、心が動くことにしか注力できないが故の問題でもあるが、スケジュールを考えるだけでゾッとする。最近、音楽を聴いていると、大学生の頃にただただひたすらにザッピングするように読み漁ったりしていた本や映画、音楽そのものというよりもそのころを思い出す感覚がある。一方で、今はどちらかというと好奇心含めリサーチや作品制作にためになりそうだとか、自分の趣味の範囲での鑑賞が増えたように思う。
旅行同様に、仕事で行くついでに旅行したり、書店やショップがあるからリサーチ的な要素を兼ねて旅行したりしていて、10代や20代の最初の頃の旅行なんてものは、とにかく少しでも好奇心に触れたら旅出たような気がしていた。それが何か形になるとか、何かを得るとか、考えていただろうが、文脈とか、潮流とかそんなものは自分の中にしかなかった。

2026.8.9

聖子ちゃんはアントワープに行ったので、ぼくは家で過ごす。ぼくが自分の焦燥感やモラトリアムが正しい姿を持っていた頃の気持ちに立ち返られる存在としてーいや今も焦燥感とモラトリアムで溢れてはいるのだがー勝手に心の支えにしている米山さんが、ニュースレターを月に一度書かれるというので、黒鳥舎のニュースレターに登録した。全体の感想以上に、ぼくが見たくないと避けるように目を閉ざしていたような事柄について彼女の立場を持って正面から向き合った言葉が書かれていたので、非常に嬉しい気持ちになった。全体はニュースレターに登録したら読めるので、文章の文脈がとても大事なことは理解した上で最後の一部を引用させてもらう。

 最近のグラフィックデザインの潮流として、そもそもフォーマット化を目指さない「アンフォーマット」とでも名付けられそうな考え方がある。ルールやグリッドからいかに逸脱するかという問いをさらに進め、そもそもグリッドを意識しない(ように感じさせる)、フワフワとした脱中心的な振る舞いをデザインする傾向があるように見受けられる。デザインのためのツールが発達したおかげで2D的要素を操ることが簡単になり、そこから擬似的な奥行きを獲得するための3D的表現がかつてほどの労力をかけずにできるようになったこともあるのだろう、重力を感じさせない視覚的な効果が増えている。
 それがもたらす効果は一体何を批判し、何を寿いでいるのだろう。その表現に自由さを感じつつも、その一方でアンフォーマットが定型化し、崩し方のフォーマットが早くもできつつあるように感じることもある。フォーマットからさまざまなことを学んだ身としては、納得感もあるが同時に寂しさを感じなくもない。これは今後どうなっていくんだろうと思いながら観測している。