2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2024.12.2

来年に向けた準備が着々と進んでいる。と、書いて思ったが、準備というのは基本的には未来を見据えた行為なのだから、12月にする準備というのは大体来年に向けたものが必然的に多くなるなと思った。もう12月なのだ。
メールと梱包作業をして、発送をしに行こうと思ったところ、大雨が降ってきて断念。16時半にはもう辺りは暗くなる。
暗くなってから大江健三郎『河馬に噛まれる』読了。みんな素晴らしい作品を作り続けていて、どのような形であれ、その作品を楽しめるという今の環境を嬉しく思った。映画も、小説も、全ての作品は、細部まで理由があるべきだろうか。頼まれていないもの、作る必要がないかもしれないものを作っている意識は少しくらい持ったほうがいい。ビジュアル的な側面から考えると、人が作るものなので、細かく理由や狙いが具体的にあればあるほど良いのか。

柿が音の鳴るものに落ち、静かな夜に一音だけ鳴らすという描写の短編がずっと頭から離れず、ああでもないこうでもないとiphoneの写真を探してみたり、日記を読み返したりして調べたところ、芥川龍之介『ビアノ』だった。柿ではなく栗だった。そんな曖昧な記憶を頼りに、ぼくは『ピアノ』のような作品を作りたいなと頭の片隅にずっと考えていたのだ。

2024.12.1

ついに2024年の最後の月になった。もうオランダに来てから一年が経過した。あっという間に時間が過ぎて行ったような気もするし、振り返れば色々なところへ行き、想像もしていなかったような場所へ行き、鴨がネギを背負ってくるということもあれば、苦虫を噛むような経験もし、浮き沈みの多い一年だった。沈みが多いか。それは、自分が自分の人生に対して望んでいる側面を垣間見ているような気もした。
忙しすぎるわけではないのだが、ぼくの計画力や遂行力のなさから、11月までの数ヶ月の怒涛の時間を過ごし、Cairo Apartmentの販売も少し形になってきて計画していたことの流れが見えてきたので、自分の制作について考える時間もやっと増えてきた。数日前に三脚を抱えて徘徊していると、この写真撮影の方法を取るのであれば、自分が撮りたいものは「季語」を意識して撮るべきだと具体的に認識してから、「季語」の組み合わせや社会情勢によって起きる出来事を今の場所と時間なりにもう少し深く考察するべきではないかと思った。過去の作品は捻じ曲げられることはないと信頼しているところがあるが、同時に過去の作品を読んでいても見えてこないものは数多く存在し、同時代の作家からしか感じ取れないものが多数存在する。ぼくは、あまり同時代を意識してこなかったところもあり、理解が不足していたが、同時代の作家は、現代であることを具体的に意識しているのかと感心。
夜、濱口竜介監督『偶然と想像』を鑑賞。第三篇が終わった時に、「あ、これで終わりなのか、もう一編見たい」と思わされるほどにとても面白くて、考えさせられた。各編に特に影響し合うような関連性があるわけでもないので、エリック・ロメール『六つの教訓話』のようだった。この三編の中で共通する「偶然」が、映画という誰かの手によって作られたものの中で浮かび上がるのを見ていると、映画や作品の中での偶然性というのはなんだろうかと『偶然と想像』で狙われていた偶然とはまた違う意味合いの偶然性について疑問に思った。それは考えられて計画的に行われたあくまで偶然という姿をしたものである。
それを映画の中で物語るということは、映画というある種の虚構空間の中で虚構性を排除するためであるのだろうか。『偶然と想像』では、いかにも日常的な物語が展開する中で、その物語の中で偶然性が一つの虚構のようであり、鑑賞者や演者でさえも、こういうことあり得るよねというほどにリアリティを持った偶然が各編で登場する。
もちろん映画といえども現実世界で撮影されて編集されたものである故に、ここで捉えられる「偶然」とはまた別に映画の中での想像もしない偶然性というものも存在し、撮影場所によっては天候に左右されることもあれば、ストリートで行われることによってなど、他にもあるだろうが、例えば長回しにすることによって、不確定要素が作られた虚構の中にどんどんと含まれていく。それを「偶然」がひょいと忍び込むのだろうか。この映画でタイトルにある「偶然」とは全く違う側面を持った偶然が作品には存在する。
『偶然と想像』内では、鑑賞者に想像を委ねた部分も面白いと思った。実際に登場人物の言葉で語られるものと登場人物の表情や演技が語るものの不一致から、鑑賞者が勝手に想像するもの、また登場人物各々が想像していることなどが、入り混じり、新たな物語が映画の画面の中だけではなく外で展開しているような気がして、よく考えられた映画だなと思った。写真にも文学にもない映画ならではの側面を見せられて、羨ましく思った。昔からぼくは映画が作りたいと思っていた。
物語の話でいうと、その偶然がなければ、登場人物たちの想像すらもなかったという構図に興奮。映画批評ではなく、映画をみて、自分の視点で自分の日常生活や活動の中で疑問に思っていることとリンクしたことについて書いている。的を得ていない映画批評のような文章になったが、これは映画批評ではなく、日記である、と誤解を招かないように最後に書くことにする。

2024.11.24

ステラの散歩に行く。ここのところとても寒かったので、中にフーディを着て、ダウンを羽織り、ジャケット、手袋と、かなり着込んで家を出たが、拍子抜けするほどに暖かい。家に帰って気温を見たら13℃だった。今日は16℃まで上がるらしい。
14時に家を出て、森を抜けて、海へひたすら歩く。三脚を担いで歩いているが、三脚がないと見えないものもある。ぼくのカメラサイズで三脚は必要ないかもしれないが、三脚を持っていても家に置きっぱなしにしていると三脚の意味がないというような記事を読み、なんとなく感心した。結局、何も家に置きっぱなしでは何も意味がないのである。「ものは使われてなんぼ」という考え方は、単純だが、その考え方にはきちんと実態が伴っている。そういう点では、うちにあるものの多くは使われるためにしか存在していないものが多い。椅子は少し多いかもしれない。、足りないかなと思っているくらいの方が、使っているかもしれないし、そのもの本来の意味を越えた利用方法をされるので、人間の知恵と道具が融合して、ぼくはなんとなく好きだなと思う。この三脚は一時期、コート掛けとしても使われたし、今でも天井に取り付けられたファイヤーアラームが鳴った時には伸ばしてボタンを押すのに使われている。
iphoneのメモに「Six songs of the invisible matter 」というメモ書きを見つけた。どこから取った言葉なのか、それとも自分で思いついた言葉なのかのメモがないので思い出そうにも思い出せないのだが、最近気に入っていて2025年に出版したいと思っているぼくの本のテーマになるそうだ。目に見えない問題についての6篇の賛歌、「Six hymns for the invisible matter」の方がいいか。そんな言葉を頭に入れながらカメラを抱え、「ものは使われてなんぼ」という言葉が時々横槍を入れるように、思考を巡らしながらキョロキョロしながら歩く。5回ほどシャッターを押した。どれもなかなかいいと思った。途中で三脚をセッティングしていると、同じく三脚を抱えて歩いてきた青年に「フィルムカメラですか?」と声をかけられた。「そうだよ」とぼくはいい、彼はシンプルに「Black or colour?」と尋ねた。ぼくも一言シンプルに「カラー」とだけ答えた。「写真を撮るのにいい時間だね、楽しんで」とさらに続いた。ニュージーランドのEmileと似た声色をして、嫌味なくいきった印象もなくとても爽やかだった。
結局17時半ごろに家に帰宅。17時前にはもう真っ暗になってしまうので、暗いうちからベッドを出て、活動しないと1日の生産性が少ない。最近、Cairo Apartmentから新しい書籍が出たこともあり、自分の制作から離れてしまったような交渉とやり取りが続いていたので、少し自分の制作活動のための頭を取り戻すためにいい日になった。出版社として、他のアーティストや作家と協働し、本を作る、
作家の違う側面を映し出すこと。それはCairo Apartmentとしてぼくがやりたいことの一つであることには間違いない。しかし、聖子ちゃんがデザインをしているせいか、それは二人の関係性の中で生じる軋轢のようなものにも思われるかもしれないが、二人の仕事分担の関係で、ぼくがお金の話と交渉ばかりをすることになるのだが、忙しくなるとぼくはナラティブを伝えること以上に各所へのメールとお金の話、営業ばかりでバランスが崩れてしまってしまっていることに気付き、本来自分が出版社を通じてやりたいことにはなかなか届いていないような虚無感というか、悲しさまで生まれている。決して本を売りたくないとか、交渉による新しいの価値の創出が嫌だという話ではなく、むしろそれも本をデザインしたり編集したりすることと同様に重要なことだと認識しているのだが、単純に自分の中本来解決するべきバランスの問題である。細かく話したいし、色々なことを加味した上で人と人としての対話をしたいと思いすぎるが故に、どうも気を抜くと心の隙間からヒョロヒョロと虚無感が入ってくることがある。同じ業界で客を取り合うとか、掛け率の話を延々とするとか、送料の話をし続けるとか、そんなことではなく、全員が同じ船に乗っているという意識のもと話がしたい。ぼくが憧れる社会においては、出版社として、一社だけが成立することなんていうのはありえず、違いを愛でることで、生み出される人間の柔軟さとか豊かさ、ユーモアさ、品格のようなものを大切にしたい。そのためには多くの人たちが思慮深く、真摯にものごとに向き合う環境があればいいと思っている。書店やブティックがあり、購入してくれる人たちがおり、作家がいる。みんな各々の立場から意識と責任を背負っている。書店をしながら、デザインの仕事を受けることで書店を成立させているような人もいれば、書籍をきちんと伝えることによって書店やその地域を盛り上げるような人もいる。それは各々の形であり、優劣がつけられたものではないし、皆が何かしらの形で同じ方向を向いて前に進んでいる状況にぼくは喜びを感じたいと思う。社会のダイナミズムと、人間のユーモアと品格を育てることに本が一端を担っていて欲しいと願う。本を買うこと、本に触れる、読む、家に所有するという機会が増えたり大きくならないことには書籍文化は狭い世界でしか問題解決の糸口を持とうとしないのではないか。いかに最低限の基礎と保てるか、そこから少しくらいは現状を拡張できるのかということに挑戦しているという側面を出版社としてぼく自身は持っていると思っているが、「そんなことをぼくが考える必要あるのだろうか」という風に思うことだってある。しかし、「そんなことを考える必要があるのだろうか」と思わしてしまう社会には問題があるのではないか。
この前に日本に帰った時に「無用の用」という言葉が叔父の家の玄関にかけられているのを見て、当たり前のように心にスッと入ってきた。自分の指針にしよう思ったわけではないもののぼくの頭の中からその言葉が離れず、何かある度に頭の中をよぎる。最近、サインをかくこと機会も増えたので、名前だけではなくこんな風な言葉をいれるのもいいなと大江健三郎と渡辺一夫の話を読んでから思っている。「無用の用」調べてみると荘子の言葉であった。「無用の用」も思慮深くならないと見えてこない概念ではないだろうか。
特に怒っているわけでもなく、絶望的な気分な訳でもなく、ぼく自身が傲慢にならないように自分に向けて戒めの言葉として、ここに書きたいと思った。いや、2024年11月24日の20時ごろには絶望的な気分だったかもしれない。

2024.11.23

遅めの日記を書き終え、夕方ランニングに行く。ビーチまで往復40分ほど。6.5kmを40分という1km6分程度のスピードであるが、継続していると歩くことなく走り切れるようになってきた。今日は最高気温3度で、風が強く横殴りの雨が降る中でのランニングだったが、それでも自分の意思を持って「ランニングをする」という時間を取ることができたのは、ぼくにとっては素晴らしいことである。走ること自体も重要ではあるが、寒くて暗いから億劫になるとか、別に誰にも頼まれてないから、という言い訳を自分の中からなくして17時前に家を飛び出すことができたことが何より素晴らしい。言い訳というのは他者のためのものであり、自分のためではない。自分のもののようでありながら、誰かや何かへの言い訳なのである。そんな風に考えると、誰に頼まれてもないことが自分自身のものであるとも言えるか。自分自身の存在について考えたときに、自分自身であるべきだという前提を持ってしまったという際には、自分自身が社会に存在する価値というのは一体なんなんだと思う。思考を繰り返し、言葉やイメージを残すことが何かのためになると信じて続けることが自分自身の存在について考えることでもあるのだろうか。社会に存在する価値と自分自身でありたいという私欲のようなものとがうまく接点を持つ、そんなことはあるのだろうか。家に帰りシャワーを浴びながらそんなことを考えた。
夕食後、ステラの散歩に行き、街を徘徊していると住んでいるブロックから数ブロック先に行ったところにかなり賑わっているレストランが出来ていた。夏頃までは古風なイタリアンレストランだったが、構造的には居抜き物件だろう、改装され、うちの近くのカフェBowieに影響されたかのような内装と佇まいをしている。しかし、どちらにも言えることだが、客層がなかなかぼくには馴染みがない感じなのである。ガラス張りで中の賑わいが街に漏れ出すようなお店が増えることは、嬉しい。特に冬の寒空の下に、室内の熱気が伝わり曇ったガラス越しにオランダらしい優しいオレンジ色の光を街に届けてくれる風景はなかなか美しいと思う。寒い中街を歩いていて光が漏れ出すのを見ているとオランダの街には冬がとても似合うなと思わされる。去年もそうだった。そのお店に行きたいと思わされるかは別としても、街にまた新たな光が生まれたことをぼくは素直に喜ぶべきだろう。

2024.11.22

8時に起きて洗濯物を洗濯機に突っ込んで、1時間ほどステラの散歩に行く。10時過ぎにコーヒーとバゲットを食べる。洗濯物を干し、昼過ぎまであれこれと作業をして、14時半ごろにベーコンと芽キャベツのリゾット。オランダに帰ると再び、時間のズレた生活が始まった。朝は、7時40分にアラームをして、8時には起きようと思いながらも、なかなか起きられず、二度寝をしたりしながら8時半までには起きるようにはしているが、顔を洗って歯を磨いて、洗面所で鏡を見ながら笑ったり、体操をする。ステラの散歩に行き、聖子ちゃんが10時ごろに起きてくるので、コーヒーを淹れ、朝食を食べる。それがデン・ハーグの生活の始まりである。朝、時間をうまく過ごす方法はPCやIphoneを極力触らないこと。それから、日記を書いたりなんだかんだしているとランチの時間が14時から15時頃になり、結局日が暮れる頃にはあまりお腹が減ってなくて夕食をあまり食べないような生活。もちろん、もっと早く起きて朝の時間を充実させるというのも考えようによっては正解だと思うが、自分の中でまだリズムを掴めていないのは、起きる時間ということ以上に、朝の時間を聖子ちゃんと合わせようとするもんだから、結局なんだかんだ自分の時間を掴んだ生活をできていない日々なのだろう。合わせる必要ないという意見もあるだろうが、ぼくは、合わせないのであればなぜ同じ家で一緒に生活しているのかともよく考える。家族で夕食を一緒に食べたり、なんとなく朝も一緒の時間に食べたりしている経験が多いからだろうか。もしくはそんな光景を目にしてきたからだろう。しかし、23時台には布団に入るぼくとは違って、聖子ちゃんは夜に仕事をしているので、早く寝て早く起きるということはないだろう。聖子ちゃんは何事も人に合わせるような性格ではないので、ぼくが大体合わせることになる。まあ、それが自分たちの生活スタイルなのであればそれをあまり悲観的に捉えずにその中で自分の時間の流れのようなものを捉えていくしかないのである。自分の時間は自分だけのものなのである。しかし、そんなことを考えていると、自分の捉えている時間というものや持っている時間というものが自分のものだとしても、自分自身というのは、本当の意味で自分のものだろうかとふと思った。自分では自分自身だと思っているその身体も思考も、本当の意味では自分のものではないのではないか。たとえば、自分自身の全身特に顔を客観視するには鏡が必要であるが、洋服屋で働いている人間や鏡を磨く職人を除いては多くの時間を鏡の前で過ごすのではない。その見た目は、人のために存在するのである。人のためというとかなり語弊がありそうではあるが、自分自身が対峙する他人が見るものとして、存在する。そう考えると、自分の見た目というものさえも、自分のものではなく、他者のものであるのではないか。そこに個性としての髪型や化粧、洋服の着方、振る舞い方、笑顔の作り方、姿勢などがあるとしてもそれは自分の個性ではあるが、自分のものとして自分自身に戻ってくるものではなく最終的には対峙する他者のものとして存在しているようではないか。変な髪型をするのも、汚い見た目をするのも、個人の自由で個性ではあるが、それが他者のものであるとして捉えた場合には、自分自身が社会性を持ったコミュニティあるいは対人関係の中にいるのだとすると、なおさらである。また、思考でさえも、他者や対峙するものや感情との関係によって生まれているぼくたちの生きるこのような状態においては、その思考でさえもピュアに自分のものではないとしか思えず、身体性も思考においても自分自身というものはどこに宿るのだろうか。自分の存在というものが本当の意味で自分自身のものであるというのは、自分が捉えようとしている時間とか、自分のための習慣とか、目の前を移ろいゆく感情を捉えて形にするとか、そういうことでしか理解することができないのではないか。本当の意味で自分自身をこの世の中に存在させているのは、自分の物質的な存在ではなく一般的には不確かだと言われる時間を捉える力だとか、人が目印のように日々の中に持つ習慣とか、感情とかそんなもののみではないだろうか。
自分が自分自身であることについては、もう少し考えたいが今日は日記を書くのが遅くなってしまい、今は11月23日の1633分。今日の日の入りは1641分なので、今準備をしてランニングに行かないと辺りは真っ暗になってしまうので切り上げることにする。

2024.11.21

朝からアムステルダムに向かう。ある時期までバスで行っていたのに、最近ではバスの予約と時間を合わせることを面倒がっているのか電車で行っている。バスで行くと座っているだけでいいし、乗り過ごす心配もない。アムステルダム市内といっても行く場所によってはバスの到着駅がとても便利なこともあるが、とにかく時間の融通が利かないのが問題だ。
アムステルダムで行商。Carmen、Huis Marseille、Athenaeumに本を紹介し買ってもらう。ひと段落して、Rembrandt Houseにいくも、どうも疲労困憊だったのだろうか、フラフラとしてしまい、借りた音声ガイドすらも頭に入ってこなかった。古い家の構造のせいだろうか、それとも単純に疲労だったのだろうか。ここのところ、今日のように、低血圧が酷くなっているのか血が巡ってないなと感じることが多くなった。例えば、朝もきちんと目覚められないし、座っているだけでも足が痺れてしまったり、食後にめちゃくちゃ眠くなったりする。日々の食事を含めた生活環境とか、溜まっている悩みとか、そんなものを少しずつでも自分で納得しながら生きていくしかない。ぼくの場合、身体の不調よりも精神的な不調が具体的な形で身体に出てくる。雪が降り始めた街をフラフラと徘徊し、18時前にStacks Dinerで一服。カウンターに案内され、カモミールティーを注文。ジャケットのポケットからkoboを取り出し、大江健三郎『河馬に噛まれる』を読み進める。仕事を終えて、家に帰る前にどこかで気分を変えるように本を読むのはいつぶりだろうかと思った。
ちらっと前を向くと、カウンターの中に見たことある顔をした好青年が立っていた。メルボルン出身のフォトグラファーNickだった。久しぶりの再会に話し込み、彼はバーカウンターへ、ぼくは再び『河馬に噛まれる』へ戻った。アムステルダム在住のグラフィックデザイナーぐまこさんが仕事帰りで立ち寄ってくれて、1時間ほど話して電車でデン・ハーグに帰宅。

2024.11.20

今日のように絶望的な気分の日が時々訪れる。何もしたくないし、できない。ほとんど一日中部屋に篭っていた。そんなことをしたところで何が起きるわけでもないし、自分の人生や生活が誰かの手によって好転するなんてことは望んでもなかなか起きない。逆に誰かの手によって、もしくは自分が判断を誤り、大変なことになるなんてことはよくあるだろう。それでも自分自身にしか自分の生活する権利はなく、自分の生活に忍耐と、変革をもたらすために向き合うしかないのである。どれだけ怒っていたとしても5秒ほど目を閉じて、太陽の日差しに意識を向けたり、頭のてっぺんに身体の気を動かす、みたいなことをすると、目の前にある生活がフレッシュになるということもある。そうやって新しい目の前を見る方法を自分なりに編み出さなければいけない。

東大大学院のwebジャーナルで野上貴裕さんによる『シチュアシオニストの「日常生活」論』、とても興味深かったので、そこから少しだけ引用。ぜひ全編読むことをお勧めします。

「アガンベンが指摘したように、私たちは完全には私たちの自由にならないものと関係しつつ生きていくしかない。いわゆる外的なもの、すなわち大地や気候、環境、他者などをはじめ、言語や、「自らのもの」として登録されがちな身体や精神なども完全にコントロールすることは不可能である。それでも私たちは、それらが私たちに対してもつ異邦性を何とか馴致し、親密なものへともたらすことで生を何とか生きうるものにする。習慣を生み出すこと、あるいは自らの生のスタイルを作り出すこととは、世界の異邦性を縮減することにほかならない。もちろん私たちが扱うさまざまなものの疎遠さが根本的に消え去ってしまうことはない。世界は突然私たちに牙を剝くし、身体は突然不調を告げる。そのようなとき、私たちの世界や身体はコントロール不能な他者として立ち現れる。いかに習慣化され同じことを繰り返す生活であったとしても、その日常は極めて脆弱なのだ。日常とは従って、世界の異邦性と私たちによるその親密化とがせめぎ合う、絶えざる緊張の場であると言える。私たちは「形式化」あるいは「スタイル化」という武器をもって異邦性を内に巻きこみつつ何とか防波堤としての習慣を形作るしかない。」