2100年の生活学 by JUN IWASAKI

Translate

2026.10.11

 昨日はぼくの住む海のある田舎町ではミュージアムナイトが開催されていた。町中のミュージアムや関連施設で夜中までイベントやコンサート、アクティビティが開催されるというもの。話を聞いていると、この町にはイベントが多いという、それは人々が出歩くのが好きだからなのかはわからないが、とにかくパブリックイベントが乱発している。無料ではない。国が街を起こすようにイベントを企画することは、素晴らしいのか。という疑問が湧いたので、友人に「ミュージアムナイトについてどう思っているのか?」と話を聞いてみたら、素晴らしいとのことだった。明らかに人が動き出すし、人々が協力して自分の街を作ることは素晴らしいかもしれないが、ぼくは、なんだか情けない気持ちになってしまった。実際に色々な人々が参加することによって、金銭面でのサポートもあるのだろう。市からの助成金もあるのだろう。しかし、実際にそこに存在するアクティビティの内容はどうだろうか。それらは本当にアーティストを支援するためのものだろうか、団体や施設がアーティストに機会を与えるのではなく、忙しない中で知人や身内に相談してイベントを企画していないだろうか。身近なもので固めていないだろうか。本当に満足する、企画者自身がお金を払って行くだけのクオリティを担保しているのだろうか。心躍るイベントはそこに存在するのだろうか。そんな風に考えていると、助成金をもらった施設の活動は本当に目も当てられないものがある。そこに卵が必要なのだから、卵を用意する。それがフリーレンジが、オーガニックか、ローカルなのか、美味しいのか、なんて、気にしていない。ぼくはこの海のある田舎町ににいると、どうしても、そこにあることの重要性しか感じされないのである。枠が先に決まり、そこに埋めあわれる何かが必要なので用意しているように見えてならない。本来、そこにトマトがあるからガスパチョを作ろうと思うのではないか。だから、夏にスッキリと食欲を満たすようなガスパチョができるのだ。
作品制作だってそうだ、アワードを受賞するための作品も、助成金をもらうための政策や作品も存在する。それらは、誰のために存在するのか、ぼくにはまだわからない。
ぼくは、常にオーガニックな形でありたいと思う。

2026.10.10

ぼくにとってはここで文章を書くことはただの自問ではなく、自問と並走してくれる具体性と蓄積をともなった身体的なランニングのようなものなのかもしれない。
ここに文章を書き殴ることでしか消化できない感情があり、恋人に話すでも、家族に話すでも、友人に話すでもなく、また自問するだけでもその感情は消化できず、出口が見つからない。その出口というものは自分で歩き回って見つけることもあるのだが、ここに日記でもない、散文でもない、詩でもない、短編でもない、本当なのか嘘なのかすらわからないような文章をただただ書き殴ることによって、自らを奮い立たせたり、言葉のリズムを掴んだり、思考の詰まりを促したりしていると出口が見つかるような、出口から差し込む光を見つけたりする。
また、時にその苦しみを何も知らないトリックスターのような人や、その瞬間にただ出会っただけの自分にとっては顔のない人によって出口がもたらされるようなことすらある。ぼくが常に野生性を持った人間に惹かれ続ける理由としては、出口がないように見えるところでも彼らがいとも簡単に出口を作ってしまうような力を持っているからだろう。
占い師には興味はないが、何も知らない人に話を聞いて欲しいとか、誰にも打ち明けられないようなことを抱えてしまっている時とか、顔のない自分自身として、そして、顔のない他者として話を聞いてくれるような存在は人間社会にとても大切なのではないだろうか。祇園や銀座で遊んだりしている人は、その瞬間に全てから、おそらく重力からすらも解放されているように見える。祇園や銀座のような場所だけではなく、市井の人間にとっては、告解室のような、社会に具体性を持って存在しながらも、マップで黒く塗りつぶされるような、ブラックホールのような地球外もしくは惑星宇宙の外へ繋がるような場所、意識の外へ繋がるような、家でいうトイレや煙突のような場所がきっとぼくたちには必要である。システムやルールが社会を締め付け始めるならば、そのグレーや黒く塗られた場所は細く貧相な姿になっていくだろう。
そして、その有限の中での無限への思考の導線を与えてくれるのが、瞑想であるとも言えるが、何よりも「物語」なのではないか。無限に広がる有限宇宙の縁をなぞるのではなく、有限宇宙を豊かなふくよかさと、温かみを持ったものへと変換させるものとして。

2026.8.10

友人が海のある田舎町に遊びに来てくれて、楽しい時間を過ごした翌日はいつだって感傷的になってしまう。それを誤魔化すかのように夕方までひたすらに溜まっていた仕事を終わらせる。それが全てお金になっているかと言われると正直そうは思えないし、どうも道楽というか、趣味というか、お節介というか、心が動くことにしか注力できないが故の問題でもあるが、スケジュールを考えるだけでゾッとする。最近、音楽を聴いていると、大学生の頃にただただひたすらにザッピングするように読み漁ったりしていた本や映画、音楽そのものというよりもそのころを思い出す感覚がある。一方で、今はどちらかというと好奇心含めリサーチや作品制作にためになりそうだとか、自分の趣味の範囲での鑑賞が増えたように思う。
旅行同様に、仕事で行くついでに旅行したり、書店やショップがあるからリサーチ的な要素を兼ねて旅行したりしていて、10代や20代の最初の頃の旅行なんてものは、とにかく少しでも好奇心に触れたら旅出たような気がしていた。それが何か形になるとか、何かを得るとか、考えていただろうが、文脈とか、潮流とかそんなものは自分の中にしかなかった。

2026.8.9

聖子ちゃんはアントワープに行ったので、ぼくは家で過ごす。ぼくが自分の焦燥感やモラトリアムが正しい姿を持っていた頃の気持ちに立ち返られる存在としてーいや今も焦燥感とモラトリアムで溢れてはいるのだがー勝手に心の支えにしている米山さんが、ニュースレターを月に一度書かれるというので、黒鳥舎のニュースレターに登録した。全体の感想以上に、ぼくが見たくないと避けるように目を閉ざしていたような事柄について彼女の立場を持って正面から向き合った言葉が書かれていたので、非常に嬉しい気持ちになった。全体はニュースレターに登録したら読めるので、文章の文脈がとても大事なことは理解した上で最後の一部を引用させてもらう。

 最近のグラフィックデザインの潮流として、そもそもフォーマット化を目指さない「アンフォーマット」とでも名付けられそうな考え方がある。ルールやグリッドからいかに逸脱するかという問いをさらに進め、そもそもグリッドを意識しない(ように感じさせる)、フワフワとした脱中心的な振る舞いをデザインする傾向があるように見受けられる。デザインのためのツールが発達したおかげで2D的要素を操ることが簡単になり、そこから擬似的な奥行きを獲得するための3D的表現がかつてほどの労力をかけずにできるようになったこともあるのだろう、重力を感じさせない視覚的な効果が増えている。
 それがもたらす効果は一体何を批判し、何を寿いでいるのだろう。その表現に自由さを感じつつも、その一方でアンフォーマットが定型化し、崩し方のフォーマットが早くもできつつあるように感じることもある。フォーマットからさまざまなことを学んだ身としては、納得感もあるが同時に寂しさを感じなくもない。これは今後どうなっていくんだろうと思いながら観測している。

2026.8.6

坂田さんからいただいたお土産のパッケージを見て、嬉しくなる。なんと素晴らしいデザインばかりなのか。育った土地にいるとその美しさに全く気付かなかったようなことが違う土地にいると感じられるのは、唯一と言っていいほどに喜ばしいことである。
正解や最も適切なことを追い求めるような時代が到来して新しくはないが、そんな時代の潮流に抗うのは、友人や家族らに迷惑をかけながらもお金にならない出版社をすることかもしれない。この時代において、「失敗こそが学びだ」という言葉からさえもぼくは不信感を感じている。失敗が学びで成功の糧になるなんていうのは、成功こそが正しい人生のあり方だと言わんばかりである。成功しないことや、本当にうまくいかないようなことを意味も求めずに感情や自分のためにやっていることがどれだけ他者の心に自由を与えるのだろうか。ぼくは、Claris Lispector『Agua Viva』の一節からA Song from the Laundry Roomというシリーズを始めたが、彼女が『Agua Viva』の中で描いた描写は、世界を柔軟にするきっかけになるのではないかとぼくを後押ししてくれた気もする。たとえ大失敗しても、若しくは失敗すると思っていてもやること。誰が歯が白くないといけないと言ったのか、誰が歯並びがよくないといけないといったのか。もちろん歯並びによる身体への影響は学術的根拠を得ているが、それでも本当にそれだけが唯一の正しさではない、と強く思いたい。矯正が悪いわけでもないし、矯正することのメリットもぼくは感じている。しかし、一方で矯正しないという選択をした際にはそれがネガティブな選択だけではなく、能動的に正しさに抗うということによって得る体験からしかそれがよくないことだったとは言い切れないのである。だから、歯並びが悪いのであれば、歯並びが悪いなりに能動的に正解と言われていることに対して逆走してボロボロになってしまうべきなのである。そして、そこから決して何も学ぶこともなく、それでもなお能動的に正解に対して抗おうではないか。正解のようなものを提示されるような時代において、大きくそれに逆らいながらうまくいかないような方法でうまくいかない状態を続けることもある種の世界へ石を投げることになるし、人々にきちんと視座を与えることになるのではないだろうか。盛大に失敗してしまおう。しかし、成功を願わなければ、成功を願ってくれている家族と友人からはすぐに見放されるだろう。ぼくは、きっと多く成功するだろう、ときに「失敗」という捻れた姿をして。やる気に満ち溢れている。

2026.8.5

坂田さんが今年もオランダに遊びにきてくれたので、アムステルダムのWinkelで合流。年末に会った以来会っていなかったはずなのに、つい先日会ったかのように再会し、そのまま何気ない話がすぐに始まる。アップルタルトを食べる。Fromagerie Abraham Kefに行き、いくつかのワインと、チーズを買う。Bookie Wookieに行く。Bookie Wookieは、何かに抗う作家たちの作品が集まっているので、ぼくにも勇気を与えてくれるし、いつも背中を押してくれるような気持ちになる。少しの人々の行為それぞれが世界のユニークさを担保していることを思い出させてくれるように。ぼくもA Song from the Laundry Roomの新作を発表する必要がある、制作だ。夕食前にWynand Fockinkで一杯。前に行った際は酔わなかったのに、今回は絶望的に酔った。最近気に入って何度か行っているWeinlokal Sternで夕食。隣に座ったグループの中にいた一人の女性がとても魅力的だったが、誰にも言わなかった。その女性の持つ不機嫌そうなオーラなのか、一癖ある髪型だったのか、どちらかというとムチッとした痩せ細った身体ではなかったからなのか、姿勢なのか、所作なのか、魅力的だった。誰にも言わなかったが。何をするでもないが、ぼく自身の中に留めておくことにした。22時半ごろの電車で1時間くらいかけて海のある田舎町に帰る。

2026.8.4

朝、フランスに住む写真家の正岡絵理子さんと1時間半ほど電話。相変わらずエネルギーに溢れている。先月の日本滞在のことと新刊についてなどお互いの生活について、キャッチアップ。彼女の人生で起きていることのいくつかはぼくの人生にも当てはまり、彼女の人生で起きていることのかなりの多くはぼくの人生には当てはまらず、ぼく自身がいる状況が選択肢に溢れていることに気付く。選択肢がないことは閉鎖感をもたらすかもしれないが、同時に選択肢がないということはやることが明確であるとも言えるのだろうか。それが感情的に、健康的かということはどちらにも言えないのであるが。選択肢が多くてその選択肢の多さに溺れるような日々を送る人と、選択肢がなくて苦しむ人。選択肢が多くて自由な日々を送る人と、選択肢がなくてやるべきことに集中している人。二元論ではないが。