2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.5.27

 終日、お腹と背中の鈍痛に襲われ、あまり気分が良くない。動けないほどでもなければ、ヨガや瞑想、筋トレ、ステラの散歩は全く苦なくいつも通りに過ごす。それにしても筋肉が全くつかない。激しい痛みは具体的だが、鈍痛は精神的に不安を煽る。夜は、豆ご飯と味噌汁、サラダを食べる。21時からカンファレンスリーグ決勝を観戦しようと思ったが、インターネット環境のせいかうまく再生されないので、Wim Wenders『ゴールキーパーの不安』鑑賞。Robbie Mullarの撮影がめちゃくちゃいいのか、WIm Wendersがどれだけ指示をしているのかはわからないが、写真的な構図が多く、絵は面白かった。全体的にはあまり好きではなかった。そもそも根本的に、Wim Wenders作品をあまり魅力的に思えたことがないので、本作も同様にぼくにとってはなかなか見応えのない映画だった。それでも、教訓のようなものはあり、主人公はどの街に行っても、新聞を求め、ラジオを聞き、TVをつける。それは逃げる人らしい行為だとも言えるが、その中でそれでもどの街でも映画館へ行く、ジュークボックスをかけるなどという超私的な行動が具体的に描かれていて、この主人公のように逃げているわけではないものの、ぼくも彼のようにいろいろな土地に住んだり行ったりする人間として、ある種の自分の存在を確認するように同じ行為をすることの大切さを垣間見た気がした。
集中力が失われてきたせいか、長い文章を一気に書くことができなくなりつつある。昔は、この文章だって一日3000字と決めて、その数字を目指すようにああでもないこうでもないと、一心不乱にキーボードを叩いていたのだが、今となってはそれをすることもせず、量より質と言えば言葉はいいが、どこか惰性のような日もあるのではないかと思う。これで764文字である。

2026.5.26

 昨日は力強い希望と勇気のある言葉が出てくる日だったが、続く腹痛か体調不良のせいか、今日は自分の人生がいかに詰まり詰まった状態にあるかと感じさせられている。人生の転換方法が全くわからない。
一つの出来事で劇的に変わるとは到底思えないし、継続性のある地道な行為や勇気ある選択、信念によって少しずつ変化していくのだろうか。自分のことは自分でしか出来ないということを思いながらも、精神的な問題なのか、他人に頼ってきたラッキーな日々を過ごしてきたせいか、バチがあったかのような感覚もある。ぼくにとって虚無感だけを増大させるような、無意味にも感じるような海のある田舎町での日々に直面している一方で、この土地を選択してきた人やこの土地で生まれ育った人たちを見ていると、自分の態度というものはただ単に彼らに不快感を与える可能性のある、ある種の汚物のようなものとなり得るのではないか。どこにいても快適ではなく、どこにいても文句が出て、どこにいても満足しない、それは自分というものを具体的に理解していないから生まれる感情であり、ここで読んでくれる多くの方々の方がぼく自身についてよく知っているのではないだろうか。自分では自分のことを考えすぎるあまり、自分自身のことを理解できずにいる。行為こそが人の姿であり、思考は他人には見えない。そんなことを考えているとまたお腹が痛くなる。

2026.5.25

ここのところ20代前半の友人たちができ頻繁に話をしているので、頻繁に自分が22歳から25歳くらいの頃に出会った年上の人たちのことを回想している。Dustinだったり、Chrisやエミさんだったり、アスカさんだったり、彼ら彼女らは、エミさんを除き、ぼくが出会ったことには30代の後半に差し掛かるような年齢だった。ぼくのこれまでの人生の指針となってきたが、ぼくも最近知り合った20代前半の友人たちにとってそういう人間であれるのだろうか。それは烏滸がましいかもしれないが、それでもぼくの個人史において大きく影響を受けた人々はぼくが20代の最初にはすでに30代後半だった。彼らが、決して人生がうまく行っていたとか、自分の活動をしていたとか、豊かに暮らしていたとか、そういう話だけではなく、ぼくが20代の最初に出会って大きく刺激を受けた人たちは本来の姿を少し見失いながらも、過去のキャリアや築き上げてきたものに少ししがみつきながらも同時にそれらに別れを告げるかのように次の活動に向かって自分の世界を作ったり、思慮深く、威張ることもなく、強い信念を持っていたりする人たちだった。彼ら彼女らの中にはアルバイトしたりどこかで働いている人がいた、それが決して悪いとは今も昔も全く思わない。そんなことよりも何よりも、自分を見失っていることも、もがくことも、精神が弱っていることも、後悔することでも、本当はこうありたかったということを公言することでもなく、何より悪いのは魂を売って自分自身を騙してしまうことである。彼ら彼女らのその後の活動や今を見るとあの頃彼らが彼らなりにモヤモヤしていた気持ちというのはきっといつか発酵し昇華され美しい世界を見せてくれるのだろうと思わせてくれる。ぼくも少しくらいはそうありたい。彼らに憧れを抱いた一人の人間として。

2026.5.24

 天気がいいので、La Ranaにドリンクに行くも満席で入れず、隣のパブで一服。あまりこの辺りに来ないので、住んでいる場所が違うと街の見え方も全く違うのだろうなということを実感させられる。夕暮れ、Grey Space in the Middleでリリ世ちゃんが演奏するというので、ちらっと覗きに行ってみた。偶然、入り口で彼女に会う。ほんの少し立ち話をしたが、犬が中に入れないとのことだったので断念。Restaurant Nでディナーして帰る。今日は昼頃に暑さのせいなのか、身体が痺れるような感覚があったが、ジンジャービアーを飲んだら少し復活した。糖分が足りてなかったのだろうか。この前アントワープのマーケットで牡蠣を食べていたら、熱中症で突然倒れた人を見てから慣れない暑さへの対応について少々警戒しているが、その時も看病している方が患者の口にコーラーを含ませていて、糖分というのは身体に不可欠なのだろうかと思った。調べたら、実際に熱中症には塩分が大切だという。なんとなく人間であるのにそんなことを知らないで生きているのはどうかと不安にもなる。人間であるのに人間が生きるのに必要なものをそれほど知らない。日々の食事だってそうだ。食べたいものと食べるべきものとがあったりもする。
ここのところまた腹痛だとか上半身背面の痛みだとか、こういった痺れだとか、定期的にぼくを不安にする身体のサインが現れるようになった。突然の暑さがそうさせている、少しすれば落ち着くだろうと思いたいところだが、オランダにいると病院に行ったりするのも億劫になってしまう。億劫になると大体において人間はリズムを失う。

2026.5.23

例えば、なぜ音楽の場合、歌詞がわからなくてもコンサートに行くのに、映画は劇中で話してる内容がわからなければ観に行かないのか。音楽には形がないからだろうか、映画や小説には形があるからだろうか。そしてアートなんかは理解を拒むように存在している。しかし、パブリックな場所に出てくるのに、それでも理解してもらうことを拒もうとする。ぼくの作品も、例えば最新の壁のシリーズなんかは、ギャラリーというパブリックな場所で展示をし、多くの人を誘っておきながらも、鑑賞者が見ることを拒むような、彼ら彼女らの理解を妨げるような作品を展示する。ただの壁である。写真だけ見ると、きれいでもなければ何か複雑ささえもそこには存在しないようである。まあ自分の話はさておき、本当にアート作品は見に行って理解できなくても身になるのか、であれば映画も理解できなくても身になるはずだろう。もしくは、別の言い方をするならば、映画は全てを理解するように仕向けられているような気がするのに、音楽はそれを強制してこない。音楽を鑑賞する方法については様々な方法で深く考えられてきたので、ある種の権利を得ているようにも思える。
例えば、他の例を出すと、ぼくは英語の本を読むが、多くの場合、ほとんど理解していないとも言える。それは、時に内容を深く理解することを超えて、その作家が描いたリズムや空気、そして言葉を探しているとも言える。しかし、ふとぼくは本当にその本が伝えようていることを理解しているだろうか。英語がちゃんと読めないことを盾にし、それに甘えて、赦しを受けるかのように、ある種独自の解読方法を甘えてはないだろうか。それを読書体験と呼ぶこともできるかもしれないが、一方でそれは正しい読書体験だろうか。正しいとは何か。
そんな風に考えた時に、音楽だろうが、映画だろうが、アートだろうが、小説だろうが、全てを理解することの難しさと、作家が意図したことを理解をしようと努めないことへの甘えのどちらもが存在することがわかる。しかし、ぼくが言いたいのは、同時に全てを理解するべきであるということではないし、作家として作品を理解してもらうことに譲歩するのもまた違う。とにかく音楽のように鑑賞について多角的に深く考えて、ある種の「ノリ」を持つことが市民権を得ないことには文化は豊かにならない。

2026.5.22

昼過ぎからビーチへ行く。オランダのビーチで面白いなと思うのは、服を着たら情けなくなることである。それは安い貧相な服があふれかえっているからであり、みんな身体を鍛えて、姿勢もいいからであり、水着姿だと好青年のように見えるのだが、洋服を着るといきなりなんとも貧相な姿に変わる。ぼくは洋服の力を信じていると同時に、裸一貫でも気になる存在であれ、というのを心の底でモットーのように小さく掲げているので、洋服の力によって人間の力が弱まるというのは情けないと思う。

今日から1週間くらいは暑い日が続きそうである。ある日は30度まで上がるようで、やっとオランダにも夏が訪れたような気もする。
これもふと思うことの一つであるが、オランダに来てから長い夏休みのような感覚が拭えない時がある。少し前までは、自分は生きている実感がないとを時々思っていたが、今ではそんな感覚さえもなくなってしまった。全く自分自身の身体を持って時間を捉えられていないような気もするし、全てが仮の姿をしていて、時間さえもがそれをただただ通り過ぎていく。ぼくは何を掴んで今という時間と同じスピードで進んでいるのだろうか。
何か執着のようなものや憧れなど、そんなものが少しずつ失われ始めている。そして、今ぼくは仮の姿をしたまま仮の場所に仮のものと一緒に過ごしているのではないだろうか。

2026.5.21

 Chantal Akermanの『Saute ma ville』と『La Chambre 』を鑑賞。
実は、Chantal Akermanにそれほどの興味を持ったことがなかったが、『La Chambre 』はMichel Snowから影響を受けて作った作品だということを読んで、興味が出た。
物事に興味を持つのは、それ自体の良し悪しだけではなく、どのように知ったかとかどんな風に聞いたかとか、どんなタイミングだったかとかそういうものに起因することがとても多い。Chantal Akermanの話だって散々聞いたし、世界各地でレトロスペクティブ的なことをやっていたけれど、そういう方法はぼくにはあまり魅力的に感じず、Michel Snowについて調べているとChantal Akermanの名前が出てきたりするとそれは、Chantal Akermanに興味を持たないわけにはいかないのである。
ぼくの作品や本だって同じで、どこで見つけるかとかどうやって作品に触れるかとか、そういうものは各々が作品との距離感や関係性を築くためにとても大切だなと思っている。