2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.2.22

また大きめの笑えない額の電気代とガス代の追加徴収が来たわけであるが、もう年明けからお税金やら支払いやら、追加徴収やら、何かとお金を払いすぎている。もう既に今年に入って大おおよそ7000ユーロ以上も何か「得体の知れないもの」に奪われている気がする。ぼくが今住むオランダは、ガス代と電気代を過去の実績や自分の予想によって払う金額を決めることができる。もちろん会社も自由に選べる。しかしだ、もし使いすぎた際には今日届いたように追加徴収がやってくるのである。水道代も同様である。そして、年始には市民税に変わるようなものも請求が来ていた。ビザの更新も、税理士への支払い。お金が何か自分の人生の重要なファクターになっているわけではないと信じたいが、こんなに大金を払ってまでこの街に住むべきなのだろうか。もちろん、日本と税金の構造が違うし、税率も違う、日本と比べるなんてことを違う国に住むものがするべきではないことを十分に承知しながらも、それでも力ずくで奪い取られるかのように失われるお金を見ていると、そう思わざるを得ない。実態はないが確実に存在するものを信じるものとしては、使ってしまったガスも信じるべきだろうが、疑いすらもかけたくなるような笑えない金額である。
それでも、ぼくは希望に目を向けていたいし、美学を持っていたい。
David Byrneのことばではないだろう、しかし彼のライブで画面に映された言葉にこんなものがあった。「Late rather than making ugly」ぼくは妙に納得した。

2026.2.21

紙や本を扱うことを喜びとしているせいか電子書籍koboを毛嫌いしていた聖子ちゃんが突然浅田彰『構造と力』を読んだことがないので読みたいといいkoboで買った。今日からkoboはぼくのものではなくなった。いつだってこの構図だ。気に入っているニットもスウェットもアウターも大体気付けば彼女のクローゼットの中に吸い込まれていく。それは、彼女の選択かもしくは物の選択か。八百万の神を信じるぼくとしては、どちらも真実だろうが、最も確実に真実だと言えることは今日から当分の間koboは彼女のものになることである。

2026.2.20

最近、シャンプーを替えた。誰からのおすすめもなく、何かネットや雑誌で見たとかいうこともなく、調べて自分で決断したと言えるようなもの。それを聞くだけ、言い聞かせることできっとこのシャンプーは自分にとってトンネルの奥底に弱々しく差し込む一筋の光なのである。人生は、明確に自分の決断だと言えるようなものを肯定していくことかも知れない。それは無知であることと、自信を持つことに繋がる。
シャンプーを手のひらで水と乳化させてから髪に移すこと、パスタの塩の量を計量器できちんと計ること、豚ミンチを炒める時に音が変化してから塩や味を加えること、それこそが日常生活の真理である。

2026.2.19

ここのところ、本当に仕事がなく夕方に穏やかな時間を過ごすようなサイクルが出来ている。
何もせずにソファに座ることさえも忘れていたので、ソファに座ると体の中からじわっと「安らぎ」が血や肉を経由して身体の表面や言葉や仕草に現れる。仕事やお金のことを考えるとものすごく憂鬱になるが、それでも安らぎを得る時間があるのは幸せなことだと思う。

2026.2.18

人生で初めてキャロットケーキを焼いた。初めてホールケーキを焼いた。
昨日、麻婆豆腐を作ったのだが、豚ミンチの音が変わるまで何も追加しないというのを知り、試したかったのだ。豚肉の持つ油がきちんと出きると音が変わり臭みがなくなる。そこからが味付けの出番。ちょっとした変化でものの質は変化することを改めて実感。
キャロットケーキも明日にならないと本当に美味しいかはわからないが、やっぱり先週あたりに書いた風月の理論通りRose Bakeryで働いた経験がキャロットケーキ作りを簡単なものにしているのは間違いない。Rose Bakeryではぼくはペイストリーはやっていなかったが、作っている姿を何度も何度も見ていた。

2026.2.17

作品や写真に対して、静かな印象を受けるだとか、きれいだと言われるのだが、そんなことを言われたらぼくの作品は鑑賞者には全く届いていないんだなと毎回思う。感想がないというのは最も悲しいが。
「サイレント」という言葉を好まないぼくとしては、「ウィスパー」のような言葉をより好む傾向にあるのは理解していただきたいと思うが、こちらから鑑賞者に対して何か視点を強制するのはぼくの望むところではない。

2026.2.16

アムステルダムに行き、Lottaとお茶をする。東京で一緒に蕎麦屋へ行った以来の再会。その後、AFAS LiveでDavid Byrneのライブへ行く。リュックを持っていたのだが、持って入れないとのことで500m以上も先にあるロッカーまで預けに行くことになった。ライブハウスにはロッカーもクロークもなかった。ぶつぶつ言いながら、時間もギリギリだったので走った。
2曲目にStrange Overtoneが始まり、涙ぐんでしまった。ぼくは、自分の欲望をどれだけ押し殺して生きているのだろうか、と。自分が本当に好きなものや多大な影響を受けてきたものにどれだけ蓋をしたり目を逸らしたりして無視するように生きているのだろうか、と。過去を過去のものとして生きているのか、と。
聖子ちゃんから今日のライブに誘われた時にも、「ぼくは興味ないから一人で行ってきたら?」と返事をした。前日にチケット数枚だけ出てるよ、と後押しがなければ行かなかっただろう。
帰り道、聖子ちゃんはこんなことを言っていた。「昔、手紙にThis must be the placeの歌詞を書いてくれたの覚えてる?だから今日誘ったんだよ」と。大学を卒業してすぐのぼくは驚くほどにDavid Byrneに憧れていて、踊りを真似していた。そうやって住んでいたフィジーの屋外音楽フェスでステージの上に飛び上がって踊っていたのだ。
今のぼくは、本来の自分の欲望をどれだけ押し殺して他者と共に生きているのだろうか。もしくは、押し殺して生きようとしているのか。もしくは、押し殺すことに慣れてしまったのか。押し殺すこと以外が出来なくなっているのか。