朝、ホテルから歩いて15分くらいのところにあるMonmouth Coffee Companyでコーヒーを飲み、London Review Bookshopに行くも棚卸しで閉まっていた。隣にあったステーショナリーショップPresent & Correctに立ち寄る。日本のプロダクトがとにかく多く、それらは自分が作ったものでも自分が同じように好んでいるものでもなくとも、文化背景や言語の違う他の誰かが好んでいることをみてとても誇らしい気持ちになった。その後、もう一件ステーショナリーショップChoosing Keepingへ行く。こちらはPresent & Correctとは違って随分古風なキュレーションだった。が、そのキュレーションをみて、紙とはなんぞやという問いを与えられているような気持ちになった。気づかないうちに、緩やかに、時間の経過とともに確実にぼく自身の世界は狭い方向に歩を進め、ポリッシュされているのではないか、自分は多くのものを失っているのではないか、と。多様なお店のスタイルと客層が受け入れられるべきであるし、好みや、個人史の中での現在地など、さまざまな理由でそのお店の形で存在しているが、Present & Correctに比べるとChoosing Keepingには、どこか今人々が失い始めている難解でー時に強引なーキュレーションというのを見せつけられたような気がした。整頓された中に宿る美と、カオスの中にのみ存在できる美。いまだに言語化されることのないその美は、訪れた人間に確実にまとわりき、その後の日常に小さな種を蒔くだろう。文房具屋さんに行くといつも、フィジカルでなくなっていく世の中で、どうやって生計を立てているのかと不思議な気持ちになったりするのだが、誰かが人が目を向けないもの、もしくは目を向けなくなってきたものに愛情と熱を絶やさない限り、社会はストレッチしその柔軟さを保ち続けるだろうし、人々はその柔軟さによって、他者を理解する余地を保ち続け、自らを昇華させることができる。決してそれがもしお金儲けとしてはそれほど魅力的ではないとしても、静かにかもしれないが確かに社会に豊かな柔軟性と人間のための社会を保ち続けているのだろう。
午後、Serpentine Galleryでデイビッド・ホックニーの展覧会。ぼくの目から見ても明らかにだらしない姿のフットボール観戦に来ただろう日本人を散見し、少し悲しくなった。旅の恥はかき捨てではないということを自分にも戒める。夜は、ToklasでPre-Theatre ディナー。何度行っても良いお店だ。お店はどうやって訪れたか、誰と行ったか、どうやって知ったか、ということがとても重要であるということもある。そう考えると、ネットで知ったお店やgoogle mapで知ったお店に訪れるという現代的な行為は、これまでの人間が人生において豊かだと思っていた物語を失っているとも言えるだろう。ホテルまで歩いて帰る。今日はそれほど寒くなかったが、ずっとトイレに行きたかった。
午後、Serpentine Galleryでデイビッド・ホックニーの展覧会。ぼくの目から見ても明らかにだらしない姿のフットボール観戦に来ただろう日本人を散見し、少し悲しくなった。旅の恥はかき捨てではないということを自分にも戒める。夜は、ToklasでPre-Theatre ディナー。何度行っても良いお店だ。お店はどうやって訪れたか、誰と行ったか、どうやって知ったか、ということがとても重要であるということもある。そう考えると、ネットで知ったお店やgoogle mapで知ったお店に訪れるという現代的な行為は、これまでの人間が人生において豊かだと思っていた物語を失っているとも言えるだろう。ホテルまで歩いて帰る。今日はそれほど寒くなかったが、ずっとトイレに行きたかった。