2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.8.6

坂田さんからいただいたお土産のパッケージを見て、嬉しくなる。なんと素晴らしいデザインばかりなのか。育った土地にいるとその美しさに全く気付かなかったようなことが違う土地にいると感じられるのは、唯一と言っていいほどに喜ばしいことである。
正解や最も適切なことを追い求めるような時代が到来して新しくはないが、そんな時代の潮流に抗うのは、友人や家族らに迷惑をかけながらもお金にならない出版社をすることかもしれない。この時代において、「失敗こそが学びだ」という言葉からさえもぼくは不信感を感じている。失敗が学びで成功の糧になるなんていうのは、成功こそが正しい人生のあり方だと言わんばかりである。成功しないことや、本当にうまくいかないようなことを意味も求めずに感情や自分のためにやっていることがどれだけ他者の心に自由を与えるのだろうか。ぼくは、Claris Lispector『Agua Viva』の一節からA Song from the Laundry Roomというシリーズを始めたが、彼女が『Agua Viva』の中で描いた描写は、世界を柔軟にするきっかけになるのではないかとぼくを後押ししてくれた気もする。たとえ大失敗しても、若しくは失敗すると思っていてもやること。誰が歯が白くないといけないと言ったのか、誰が歯並びがよくないといけないといったのか。もちろん歯並びによる身体への影響は学術的根拠を得ているが、それでも本当にそれだけが唯一の正しさではない、と強く思いたい。矯正が悪いわけでもないし、矯正することのメリットもぼくは感じている。しかし、一方で矯正しないという選択をした際にはそれがネガティブな選択だけではなく、能動的に正しさに抗うということによって得る体験からしかそれがよくないことだったとは言い切れないのである。だから、歯並びが悪いのであれば、歯並びが悪いなりに能動的に正解と言われていることに対して逆走してボロボロになってしまうべきなのである。そして、そこから決して何も学ぶこともなく、それでもなお能動的に正解に対して抗おうではないか。正解のようなものを提示されるような時代において、大きくそれに逆らいながらうまくいかないような方法でうまくいかない状態を続けることもある種の世界へ石を投げることになるし、人々にきちんと視座を与えることになるのではないだろうか。盛大に失敗してしまおう。しかし、成功を願わなければ、成功を願ってくれている家族と友人からはすぐに見放されるだろう。ぼくは、きっと多く成功するだろう、ときに「失敗」という捻れた姿をして。やる気に満ち溢れている。

2026.8.5

坂田さんが今年もオランダに遊びにきてくれたので、アムステルダムのWinkelで合流。年末に会った以来会っていなかったはずなのに、つい先日会ったかのように再会し、そのまま何気ない話がすぐに始まる。アップルタルトを食べる。Fromagerie Abraham Kefに行き、いくつかのワインと、チーズを買う。Bookie Wookieに行く。Bookie Wookieは、何かに抗う作家たちの作品が集まっているので、ぼくにも勇気を与えてくれるし、いつも背中を押してくれるような気持ちになる。少しの人々の行為それぞれが世界のユニークさを担保していることを思い出させてくれるように。ぼくもA Song from the Laundry Roomの新作を発表する必要がある、制作だ。夕食前にWynand Fockinkで一杯。前に行った際は酔わなかったのに、今回は絶望的に酔った。最近気に入って何度か行っているWeinlokal Sternで夕食。隣に座ったグループの中にいた一人の女性がとても魅力的だったが、誰にも言わなかった。その女性の持つ不機嫌そうなオーラなのか、一癖ある髪型だったのか、どちらかというとムチッとした痩せ細った身体ではなかったからなのか、姿勢なのか、所作なのか、魅力的だった。誰にも言わなかったが。何をするでもないが、ぼく自身の中に留めておくことにした。22時半ごろの電車で1時間くらいかけて海のある田舎町に帰る。

2026.8.4

朝、フランスに住む写真家の正岡絵理子さんと1時間半ほど電話。相変わらずエネルギーに溢れている。先月の日本滞在のことと新刊についてなどお互いの生活について、キャッチアップ。彼女の人生で起きていることのいくつかはぼくの人生にも当てはまり、彼女の人生で起きていることのかなりの多くはぼくの人生には当てはまらず、ぼく自身がいる状況が選択肢に溢れていることに気付く。選択肢がないことは閉鎖感をもたらすかもしれないが、同時に選択肢がないということはやることが明確であるとも言えるのだろうか。それが感情的に、健康的かということはどちらにも言えないのであるが。選択肢が多くてその選択肢の多さに溺れるような日々を送る人と、選択肢がなくて苦しむ人。選択肢が多くて自由な日々を送る人と、選択肢がなくてやるべきことに集中している人。二元論ではないが。

2026.8.3

 Jayとビーチへ。Jayがスイムパンツ一枚でビーチチェアに寝転がりJane Jacobs 『The Death and Life of Great American Cities』を読んでいて、久しぶりにJane Jacobs という偉大な人間のことを思い出した。2017年くらいに映画を観たような気がして、googleしてみると2017年に東京で上映していた。自分の曖昧な記憶は正しい。
人の文句を言ってしまうのは、自分がただただ現状に満足していないだけであり、決して他人に何かを言いたいというわけではないのではないだろうか。最近色々思いついて面白いことがあったのだが、どうも書くことに向かえず、ぼーっとするような、何か考えているが大したことを考えていないような時間を過ごしてしまっている。文章を書くのも忍耐力と、そのキーボードを叩くことによる高揚感に気持ちよくなるか酔ってしまうかなどに大きく左右される。調子がいいとそのキーボードを叩く音に身体が沈んでいくような感覚がある。その沈みゆく身体を浮き上がらせようとキーボードを叩き続けることがまさに思考し続けることだとか生きることだなと思う。その光景は、Samuel BeckettHappy Days』で頭以外砂に埋まっているようなものに似ている。

2026.8.2

東京の物語や、パリの物語を語ることは、その土地に住む人間に物語を生きているのではないかという喜びの錯覚を与える。例えば、多くの50-60年代のフランス映画監督が、Eric Rohmerがパリの若者を描いたり、大友克洋が『AKIRA』で東京を描いたり、村上春樹が『1Q84』で首都高3号線、東京インターから三軒茶屋あたりを描いたり、他にもほとんどと言ってもいいほどたくさんの作家が実際に存在する街の中で、物語を語っている。その事実をごく自然にぼくたちは受け取っているが、その自然さに誤魔化されているものの実は異常なことなのではないかとも思うのである。錯覚と書いたものの、それは錯覚ではなく実際に起きている、物語が語られるその場所に自分自身がいるので錯覚というべきではないか。土地を語ることは新しい物語を生きる人を生み出す。ぼくにもそんなことがしたいと思っているところもある。

2026.8.1

 ランニング。身体から生み出すリズム、例えば友人と話してるときに生み出される言葉の連なりや、ランニング中の息づかいなどは、自分を勇気付けるためのものであるなと走りながら考えていた。生きていると、どうしても他者の介入によって自分が捉えていたリズムを失うことがある。利他的な行為の重要性は必ず失われるべきではないということを大前提として、自分自身が捉えているリズムを失うときに人は調子が悪いという。生きていると、どうしてもそれらは自分の日常にも存在している。では、どのようにして自分からリズムを沸き起こすことができるだろうかというと、呼吸をすることであったり、自分の言葉を放つことである。ここで文章を書くことは、健康的だと思っているのは、ぼくが自分の身体に溜まりゆく言葉や思考をキーボードを叩くことでリズムとして放っているからなのではないか。同様に、ランニングで耳に入る足音や息づかいは、自分を勇気づけるためのものなのだ。きっと多くの人が無意識に実践している朝のルーティンなども同じである。いつでも自分がリズムを作って自分自身を勇気付け進んでいくこと。個人の身体は、決して他人に奪われることはなく、世界が終わりを迎えようとも、太陽が爆発しようとも、そこに身体が存在する限り、自分自身を勇気付けるだけのリズムを自分自身の身体を使って起こすことが可能なのではないか。幸せなら手をたたこうと坂本九は歌ったが、なんと素晴らしいのだろうか。身体があれば、そこからいつだってリズムを取り戻せるのである。

2026.7.31

何か気になればwikipediaを読んでいるのだけれど、この数年で日本語で書かれたwikipediaが減っているように感じている。それについて色々考えてみたが、大きく分けると3つの理由があるのではないだろうか。一つにぼくが調べる物事が日本語で書かれる需要のないものばかりになってきたのか、もしくは日本語でわざわざ書く必要もないと思うwikipedia記事制作者が増えたのか、もしくは英語版記事があるならAI翻訳で済ませて仕舞えばいい、と思う人が増えてきたのか。これは意外と興味深い考察だと思うので、誰かといつか議論したいと思うし、これを読んだ方で何か意見がある人はぜひメッセージでもメールでも手紙でも送ってもらいたいしぜひ議論したいと思う。最初の「ぼくが調べる物事の変化」は議論に耐えない曖昧なトピックなので置いておくとして、二つ目の「日本語でわざわざ書く必要もないと思うwikipedia記事制作者が増えた」というのは、暇な人が減ったということを表しているような気がする。誰でもが制作者になれるプラットフォームが充実しないというのは、日本語話者で暇な人が減って、名誉にもお金にも何にもならないのにそれに時間を費やすことが無駄だと思う人が増えたということだろうか。三つ目の「英語版があるのならAI翻訳で済ませればいい」というのは、ぼくは少し悲しくも感じる。日本語wikipediaは日本語話者特有の情報であり、英語版は世界の情報である。人間が違うから違う情報がある、だから英語版wikipediaを日本語に翻訳するのと、日本語で書かれたwikipediaが違うのである。英語では書かれなくてもよいような日本語話者だけが必要とする情報がある。一方で、描かれるべき現地の美しい情報がある。世界が英語で統一されるとき、いやもうすでに今、ローカル言語の力と、ローカル言語から成り立つローカル文化は消滅し始めているのではないだろうか。同じ社会にも、言語に縛り付けられた文化、言語に縛られない文化があり、そのズレが世界の面白さであったはずだが、AI翻訳の成長によってあたかも世界がそこに一つしか存在しないような見え方になってはいないか。英語版のwikipediaを翻訳するだけでは知り得ない世界が現実には多数ある。日本語版のwikipediaが減っているのは、日本のサブカルチャの衰退をも表しているように思えてならない。ぼくが10代後半に友人たちと何気なく話していた「今後は情報統制されるから英語もきちんと読めるようにならないとね」という会話は今やAI翻訳の台頭によって存在せず、一方でAI翻訳によって日本語で日本を語ることを失ったり世界が目の前にあるということを忘れはしないだろうか。英語のテストで100点を取ることで、英語が素晴らしいものという感覚になってはいないだろうか。いつから語学は100点を目指すものになったのだろうか。英語ができない人は今後生きていけないみたいな価値観は存在するべきではない。言語なんてものはあくまで道具であるが、同時に言語は世界を見る複数の角度を持たせる。日本語が失われれば、いや失われなくとも英語をこれ以上に美化すれば世界の形は変わってしまう。ちなみにwikipedia、日本語では100万記事ほど書かれていて、英語では700万記事ほど書かれている。その100万記事全てが700万記事の中に収まっているとは思わないし、重なっている記事の数が小さければ小さいほど世界がまだユニークさと柔らかさを持ち合わせているということの証明になるわけであるが、例え、その多くが同じ記事だったとしても英語と日本語では持っている情報が違う。ときに英語のwikipediaは多くの情報を得ているが、時に日本語のwikipediaは英語では描かれない奇妙な世界を描いていることがある。ぼくはそんな同じものでも全く違う表情が見えているという世界のあり方にずっと憧れているのかもしれない。グローバルであるということは同じ位置に位置することではなく、ズレをきちんと可視化するということでもある。英語や移民を受け入れることがグローバルなのではなく、世界にあるズレをきちんと認識することがグローバルな世界の姿であってほしい。