2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2025.6.23

 聖子ちゃんがパンを焼いてくれていたので、バターを買いに行ったついでに、安売りされていたアボカドを買った。アボカドが安く売られている多くの場合、少し硬いものが散見されることがある。
少し硬いアボカドを切りながら、もし種のないアボカドが売られていたら買うだろうか、と考えた。
味の側面以外のことを無視してしまったとしても、骨に沿って付いている身が好きなぼくとしては骨のない魚や肉は想像できない。しかし、種のないアボカドはどうだろうか。種がないと包丁をぐるぐると一周させる必要もなければ、種を取るために包丁を種に目掛けて振り下ろす必要もない。それに動物のように骨の周辺と違う部位で硬さや味が大きく変わることもない。アボカドを切っている時に、同時に手を一度くらい切ったほうが、いいのではないかと思っているたちではあるが、楽だとか安全だとかいうことが優先される社会がそこにあるならば種のないアボカドなんてものもじきに生まれるのだろう。手を誤って切らずに料理が上達するのだろうか。
それから、もうすでに存在するものとして、食べごろの表示されたアボカドというものもある。例えば、スライスしてトーストに乗せるアボカドであれば、マッシュしてタコスに挟んで食べるアボカドよりも少し硬めが良いだろう。スムージーにするときはどうか、アボカドを角切りにして玄米と食べる人もいる。
食べごろでないアボカドを食べた時に感じる感情を失うと、人はきっと美味しいアボカドとは何かということを知らなくなるだろう。美味しいものを口にはするだろうが、その人にとってそれが本当に美味しいのか、美味しいの基準を自分自身の中から他者に委ねることになる。それは社会主義的ではないだろうか。一つのおいしさを決める独裁主義者が、みんなの「美味しい」を決めることになる。そんな社会はあってはならない。
ということで、硬いアボカドも柔らかいアボカドにも一喜一憂できる社会があることをぼくは喜びと感じていたい。

2025.6.22

日曜日。大絶賛に詰まっているので、今日も芥川の短編を読み漁る。なぜかというとやはり短辺だからであると同時に青空文庫でたくさんのように読めるアクセスの良さからなのだ。
夕方から酷い頭痛に悩まされる。頭痛なんて随分久し振りである。風邪を引いてしまいそうな気配があったので大量の生姜を入れておじやを作った。復活した気がしたので、26時半ごろにベッドへ行った。もっと早く寝るべきだったと後悔する。体調を崩すのは、体力というよりも精神面である。やることが多かったり、緊張していたり、気が張っていたり、気を遣い続けていたり。ぼくの場合は大抵そうである。

2025.6.21

今日もまた海へ行く。まだ少々の寒さはあるのだが、海に入ってしまって身体を動かしていると身体が慣れてくる。
家で洗い物をして、勢いよく拭いていると聖子ちゃんが大切にしていた皿を割ってしまった。今日もかなり煮詰まったので芥川の短編を読み漁る。結局作業が終わらず27時ごろまで起きていた。

2025.6.20

金曜日、夏らしい天気になってきたので昼過ぎに海へ泳ぎに行く。夕方、アヤさんがうちに来て、みんなで夕食に聖子ちゃんの作ったビーフカレーを食べた。S&Bのカレー粉を聖子ちゃんが日本で買ってきてくれたのだが、久しぶりに日本のカレーライスというような味わいのカレーが食べれてとても嬉しい。何の話をしていたのか覚えていないが24時ごろまで話していて、こんな田舎町でも金曜日の夜道は何と無く物騒な気がしたので、見送りに行く。夜中に散歩するのは楽しい。家に帰って少しだけ作業をして、と思っていたら思いの外捗ったので気が済むまで続け、28時に就寝。

2025.6.19

昨日、芥川の『合理的、同時に多量の人間味――相互印象・菊池氏――』が素晴らしいという話を書いたが、どう素晴らしいかを書かずに、むしろどう素晴らしいのかをなぜか書けずにいた。こういうことこそ、自分なりの言葉で言語化しなければならないはずなのだが、怠ってしまったことに自分自身の怠惰と甘えを感じる。体力的な問題もあるし、生活のリズムが変化したこともある。移動をすると簡単に毎日やっていることができなくなるが、それと同じように起きる時間が変わったり、生活の時間配分が変わると書けなくなる。
ということで、以下、抜粋。
 菊池は生き方が何時も徹底している。中途半端のところにこだわっていない。彼自身の正しいと思うところを、ぐんぐん実行にうつして行く。その信念は合理的であると共に、必らず多量の人間味を含んでいる。そこを僕は尊敬している。僕なぞは芸術にかくれるという方だが、菊池は芸術に顕われる――と言っては、おかしいが、芸術は菊池の場合、彼の生活の一部に過ぎないかの観がある。一体芸術家には、トルストイのように、その人がどう人生を見ているかに興味のある人と、フローベールのように、その人がどう芸術を見ているかに興味のある人と二とおりあるらしい。菊池なぞは勿論、前者に属すべき芸術家で、その意味では人生のための芸術という主張に縁が近いようである。
 菊池の小説も、菊池の生活態度のように、思切ってぐんぐん書いてある。だから、細かい味なぞというものは乏しいかも知れない。そこが一部の世間には物足りないらしいが、それは不服を言う方が間違っている。菊池の小説は大味であっても、小説としてちゃんと出来上っている。細かい味以外に何もない作品よりどの位ましだか分らないと思う。
.....
 今まで話したような事柄から菊池には、菊池の境涯がちゃんと出来上がっているという気がする。そうして、その境涯は、可也僕には羨ましい境涯である。若し、多岐多端の現代に純一に近い生活を楽しんでいる作家があるとしたら、それは詠嘆的に自然や人生を眺めている一部の詩人的作家よりも、寧ろ、菊池なぞではないかと思う。


ぼくも、トルストイのように、その人がどう人生を見ているかに興味がある。



2025.6.18

文章を書いているので、何か自分がどの形で描きたいのか見えなくなることがあり、そういう時は芥川芥川龍之介の短編を読みに青空文庫に行くのだが、今日も読み漁る。
『合理的、同時に多量の人間味――相互印象・菊池氏――』、素晴らしかった。というか、ぼくの人生を肯定してくれているような気がした。

2025.6.17

アヤさんに彼女のyoutubeチャンネルを教えてもらったので、彼女の作曲したDouble-faceを聴いてみた。以前、楽譜を見せていただいたことがあったのだか、その時は、ぼくは楽譜が読めないので申し訳ない気持ちを隠しながらそこに描かれている音を読み解こうとした。満ちているものから剥ぎ取ることによって絵を浮かび上がらせるという行為に感じ、個人的にはとても興味深く感じた。 絵画のように線を描き色を加えるように、音楽は音を鳴らし重ねていくことで出来上がっているのかと勝手に思っていたが、彼女のこの曲は、そこにあるものをどう削ぎ落として絵を浮かび上がらせるか、というような狙いがあるように思えた。それは、写真家が「そこに世界がすでにあること」を前提として、世界をどう切り取るか、ということに似ている。 今日感じたものと同じような言葉を使うなら、写真を撮ることも、世界をどう削ぎ落として絵を浮かび上がらせるかという行為である。 と自分が行っている行為と似た側面を見出そうとこんな風に書いたが、ものすごい強度のある作品であったので、同じ行為だとは言うべきではないだろうと、ここまで書いて思った。 なんとなくぼくの頭に描き出された絵は、ほとんど真っ黒に近い、リヒターのアブストラクトペインティングのようなものの向こう側にちらっと水墨画のような風景がちらりと垣間見えるような感じだった。