2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.1.14

 朝から久しぶりに天気が良かったので、ステラと散歩に行くもうっかりカメラを持ち出し忘れた。そういう時に限っていい写真が撮れそうだなと思うシーンに出くわす。実際に撮れたのかは別として。家に帰ってか、天気がいいので昼ごはんを食べてからステラと一緒に出かけようと思っていたが、太陽の日差しのもとにアボカドトーストを食べていたらそのまま眠くなってしまい、かなり長めの昼寝をしてしまっていて日が暮れていた。ここで書いているように、毎日気分が本当に上がらないので、どうしたものかと思いながら、怠惰なというか、気合が入らなくて、人に言えないような生活を送っている。それでもそれをここに書き記すことは、大切なことを失わないためにも重要だろう、と信じるしかない。夜は、コーエン監督『バートン・フィンク』を鑑賞。聖子ちゃんは、憂鬱で気分が落ち込んでいる時は、いい加減奇天烈な主人公の映画を観た方がいいと言っていた。

2026.1.13

朝から、血液検査に行く。去年11月にも血液検査に来たのだが、その時は血液を紛失され、なんの結果ももらえなかった。その後、日本に行く予定で再検査に行けず、年末年始で忙しく、あれから2ヶ月経った。特に何もないといいけれど、あまりにも生命力のない日々を過ごしているので、自分の感覚的な判断とはまた別の側面から自分の人生において何かが正しく活動しているということを認めてもらいたいと思っている。感覚を大切にしてきたが、その感覚なんてものは曖昧なのでいとも簡単に狂ってしまうし、感覚が依存していただろう軸をもすぐに失う。自分の感覚よりも、体重とか体温とか、筋肉量とか、自分の身体を数値化したり、身の回りに持つ持ち物とか着ているものとか、住んでいる場所とか、そんな実体のあるものに依存して自分の感覚を自分の感覚で捉えられないところに宿らせるのもある意味では健康なのだと感じている。これまでの人生において、ぼくはそれを不健康だと思って生きてきた節がある。

2026.1.12

INDに滞在延長許可証をもらいにいく。帰り、FILMHAUSでお茶をしていると、聖子ちゃんと言い合いになる。色々とうんざりする。ぼうはこんな人生を送るはずじゃなかった。しかし、実際にこの人生を招き入れたのは自分自身であるということに一番うんざりしている。何かどこで何を、どんなふうに歯車が狂ったのか。あの時か、それとも少しずつか。それとも元々こうあるべきだったのか。

2026.1.11

今日もとても寒い。言語で表現できるだけの「寒さ」を通り越し、きちんと服を着ていないと自分の身体が凍ってしまうのではないかと思うほどである。ステラの散歩に行くだけでも首から足元まできちんと防寒しないといけない。父にもらったダウンが大活躍している。寒くてどうしようもない時には、重宝していると感じるが、寒さがそれほどでもないときはこんなに大きいダウンをどうするんだと思っていた。わがままで、文句を言いすぎる性格をどうにかしたい。弘明堂の今はなき坂井先生も、ぼくの身体を触って、本当の性格を身体が邪魔をしていると言っていた。身体がかちこちになり強張っている。そのせいで、本来ぼくが持っている性格をそのかちこちの身体が覆い被さり、そのかちこちの身体がぼくのかわりに身体の外からの何かに対して拒絶したり、文句を言ったりするのだ。その言葉は、坂井先生に言われた時にスッと心に入ってきたのだが、それ以降も坂井先生の教えをきちんと守っているかと言われると、疑われても仕方がない。ぼくの問題は、結局のところ継続できない力と集中力のなさである。昼過ぎまでメールの返事をしたり、諸々の作業をした。今日は結婚記念日なので、14時ごろから遅めのランチ。ゆっくりと食事をした後に、リビングで夕暮れに二人で1時間ほどヨガをした。股関節から全ての毒素が抜けていくと言われて、坂井先生を思い出した。その後、暗くなっていく部屋の中で、溜まっていた日記を書き、20時からSupercopaの決勝バルセロナvsレアルマドリーを観戦。今年に入ってすぐに風邪をひいてしまい、それがまだ長引いている感じがあり、拗らせてしまっている感覚があり、どうもスッキリしない。風邪ではないけれど、何となく息苦しい気がしたり、胸が詰まるような気持ちになったり、やる気が出なかったり、何がしたいのか自分でもよくわからなかったり、決断できなかったり、熱中できるものに向き合うこともできないし、日記だけに膨大な時間をかけてしまって結局仕事も自発的にできていないし、やるべきことにも気が向かない。なかなかじっくりとやりたいことに向き合うほどのまとまった集中力が戻ってこないのだ。困っている。

2026.1.10

 朝からBartine Bakeryにコーヒーを飲みに行く。土曜日だったということをすっかり忘れていた。家を出た10時ごろの気温はまだマイナスだった。パンも上手く発酵していないように思えて、硬くコンビニのパンのようだった。もう少し家の周りに選択肢があればなと日々思わされるが、そんなことを言っても仕方ない。この海のある田舎町での長くないだろう残りの生活を他の都市にあるものや過去にあったものと比較しても仕方がない。ここにあるものだけが全てであり何事も比較できるものではない。夕方、家の近くの魚屋に行くも、19日まで休業とのことだったので、自転車に乗って海の近くまで魚を買いに行く。自転車も修理しないといけない。ぼくの生活は環境に依存していて、その環境が良くないのであれば自分の生活なんてものは存在しない。夜は、『アメリカンサイコ』を鑑賞して就寝。

2026.1.9

ステラの誕生日。誰かのために作る作品なんてものは不健康である。少しでも人に求めているものを作ろうとしていた自分いたことに惨めになった。心を壊すのはいつだって人に気に入られようとする自分自身の心持ちである。別に元々誰からも好かれていないのだから、少々良い評価をもらったからといって、その評価に対して迎合するような人間であってはいけない。もっともっと期待を裏切り超えていくようなものを見せることが彼らに対する作家の敬意である。評価に対して迎合するような人間は、自分自身からかけ離れていく。自分自身とは何か。どこにいる誰か。

2026.1.8

 やっとメールを返したり、書類を作ったりパソコンに向かって作業を始められた。と同時に日記も書く。
海のある田舎町の朝は、8時50分くらいにならないと明るくならない。それのせいか、冬になってから本当に乱れた時間のサイクルの生活がずっと続いているので、自律神経だけではなく身体的な不調も感じている。日本に3週間帰った時には何も睡眠について考えることもなかったくらいぐっすりと眠れていたので、不眠症ではないだろう。ただ、日々の過ごし方の問題である。太陽と共に目が覚め、太陽と共に眠るとまでは言わないものの、太陽とと共目を覚まし、眠くなったら眠るような生活をしたくてもそもそも太陽が出ない。これだけ寒いのに、湯船もなければ、快適な寝具も揃っていない。同時にBraunの目覚まし時計も壊れたままだった。iPhoneをできるだけ寝室に持ち込まないような生活を送っているので、隣の部屋からアラームが聞こえることもあればそんなもの全く効果を持たないこともある。ステラがいるので早く起きてあげないといけないのだが、だらしない飼い主は8時40分まで寝ている。
Braunの目覚まし時計が壊れていることで思い出したが、壊れたものがあれば他の道具たちはそれに追随するようにどんどんと壊れていくように感じる。自転車のブレーキも壊れたし、パジャマのズボンも破れたし、なんとなく調子が悪いものは今身の回りに多い。穴の空いた靴下はすぐに捨てたほうがいいなんてことも聞いたことあるが、その靴下に空いた穴から故障の原因たちは、水の流れが一つの割れ目を見つけた時のような勢いでぼくの生活にどんどんと入り込み、腐食していく。一見それはら連動していなく見えても、連動していて、月末までの支払いが3件あるな、とか、メールの返事をしていないものがいくつかあるなとか、やらなきゃいけないことが溜まっていくのも、同様の理論である。最初は、何気ない靴下の親指裏の小さな穴だったものが、呼水になって、そうやって自分の生活全体をも壊れていく。しかし、生活全体、とは、なんだろうか。生活という具体的な単体は存在せず、自分の生活を構成しているのは身の回りのものや自分自身であるのだから、生活なんてものは具体性を持たない、もしくは小さな物事の集合体なのである。ここに書かれているような日々の苦悩や喜びや葛藤、靴下の親指裏の小さな穴や壊れた目覚まし時計の集合体なのである。それなのに生活が大切であるなんて言っているのである。
Braunに修理のメールをして、月末までに支払うべきだった3つの支払いを済ませ、溜まりに溜まっていたメールを一気に返事をした。