聖子ちゃんがパンを焼いてくれていたので、バターを買いに行ったついでに、安売りされていたアボカドを買った。アボカドが安く売られている多くの場合、少し硬いものが散見されることがある。
少し硬いアボカドを切りながら、もし種のないアボカドが売られていたら買うだろうか、と考えた。
味の側面以外のことを無視してしまったとしても、骨に沿って付いている身が好きなぼくとしては骨のない魚や肉は想像できない。しかし、種のないアボカドはどうだろうか。種がないと包丁をぐるぐると一周させる必要もなければ、種を取るために包丁を種に目掛けて振り下ろす必要もない。それに動物のように骨の周辺と違う部位で硬さや味が大きく変わることもない。アボカドを切っている時に、同時に手を一度くらい切ったほうが、いいのではないかと思っているたちではあるが、楽だとか安全だとかいうことが優先される社会がそこにあるならば種のないアボカドなんてものもじきに生まれるのだろう。手を誤って切らずに料理が上達するのだろうか。
それから、もうすでに存在するものとして、食べごろの表示されたアボカドというものもある。例えば、スライスしてトーストに乗せるアボカドであれば、マッシュしてタコスに挟んで食べるアボカドよりも少し硬めが良いだろう。スムージーにするときはどうか、アボカドを角切りにして玄米と食べる人もいる。
食べごろでないアボカドを食べた時に感じる感情を失うと、人はきっと美味しいアボカドとは何かということを知らなくなるだろう。美味しいものを口にはするだろうが、その人にとってそれが本当に美味しいのか、美味しいの基準を自分自身の中から他者に委ねることになる。それは社会主義的ではないだろうか。一つのおいしさを決める独裁主義者が、みんなの「美味しい」を決めることになる。そんな社会はあってはならない。
ということで、硬いアボカドも柔らかいアボカドにも一喜一憂できる社会があることをぼくは喜びと感じていたい。
少し硬いアボカドを切りながら、もし種のないアボカドが売られていたら買うだろうか、と考えた。
味の側面以外のことを無視してしまったとしても、骨に沿って付いている身が好きなぼくとしては骨のない魚や肉は想像できない。しかし、種のないアボカドはどうだろうか。種がないと包丁をぐるぐると一周させる必要もなければ、種を取るために包丁を種に目掛けて振り下ろす必要もない。それに動物のように骨の周辺と違う部位で硬さや味が大きく変わることもない。アボカドを切っている時に、同時に手を一度くらい切ったほうが、いいのではないかと思っているたちではあるが、楽だとか安全だとかいうことが優先される社会がそこにあるならば種のないアボカドなんてものもじきに生まれるのだろう。手を誤って切らずに料理が上達するのだろうか。
それから、もうすでに存在するものとして、食べごろの表示されたアボカドというものもある。例えば、スライスしてトーストに乗せるアボカドであれば、マッシュしてタコスに挟んで食べるアボカドよりも少し硬めが良いだろう。スムージーにするときはどうか、アボカドを角切りにして玄米と食べる人もいる。
食べごろでないアボカドを食べた時に感じる感情を失うと、人はきっと美味しいアボカドとは何かということを知らなくなるだろう。美味しいものを口にはするだろうが、その人にとってそれが本当に美味しいのか、美味しいの基準を自分自身の中から他者に委ねることになる。それは社会主義的ではないだろうか。一つのおいしさを決める独裁主義者が、みんなの「美味しい」を決めることになる。そんな社会はあってはならない。
ということで、硬いアボカドも柔らかいアボカドにも一喜一憂できる社会があることをぼくは喜びと感じていたい。