日本に帰るので予定を立て始めているが、もう3週間のカレンダーがカラフルになっている。
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2025.11.9
聖子ちゃんには、危険だから自転車の手放し漕ぎをしないで、と言われているが、一度コツを掴んだら手放しで何ができるかというのを試したくなってしまう。ジャケットのボタンは閉められるか、iPhoneで曲を変えられるか、写真を撮れるか、手放しのまま曲がれるか、ジャケットは脱げるか、など。
ダメと言われてもやりたければやってしまうのが、抑制の力がなくなってきた人間の有り様なのであるが、期待通りに今日も自転車を手放し漕ぎしているときにふと思った。
手をハンドルから離すことは、勇気がいる。手を離すことで、安定感を失うが、自由と喜び、自立した達成感を得るだろう。
姿勢良く、リズムが良ければ、スムーズに進めるが、手をハンドルから離している以上、リスクを取らなければいけない。一点、目的に目を向ける。それが大切だ。
自転車の手放し漕ぎ同様に、リスクのない日々に新鮮な喜びと刺激と発見は生み出されるのだろうか?
ダメと言われてもやりたければやってしまうのが、抑制の力がなくなってきた人間の有り様なのであるが、期待通りに今日も自転車を手放し漕ぎしているときにふと思った。
手をハンドルから離すことは、勇気がいる。手を離すことで、安定感を失うが、自由と喜び、自立した達成感を得るだろう。
姿勢良く、リズムが良ければ、スムーズに進めるが、手をハンドルから離している以上、リスクを取らなければいけない。一点、目的に目を向ける。それが大切だ。
自転車の手放し漕ぎ同様に、リスクのない日々に新鮮な喜びと刺激と発見は生み出されるのだろうか?
2025.11.6
身体が痒くて目が覚めた。時々、定期的に夜中4時ごろに無性に身体の一部が痒くなり目が覚めることがある。いつも同じ場所である。色々調べると、朝方に副交感神経と交感神経が切り替わるので、これはある一つの自律神経の障害ではないかと思うのだ。それに加え、今日は奇妙な夢を見た。12月に自分の皮膚の作品を展示しようとしていて、ずっと掻かないように、傷をつけないように、自分の皮膚を育てるように日々メンテナンスをしていたのだが、夜中の無意識の時間に我慢できなくなってしまい思いっきり掻きむしってしまった。そして、その箇所に大きな傷がついたところで目が覚めた。ぼくは、起きた瞬間、違う角度から平面作品ではない立体作品を作ろうとしていたということに気付き、安心するのだが、同時に身体に実際についた繰り返される大きな傷とその痛みに絶望的な気持ちになるのである。その傷が、治癒しないのは、ぼくの忍耐力のなさでもあり、抗うべき老化や日々の怠惰からの免疫力の低下なのではないかと思い、この大きな傷は「今」を表す具体的な存在であるが、それは過去の怠惰の結晶であり、これからも繰り返されてしまうのではないかという未来への不安さえをも象徴しているのだと思った。しかし、起きて少し冷静になった頃に、ぼくは自分の皮膚の作品を展示しようとしているのではなく、壁についての写真作品を展示しようとしているよな、と我に帰った。しかし、その傷は具体的に現実の身体にしっかりと残っていた。
2025.11.4
日本に帰国することが近いことや、2つの展覧会の準備も急ぎ足で進めているので、なんだかんだとあれこれと頭から良いアイデアも悪いアイデアも溢れている。同時に考えているようで何も考えていないような気もする。
今日、久しぶりに太陽の元、商店街を一人で歩いた。たった50分程度のものだったが、なぜか自然を歩くよりも新しい発見があり、ぼくは人のある風景や人の作ったものが好きだと思ったし、そんなところに身を置きたいと思った。しかし、人の作った醜いものには身を置きたくない。
黙々と作業をするのは楽しいが、ふと我に帰らなければ自分を遠く遠く現実世界から引き離しているように思えてならない。現実と思考の差を埋めるかのように今日も筋トレをする。黙々と身体を屈伸させる。腹に溜まった何かを吐き出すかのように数字を数え、最後には大きく、声を出す。ステラはその動き、その声に反応するように尻尾を激しくふり寄ってきて邪魔をする。
身体は決して思考から離れてはならない。思考や趣味などは自分のものではなく、何よりも身体や自分の行動こそが自分自身である。そう、身体だけが何も裏切らない。夕食後、黒沢清『Cure』を鑑賞して、お灸をしてベッド。
2025.11.3
体調が良くないというか、精神的な問題からか、ふらっとしている。特によく乗り物酔いのような感覚が襲う。結局自分の身体は自分自身のものでしかなく、誰も解決してくれるものでもない。誰かに、今自分の身体がどんな感覚なのかを伝えることもとても難しい。そう考えると、ぼくの今抱いている心の感情や身体感覚は誰かに共有することができるのだろうかと思う、理解してもらえるのか、そんなことは言語だけでは不可能かもしれない。リズムや、非言語、時々自分自身から離れた何か全く違うものからによって、同じような雰囲気を感じることによって、相手自身の中で感じてもらうもの。それを共有する意味とか、意味なんてものを考えすぎるから不安や恐怖が襲ってくる。意味を考えることに、依存している。意味なんてものを考えなければ、動物のように反応的に生きることができる。意味を考えることへの依存、もまた恐怖だ。
2025.11.2
時々、血がドロドロと身体を下から上に流れるのを感じることがある。それは、実際にそんなことではないのだろうが、何かが背後を通ったような、奇妙な感覚。筋トレをほんの少し、たったの一日数十分しただけですでに筋肉痛である。特に胸は腕立て伏せを20回しただけである。今日も、筋トレをした。何かできることを、興味のなかったものを。もう30代も後半に差し掛かっている。心から健康でありたいし、心の満ち足りた印象が憑依したような身体を持ちたいと10代の頃からずっと思っている。裸でいい、裸で人間性が見える存在でありたい。
昼下がり、北野武『アキレスと亀』鑑賞。中年になっても売れない芸術家の話で、自分自身や登場する夫婦の姿がぼくと聖子ちゃんの生活を見ているようで、かなり怖くなってしまった。ぼく自身が劇中の北野武のようなことはしていないと鑑賞者のぼく自身は思ったとしても、現実世界では、鑑賞者であるぼく自身は、他人にはあんな風にみえているのだろうなと思うとそれだけで漠然とした恐怖が襲う。そうありたくないと思っていても、そういう状態にいるのだろう。映画のテーマとか、狙いとはまた違ったところで大きく不安を感じることになった。
夕方、アヤさんがお茶しに家に訪ねてくれた。友達がいないぼくにとっては、自宅に社会性が介入するほとんど唯一と言ってもいい存在。
昼下がり、北野武『アキレスと亀』鑑賞。中年になっても売れない芸術家の話で、自分自身や登場する夫婦の姿がぼくと聖子ちゃんの生活を見ているようで、かなり怖くなってしまった。ぼく自身が劇中の北野武のようなことはしていないと鑑賞者のぼく自身は思ったとしても、現実世界では、鑑賞者であるぼく自身は、他人にはあんな風にみえているのだろうなと思うとそれだけで漠然とした恐怖が襲う。そうありたくないと思っていても、そういう状態にいるのだろう。映画のテーマとか、狙いとはまた違ったところで大きく不安を感じることになった。
夕方、アヤさんがお茶しに家に訪ねてくれた。友達がいないぼくにとっては、自宅に社会性が介入するほとんど唯一と言ってもいい存在。
2025.11.1
もう今年も残り2ヶ月となった。書かない時期や不安定な更新のせいか、もしくは文章の内容に負の感情を抱くようになったからか、読者が減少し始めている。受け入れざる結果であるが、受け入れるべき結果であろう。これも日頃の積み重ねの結果である。10月にやるべきだった2つのアワードの締切に間に合わず、それでもその構想を練り直しているので、そのまま続ける。鈍臭いのは昔から変わらず、鈍臭いと言えば響きは悪いが、のんびりしている、それもまた響きはよくない。今日は、聖子ちゃんにぼくはのんびりしすぎてると言われた。ぼくはのんびりしているかもしれないが、それなりにのんびりしていることに悩んでもいる。でも、のんびり癖は昔から変わらない。いつでも考え中だ。
長く続くグレーの日々のせいか、気分がすぐれず頭が朦朧としている。この海のある田舎町にいること、過去からこれまで自分の積み重ねてきたもの、同じところを堂々巡りしていること、多く失ったもの、埃がかかったような願望や希望をいまだにいだいていること。すべてのモヤモヤと自分を取り巻くものを打破するためにも、新しいこと、誰も興味のないような、自分だけのものをしたい、といつも思う。意味なんてものを考えすぎるから不安や恐怖が襲ってくる。今日、なんとなく筋トレを始めた。
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