2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.19

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2025.6.19

昨日、芥川の『合理的、同時に多量の人間味――相互印象・菊池氏――』が素晴らしいという話を書いたが、どう素晴らしいかを書かずに、むしろどう素晴らしいのかをなぜか書けずにいた。こういうことこそ、自分なりの言葉で言語化しなければならないはずなのだが、怠ってしまったことに自分自身の怠惰と甘えを感じる。体力的な問題もあるし、生活のリズムが変化したこともある。移動をすると簡単に毎日やっていることができなくなるが、それと同じように起きる時間が変わったり、生活の時間配分が変わると書けなくなる。
ということで、以下、抜粋。
 菊池は生き方が何時も徹底している。中途半端のところにこだわっていない。彼自身の正しいと思うところを、ぐんぐん実行にうつして行く。その信念は合理的であると共に、必らず多量の人間味を含んでいる。そこを僕は尊敬している。僕なぞは芸術にかくれるという方だが、菊池は芸術に顕われる――と言っては、おかしいが、芸術は菊池の場合、彼の生活の一部に過ぎないかの観がある。一体芸術家には、トルストイのように、その人がどう人生を見ているかに興味のある人と、フローベールのように、その人がどう芸術を見ているかに興味のある人と二とおりあるらしい。菊池なぞは勿論、前者に属すべき芸術家で、その意味では人生のための芸術という主張に縁が近いようである。
 菊池の小説も、菊池の生活態度のように、思切ってぐんぐん書いてある。だから、細かい味なぞというものは乏しいかも知れない。そこが一部の世間には物足りないらしいが、それは不服を言う方が間違っている。菊池の小説は大味であっても、小説としてちゃんと出来上っている。細かい味以外に何もない作品よりどの位ましだか分らないと思う。
.....
 今まで話したような事柄から菊池には、菊池の境涯がちゃんと出来上がっているという気がする。そうして、その境涯は、可也僕には羨ましい境涯である。若し、多岐多端の現代に純一に近い生活を楽しんでいる作家があるとしたら、それは詠嘆的に自然や人生を眺めている一部の詩人的作家よりも、寧ろ、菊池なぞではないかと思う。


ぼくも、トルストイのように、その人がどう人生を見ているかに興味がある。