2100年の生活学 by JUN IWASAKI

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2026.7.10

 12時半にランニングに出かける。いつもよりもかなり走りづらい。東京にいた頃は朝走ってから出勤というリズムを保っていたが、あれからもう7年くらいが経ち、ぼく自身の身体の変化もあり、日中の暑い時間のランニングはかなり堪えることがわかった。ビーチまでの往復で8km程度。22時よりFilmhuis Den Haagで ケイン・パーソンズ監督『Backrooms』鑑賞。若干20歳でこれが初監督作品。映画を勉強しているPascaleらがなかなか興奮気味に話してくれたので、割と期待を持って、そして、気味が悪いという前評判もあり若干構えて鑑賞したが、これがデイビッド・リンチやキューブリック的なものと比較されるのは、ぼくはどうも好まないと思った。「伏線のようなもの」が張り巡らされているだけで優越感を求める考察好きたちが共鳴するだけの映画なのか、もしくはぼくが持ち得ないインターネットと共に育った世代の持つ特有の感覚を有する映画なのか、かなり難しいと思ってしまったし、壮大なテーマを抱えようとしているが故に届くべき場所に行きつかずに終わったような感覚もあった。映画の内容ではなく、ケイン・パーソンズという作家に共鳴したことは確かである。そして、A24が彼のアイデアを買い取らずにディレクターとして起用していることは明らかにポジティブだと思ったが、A24が彼にここまでの機会を与えることが本当に作家としてのパーソンズに良かったことなのか、ぼくにはそう思えない。キューブリックの処女作『Day of the Fight』も、長編処女作『Fear and Desire』も借金をして制作している。リンチも同様に『Eraserhead』制作に5年を費やし、新聞配達をしたり、短編映画を撮ったりしながら長編を完成させた。その5年間は子供が生まれたタイミングもあり、工業地帯に購入した家で「暴力、憎悪、不潔」に満ちた雰囲気の中で暮らしたというのが逸話であるが、その貧困地帯での経験が、『Eraserhead』の世界にきちんと反映されているようにも見える。処女作がこうあるべきだという話ではなく、そうあった人たちの作品とこれらが比較されるのは、観客を浅い満足感で満たしてしまうのではないかと思うのである。ぼくはA24をこの時代における警戒するべき存在と否定的に捉えているのだが、この映画も同様にぼくにはそのように見えてしまった。
映画を映画館で観るということは、映画館に行くまでの高揚感とか、それまでも含まれるのであればこの映画は明らかにマーケティングに成功した映画だと思う。良い映画だけが良いわけではないし、時にそして多くの場合に悪いとわかっていながらもその立場にいることの態度も示すべきだ。

2026.7.9

 そういえば、書くのを忘れていたが、昨日オリヴィア・ワイルド監督『The Invite』を観た後に、同じ回を見ていた時々映画館で遭遇するぼくが苦手なブラジル人の男性とまた偶然に遭遇した。彼はたくさん話したわけではないのにいつも友達のように接してくれるので、ありがたいといえばありがたいが、いつも高圧的で、何かを押し付けられるようで好きになれない。そんな彼からヴィム・ヴェンダース『Perfect days』が好きだと言われた。ぼくは、あの映画が好きではないことは何度かここでも書いたと思うが、全てが正しいと描かれる教育番組のようだとその話をしたところ、「君はバイアスがかかっている、もっとフラットな目を持つべきだ」と言われた。彼のその言葉もまたぼくを諭すようで、偽善の正義感の上にのみ成り立つような佇まいがどうも癪にさわり、別れの挨拶をして映画館を出た。帰り道に、頭からそのことが離れず若干むかついたこともあって、バイアスについて考えていた。カタカナで誤魔化さずに日本語にするならば、偏見や先入観であり、彼のいうバイアスとは、ぼくはヴィム・ヴェンダースに対して偏見や先入観を持っているということだったのか、それともぼくが日本の美徳や美意識について偏見を持ちすぎているということだったのかと考えていた。そんなこと以上に、ぼくはおそらく偏見や先入観のない社会は望まないだろう。コントラストは偏見や先入観によってのみ運ばれるわけではないとしても、コントラストを持った社会の姿をぼくは好む。その偏見や先入観こそがものに対峙するときに一つの角度を与えるものとなるし、その人なりのものの見方になるのではないだろうか。もちろん偏見のない目を持つことは時に特に大事なことだろうが、均一化する社会において個人の尊厳を守るのであれば、バイアスがかかった人間をバイアスがかかったままにしておくことが一番であり、それがもし良くても悪くても、ぼくは個人の尊厳を守ることを優先したいと思う。

2026.7.8

パリ期間は走れなかったもの、先月から始めたランニング、リズムを掴んだのか、調子が出てきた。Satisfyのプロモーションビデオで流れていたTV not on the radio 『Wolf like me』を聴いているとどんどん足が回る。今日も8kg。
夜、Filmhuis Den Haagで、『The Invite』鑑賞。A24制作のオリヴィア・ワイルド監督の新作。脚本はウィル・マコーマックとラシダ・ジョーンズ、音楽はDev Haynes。エンターテイメント映画を映画館で久しぶりに観たが、観客の笑いに冷めることもあれば、誘われてしまうこともあり、エンターテイメント映画は映画館で観るのも楽しいと思った。映画体験としてはなかなか良いものだったが、その笑いの使い方が、どうもA24っぽい感じや、多くの人が笑えるネタという掴みのポイントが浅いような気がして、ちょっとゲンナリした。それは海外で友達を作るのに、エロの話やドラッグの話をすれば仲良くなったりするというようなものに近い。実体験として、そのようなものを挙げるが、実際はそんな会話なくとも仲良くなる方法は山ほどある。例えば、天気とか週末の話とかスモールトークのようなものも同様である。


2026.7.7

火曜日。今日もビーチまでランニングをして海に飛び込んでまたランニングして家まで帰る。家からビーチまでの往復はおおよそ8kg弱の距離だが途中で海に入るのでランニングの再開にはちょうど良い距離とリズムを維持できている。アルゼンチンvsエジプトを観戦。エジプトの完成度の高いカウンターに、勇敢さと貪欲さの失われた自チームのスウェーデン戦とブラジル戦を思い出し、エジプトを応援する人たちとそのチームを羨ましく思った。なぜあれほど勇敢だった2022年を経て、よく似たメンバーで挑んだのにも関わらず我々のチームは勇敢さや貪欲さを失ったのだろうか。

2026.7.6

スペインvsポルトガル。中盤を制圧したものが勝つと思っていたが、そんな簡単は話ではなく一人の勇敢でチームが頼りしていた選手の怪我により一気にチームが崩れ始めたように見えた。人間は、物事に物語を見ようとする生き物だとぼくは思うが、この試合も多くのみんなが物語を見ようとした、新世代のヒーローvs散り行くスーパースター、ラミン・ヤマルvsクリスチアーノ・ロナウド、という構図は本人たちは全く気にする素振りも見せなかった。大体において他者や鑑賞者は物語を見出そうとするのである。それは絵画や写真を見るときにも同様に、である。

2026.7.5

夕方、ランニング。帰宅してノルウェーvsブラジル。勇気を失った者は、敗北するということをブラジルの試合運びを見て思った。ハーランドという優れた才能が真ん中でずっしりと待ち構えているという物質的な恐怖もありながら、決して物質が直接的に与える恐怖だけではなく、自分自身の中から生まれる恐怖、例えば失ってしまうことやこうなってしまうのではないかという不安と強く絡み合う恐怖、そんなものが人間が本来持ち合わせる勇敢さを削いでいるように見えた。そして、ブラジルは2-0の完敗を喫したのである。

2026.7.4

作品のサブミッションのために文章を書いている。じっくりと作品を見て、散歩したりしているとやっと文章になってくることがあるが、お風呂に入ったり散歩したりすると頭が冴えるのはなんでだろうか。
ぼくは、近年、主に霧やカーテン、窓枠、壁、ドアなど、視界を遮るものを題材にした写真を撮っている。もちろん、それらの主題は長く自分の無意識のうちに存在し、ぼく自身がそうしたものを撮り続けていることもある写真を継続して買ってくれている方にも指摘された。特に霧やカーテンは、ぼくの作品の中では物事を隠す存在として立ちはだかり、また、向こうを隠しつつも垣間見せ、特に閉じられたカーテンは隠されたものを見ようとする欲望を示唆している。そのような構図は、鑑賞者に自らのまなざしを自覚させ、鑑賞者の想像力をかき立てるのではないかと思うのである。見えないものを見ようとする欲望は、絵を見るという行為の前提さえをも問い直してくれるのではないかと思う。同時に目に見えないものへの恐怖に立ち向かう勇気を与えてくれる。ぼくの敬愛する大江健三郎は、「監禁されている状態、閉ざされた壁の中に生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題でした」と話していたが、ぼくは彼のアイデアに多く共感していて、どのように閉鎖的な社会の中で未来に光を見るか、前に向かって進めるか、作品発表を通じて表現したいと思っているのだ。夜、じっくりとゆっくりランニング。