2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2026. 10.13

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2026. 10.13

この夏、全く2100年の生活学を更新していなかったのだが、10月10日、2100年の生活学におけるタイトル的な日付ではなく、実際的な刻の日付としての10月10日を境に書かないければいけないし、書くことで再び自分の生きる時間を自分の力で掴むことでしか、地に足がつかないのではないかと思った。ということもあり、突然なんの前触れもなく書いている。ここに戻ってこれたことが何よりも嬉しい。毎日書いていなかったといえば嘘になり、書いていたと言えばまたそれも嘘のような夏の2ヶ月があった。怒濤のような時間があり、なんとなく夏の暑さに流されたような感情があり、この海のある田舎町にある人々の楽観的なリズムに揉まれた思考の巡りもあったはずなのに、それらはまだ形となって姿を見せていないとも言える。多くは、macbookのメモに記録されていたり、iPhoneのメモに記録されているのだが、それでもある種の言葉として成立して独自の音やリズムを持っていない状態である。徐々にここにぽっかりと空いた空白を埋めるように回想的なものも含めて書き加えていきたいが、まずは1日1日の言葉に注力したいとも思う。
あまり普段は前日の文章を読み直すようなことはしないのだが、久しぶりに書いたこともあり、昨日の文章を読んでいると、「合理主義で利己的な人間の対になるように楽観的で感情的な野性的な人間」と書いていた。自分が書いたことなのに、既に過去の人もしくは他者が書いたかのような文章として読んでいる自分がいて、恥ずかしながらその言葉選びがとても興味深く思えてしまった。会話のように即興的に書いていると、言語の矛盾とか文法的な間違いや意味を捉えるのが難しいこと、時に間違えすらをも飛び越えるようなことがある。それがまたぼくは好きでもある。誤字脱字も含めて、それさえをも超越した文章によって他者の中に感情を隆起させたいと思いながら書いているのだが、自分が書いたはずの文章なのに、対義語ではない言葉を対義語のように使えるのが言葉の不思議で面白いところであるし、そんな感覚を持ち合わせていたいと、自分の文章を読んでいて思った。別に自分を特別視するわけでもないし、自分自身を「アーティスト」だとか特別な感覚を持っていると思うことも全くない。これはぼくだけが喜んでやっているかもしれないなと思うことはあるが、自分にしか捉えられない感覚があるとも思わない。
真夜中にNelly Kaplan『Plaisir d'amour』を鑑賞。結局30時前にベッドへ行った。最近はあまり眠れない。