2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2026.7.31

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2026.7.31

何か気になればwikipediaを読んでいるのだけれど、この数年で日本語で書かれたwikipediaが減っているように感じている。それについて色々考えてみたが、大きく分けると3つの理由があるのではないだろうか。一つにぼくが調べる物事が日本語で書かれる需要のないものばかりになってきたのか、もしくは日本語でわざわざ書く必要もないと思うwikipedia記事制作者が増えたのか、もしくは英語版記事があるならAI翻訳で済ませて仕舞えばいい、と思う人が増えてきたのか。これは意外と興味深い考察だと思うので、誰かといつか議論したいと思うし、これを読んだ方で何か意見がある人はぜひメッセージでもメールでも手紙でも送ってもらいたいしぜひ議論したいと思う。最初の「ぼくが調べる物事の変化」は議論に耐えない曖昧なトピックなので置いておくとして、二つ目の「日本語でわざわざ書く必要もないと思うwikipedia記事制作者が増えた」というのは、暇な人が減ったということを表しているような気がする。誰でもが制作者になれるプラットフォームが充実しないというのは、日本語話者で暇な人が減って、名誉にもお金にも何にもならないのにそれに時間を費やすことが無駄だと思う人が増えたということだろうか。三つ目の「英語版があるのならAI翻訳で済ませればいい」というのは、ぼくは少し悲しくも感じる。日本語wikipediaは日本語話者特有の情報であり、英語版は世界の情報である。人間が違うから違う情報がある、だから英語版wikipediaを日本語に翻訳するのと、日本語で書かれたwikipediaが違うのである。英語では書かれなくてもよいような日本語話者だけが必要とする情報がある。一方で、描かれるべき現地の美しい情報がある。世界が英語で統一されるとき、いやもうすでに今、ローカル言語の力と、ローカル言語から成り立つローカル文化は消滅し始めているのではないだろうか。同じ社会にも、言語に縛り付けられた文化、言語に縛られない文化があり、そのズレが世界の面白さであったはずだが、AI翻訳の成長によってあたかも世界がそこに一つしか存在しないような見え方になってはいないか。英語版のwikipediaを翻訳するだけでは知り得ない世界が現実には多数ある。日本語版のwikipediaが減っているのは、日本のサブカルチャの衰退をも表しているように思えてならない。ぼくが10代後半に友人たちと何気なく話していた「今後は情報統制されるから英語もきちんと読めるようにならないとね」という会話は今やAI翻訳の台頭によって存在せず、一方でAI翻訳によって日本語で日本を語ることを失ったり世界が目の前にあるということを忘れはしないだろうか。英語のテストで100点を取ることで、英語が素晴らしいものという感覚になってはいないだろうか。いつから語学は100点を目指すものになったのだろうか。英語ができない人は今後生きていけないみたいな価値観は存在するべきではない。言語なんてものはあくまで道具であるが、同時に言語は世界を見る複数の角度を持たせる。日本語が失われれば、いや失われなくとも英語をこれ以上に美化すれば世界の形は変わってしまう。ちなみにwikipedia、日本語では100万記事ほど書かれていて、英語では700万記事ほど書かれている。その100万記事全てが700万記事の中に収まっているとは思わないし、重なっている記事の数が小さければ小さいほど世界がまだユニークさと柔らかさを持ち合わせているということの証明になるわけであるが、例え、その多くが同じ記事だったとしても英語と日本語では持っている情報が違う。ときに英語のwikipediaは多くの情報を得ているが、時に日本語のwikipediaは英語では描かれない奇妙な世界を描いていることがある。ぼくはそんな同じものでも全く違う表情が見えているという世界のあり方にずっと憧れているのかもしれない。グローバルであるということは同じ位置に位置することではなく、ズレをきちんと可視化するということでもある。英語や移民を受け入れることがグローバルなのではなく、世界にあるズレをきちんと認識することがグローバルな世界の姿であってほしい。