人をもののように撮影するコマーシャルフォトグラファの写真を見ると吐き気がする。人を人として扱わずにしながらも、人を被写体にしながらそれをお金儲けをしているという自己中心的な思考。人が人として扱われるべき時代が到来しているはずではないか。自分が自分として扱われた経験があればなお一層、それが自分の力になるということを知らないかのようである。ほんの些細なことではあるが、それは意外とその人もしくはぼくにとって一日の活力になるし、それが喫茶店の常連さんが挨拶されるだけで気が良いというのともとても似ているような気がする。何度か話したはずなのに次行ったら覚えていなかったのか挨拶もされなかったら、ちょっと嫌になってその喫茶店から足が遠のくようなことだって簡単に起きる。そんな日々の積み重ねや一人一人の些細な気力みたいなものが意外と大きな社会の中で壁のような大きくてびくともしないようなものに争う力となるのではないかと思う。
ぼくは、人をあまり撮らない理由の一つに、写真の被写体に人が多すぎて日々人間が人を目にしすぎて他のものに目が向かなくなっているのではないか、ということに疑問を持っていたということがある。しかし、最近の気付きは人を人として見ることをしないコマーシャルフォトグラファが増えるのであれば、ぼくは彼らにきちんと正面から対抗するように人を人として撮影することを目指したいとも思う。だからと言って、人を撮る機会にもそれほど恵まれるわけではない。