2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2026.7.24

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2026.7.24

 Pompernikkelに行く。朝からNTSで誰かが選んだのであろうヒップホップがかかっていて、どうも情けなくなったし、怒りが込み上げてきた。ぼくは、朝の心地よさを楽しみにしていたし、一日の始まりを力強く始めるために足を運んだにも関わらず、ヒップホップだった、それでノリノリの店員がそこにいる。もちろん、同時にぼくが自分の家の外にある外部環境を自分の枠の中に収めるということはできないのが日常であり、突然車が突っ込んでくることや彼女が病院に運ばれることとか、電車が止まることとか、友人に偶然あってそのまま思っても見なかったところに行くとか、そういうことお喜んで受け入れるべきなので、朝からヒップホップ、ヒップホップでノリノリでパンを売る店員さえをも受け入れるのが日常を生きるということに等しいとも思うが、何より今日の問題点はそこにはない。意識なくNTSをかけることは、ぼくは選択の放棄だと思っているし、それはA24の映画を好むのと同じような価値観だと思う。それが今日の論点だ。NTSしかりA24しかりは、彼らがこれまでやってきたこと、もちろんぼく自身が彼らの作ってきたものを大いに楽しんできたこともあり残念な感情もありながら、否定的な意見をここに書くならば、すでに彼らがある種の正解のようなものを社会に対して提示してしまっていることが社会にとっては悪であると思うのである。それはマガジンハウスやビームスなどをぼくがある種の文化の弊害と呼んでいたようなもの近付いてきたような気もする。彼らの活動を否定するのではなく、それらがある種の権威的な存在になってしまっていることがぼくはあまり良くないと思うのだ。彼らが自身で好んでその立場に行ったかというとそうではないだろう、社会や観客がそれを望んだわけでもないにも関わらず、気付けば個々人が彼らを無意識のうちにその立ち位置に追いやってしまったとも言える。この問題は、ぼく一人で抱えられるものではない。
そこに流れる音楽はいつからかお客様のものではなく働く人間のためとなってしまったのだろうか。そんなことを気にしないお店の在り方や働く人々が増えたようにも思う。働いている人の楽しい姿は、きっと味や体験を変えるだろうが、それでも働く人が中心の据えられたお店というのはぼくはなんとも好まない。ぼくたちはある時代から食べることやお店に行くことは「そのお店を支えること」という態度を取りすぎているような気もする。街を支える個人店の存在をぼくはとても嬉しく思うし支持するが、しかし、その結果、それを取り間違えたかのような横柄で傲慢なお店が増えているように感じるのも事実である。お店を構えるとは、その土地に住む人々の場所を借りているという側面もあるのではないだろうか。朝から似合わないヒップホップを聴きながらクロワッサンを食べてそんな風に考えていた。