14時37分に家を出るのだと思っていたら、実際のところは14時37分発のトラムに乗ることになっていたことに気づかず、家から歩いて1分のトラムストップまで猛ダッシュをする。家の角を曲がるとトラムが見えたので、猛ダッシュで車道を横切り、トラムストップの柵を勢いそのままに飛び越えた。その姿を近くに住むVerenaに目撃されたので恥ずかしながらも手を振ると笑っていた。そして、閉まってしまったトラムの扉の開閉ボタンを押すも反応せず、連打するも扉は開かなかった。すると、「Hey Man!」とすぐ近くから声をかけられた。隣の車両の扉で若者が開閉口に立って扉を開けてくれていた。そして彼はぼくが乗り込んだのを確認して、トラムを降りた。まだまだこのシステムでがんじがらめになった世界にも抜け穴が存在するようで、ぼくは見えない的に対して勝ち誇った気分になった。
アムステルダムで、Francescaと会う。Weinlokal Sternでディナー。ぼくたちはパリで知り合った。彼女は、ぼくが2014年にRose Bakeryで一緒に働いていたDustinの彼女だった。今はもうDustinと一緒ではない、そして、もうパリを離れ、生まれ故郷であるマルタに住んでいる。10年ぶりに会ったが、言葉なくとも彼女が纏うオーラーからわかる才女っぷりは変わらず、少し大人になった風貌に、時間の経過と時代の変化を感じたが、それは彼女のこの10年を簡単に物語るようだった。気鋭キュレーターだった彼女は、会わない10年の間に再び大学院へ行き、弁護士になっていた。ぼくはこの10年で何をしただろうか。彼女は人生の、、と書きかけたが、どうもうまく言語化できそうもない。彼女の持つ涙が出るほどの面白い話も、彼女の会話中の表情や言葉の端々から感じる彼女の聡明さも、ユーモアも、恥ずかしいことが起き続ける人生に生きていることも、よく寝られたコントのようなことが立て続けに降りかかる人生をOh noと言いながら笑って過ごすような彼女のことを、恥ずかしながらもぼくの力のなさのせいで、言葉にすることができない。ここにはっきりと存在する曖昧なものをどれだけ掴もうとしても、掴むことができない。それはゆっくりと丁寧に紡ぐことが出来るかもしれない、しかしそのゆっくりと紡ぐだけの集中力と呼吸の深さを今ぼくは持ち合わせないない。頭にあることや心や身体で感じていることをどう言語として形にすること、日々鍛錬がないとそこにある抽象的なものを形にできない。そして、それを推敲するには集中する力がいる。今は久しぶりに感じる暑さのせいか、W杯の見過ぎによる疲労か、日々の怠惰のせいか、自制心のなさか、小さな一つ一つの判断のなさか、不安に揺れる心の状態のせいか、もちろんそれら全てのせいで、自分が感じていることも、自分の脳内にある抽象的なものを、心が感じている曖昧なものを具体的に描くことができないでいる。しかし、だからと言ってここに記すことや作品を作ることを諦めていると、その思考や身体を取り巻く抽象的なものは過ぎ去る時間の中に取り残され、自分が考えていたことも、自分の周りにあったものも、そして自分自身がこの世の中に生きていた証さえをも残すことができない。ぼくは、恐れている。日常の中で物事に対峙した時に生まれる思考だけが人間という動物が行うことが出来る最高の行為であるはずなのに、その思考を積み上げていくことをしないのは、ぼくは存在しないのと同義であるのではないか。