2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2026.5.23

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2026.5.23

例えば、なぜ音楽の場合、歌詞がわからなくてもコンサートに行くのに、映画は劇中で話してる内容がわからなければ観に行かないのか。音楽には形がないからだろうか、映画や小説には形があるからだろうか。そしてアートなんかは理解を拒むように存在している。しかし、パブリックな場所に出てくるのに、それでも理解してもらうことを拒もうとする。ぼくの作品も、例えば最新の壁のシリーズなんかは、ギャラリーというパブリックな場所で展示をし、多くの人を誘っておきながらも、鑑賞者が見ることを拒むような、彼ら彼女らの理解を妨げるような作品を展示する。ただの壁である。写真だけ見ると、きれいでもなければ何か複雑ささえもそこには存在しないようである。まあ自分の話はさておき、本当にアート作品は見に行って理解できなくても身になるのか、であれば映画も理解できなくても身になるはずだろう。もしくは、別の言い方をするならば、映画は全てを理解するように仕向けられているような気がするのに、音楽はそれを強制してこない。音楽を鑑賞する方法については様々な方法で深く考えられてきたので、ある種の権利を得ているようにも思える。
例えば、他の例を出すと、ぼくは英語の本を読むが、多くの場合、ほとんど理解していないとも言える。それは、時に内容を深く理解することを超えて、その作家が描いたリズムや空気、そして言葉を探しているとも言える。しかし、ふとぼくは本当にその本が伝えようていることを理解しているだろうか。英語がちゃんと読めないことを盾にし、それに甘えて、赦しを受けるかのように、ある種独自の解読方法を甘えてはないだろうか。それを読書体験と呼ぶこともできるかもしれないが、一方でそれは正しい読書体験だろうか。正しいとは何か。
そんな風に考えた時に、音楽だろうが、映画だろうが、アートだろうが、小説だろうが、全てを理解することの難しさと、作家が意図したことを理解をしようと努めないことへの甘えのどちらもが存在することがわかる。しかし、ぼくが言いたいのは、同時に全てを理解するべきであるということではないし、作家として作品を理解してもらうことに譲歩するのもまた違う。とにかく音楽のように鑑賞について多角的に深く考えて、ある種の「ノリ」を持つことが市民権を得ないことには文化は豊かにならない。