2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2026.2.28

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2026.2.28

一昨日、フランソワ・トリュフォー『ピアニストを撃て』を観たということを書いたが、François Truffaut をフランソワ・トリュフォーないしはトリュフォーと表記するべきかという悩みというか問題は、このようなパーソナルな、一方的ではあるがパブリックに読まれるものにおいて常に付き纏う。ぼくの文章は、あくまで語りであるという側面を重要に続けてきたような気がしているので、そういう点では急にFrançois Truffaut と書かれるよりもフランソワ・トリュフォーと書かれるよりも、トリュフォーと書かれた方がリズムが良い。しかし、同時に思いの外多くの人が読んでくれていたり、突然知らない人から「文章読んでいます」と声をかけられることが多々あり、そんなことを念頭に置くとやっぱりトリュフォーは、François Truffaut に変わるのである。
そして、ノイズライティングー書き直しを許さない、誤字脱字を受け入れ、キーボードを叩くリズムを基本とし沈み込むように書き殴る書き方ーを志向していたとしても結果そんなことは愛読者のごく一部でしか理解できず、この文章はただの誤字脱字の多い、素人の趣味の文章で完結してしまう。素人の部分に関しては、ぼくは素人好きということで歓迎するが、「素人なのに」という見見下された中で起こす波乱みたいな強度がない限りは、ぼくの中でも素人は容認されない。
François Truffautかフランソワ・トリュフォーかトリュフォーか問題をいい加減解決しない限りは、延々とミックスされたまま蓄積されていくのである。
後から検索する時にも、どちらかに統一されている方がぼくも便利である。
これは人生と一緒で、毎日行われる行為に少しでも努力や意識があると、生きているだけで蓄積されていくのだが、何も意識しなければ後から見返した時にそれはただのガラクタと化す。とにかく黙っていても時間は過ぎ去る。