2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.12.3

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2025.12.3

今日、京都に帰るので、キャリーケースをガラガラしながら、朝からスガアートに行く。清澄白河から上野毛は遠すぎるし、同じ東京とは言ってもあちらとこちらでは全く違う人が住んでいる。その人が住むことを選んだ街は、その人の人となりを表現している。代官山に住む人は代官山らしい人だし、清澄白河に住む人は清澄白河らしいし、東西だけでは切り分けられないほど西は西で、東は東で曖昧なコントラストを描いている。ではオランダの海のある田舎町に住むぼくはその人となりが、その街選びに現れているだろうか。きっとその矛盾を矛盾のままに受け入れて、その矛盾を受け入れたまま傍観するような曖昧さはぼくの性格を表しているだろう。菅原さんとの打ち合わせを終えて、表参道へいき、ふーみんで山下くんと待ち合わせ。到着すると、列に並ぶ二人の男女がニヤニヤしながらぼくを見ていた。山下くんとKontaktの田口さんだった。今日、田口さんとランチをする予定はなかったし、ましてやパリで会った以来全く連絡もとっていない、そもそも彼女の連絡先さえも知らなかった。昨日までは。昨日、まいちゃんから、田口さんがVacant/Centreで耕三さんの展示を見てくれてとてもよかったと感想を間接的に聞いた。それで、そういえば、と思いInstagramをちょうどフォローし返したところだった。山下くんと田口さんがお友達だったことさえも知らないし、その二人も数年ぶりの再会だった、と言っていた。そんな二人が偶然の再会を喜びぼくが階段から降りてくるのをニヤニヤと見ていた。多分、自分たちはニヤニヤしていることにはそれほど気付いていなかったかもしれないが、その表情はニヤニヤしていた。そんな3人が一緒に納豆ご飯と納豆チャーハンを食べた。Instagramでのぼくと山下くんの会話から打ち出された「ふーみん」というレストランが、ぼくがフォローした田口さんのgoogle mapや、ネット広告に飛び出したとも考えられるので、今日3人はアルゴリズムによって「偶然」出会ったといえば2025年にはまあそうなのかと受け入れざるを得ないが、ロマンがない。そもそもこのように人の営みの中で、驚くほど少ない可能性に感じられる割には、意外と起きることが多い偶然のような出来事こそが、アルゴリズムという言葉の語源であるのかもしれない。まだ世の中には言語化されていないものがたくさんある。ぼくは、自他ともに認めるロマンチストなので、気配とか、人間の希望とか、人が惹きつけられる力とか、そういう目に見えないものを信じざるを得ない。今日のように偶然の出会いや再会があるのは都会らしく、もし例えぼくが山下くんと二人っきりで食事をしたかったとしても偶然を受け入れて物事が進まざるを得ない感じがまた大都会という感じがした。buikに行き、カナさんと話す。スピーカーから流れる音楽が小さな店内に響き渡り、そのお店自体がある種の音を鳴らすための白いボックスに感じられ、ぼくはその中でカフェオレを飲んでいた。心に驚くほどの静けさが訪れた。心が落ち着きました、という人がいるが、それをぼくは随分久しぶりに感じた。実家のリビングのソファで遅めの昼寝から目が覚めたら辺りにあったものは何も動いていないのに空気の色はすでに暗くなっていたときのような感覚。新しくできた一保堂に行き、新宿伊勢丹のPerfumer Hへ行く。肌の透明さと綺麗に切り揃えられた短めのバングが印象的な女性の店員さんが色々と紹介してくれた。名前も知らなければ、年齢も何も知らない。Lynn Harrisに興味を持っているということだけが唯一の共通項のような二人が、お互いの個人的な話をした。ホリデーシーズンということで散々紹介してもらったのに、元々買おうと思っていたハンドソープを買った。展覧会の招待状を渡した。伊勢丹は楽しかった。その後、今中と高田馬場で待ち合わせをして焼肉。久しぶりに今中とゆっくり話したような気がする。定期的に会っているのでお互いの変化にそれほど違和感を感じずに食事や会話のできる同郷の友人がいるのはとてもいいなと思う。21時ごろの新幹線で帰宅。