先月のパリ同様に、今回も折り畳み自転車を持ってきているのだが、とても便利だ。大体アントワープくらいのサイズならどこでも簡単に行けるし、少々忘れたと思っても、すぐに戻れる。アントワープのIbasho GalleryのMartijnとAnnemarieと話す。話が早い方々だった。夕暮れ、電車に乗る前に立ち寄ったバーCafé De Kat、久しぶりに言葉を発することさえも息をすることさえも、そこにある空気を壊してしまうのではないかと思えるほどの空気がそこに存在し、自分の身体をその空気に浮かばせていたいような、まさに、茶色く色づき任務を果たした落ち葉が川の水面に落ちた時の奏でる音のような、そのくらいのデリケートなものであった。右肘をカウンターに付き、左向きに立つスーツ姿の60代くらいのギャラリストのような男性も、テーブル席で丸まった背中をそのままに新聞に目を向ける80代くらいの老人も、何もせずにただ前を見つめならがビールグラスを右手で掴み続ける男性も、自分たち二人を含めて、そこにいる人間だけではなく、壁にあるポスターや年期の入った椅子やテーブルさえも、全員が時間が止まったようなただその空気の中で佇んでいた。ぼく自身が、言葉を発することも息をすることさえも拒もうとした理由は、決してその何年も変わらないだろう場所や常連への配慮でもなく、自分自身のその空気の中にいれる心地よさからであって、決して気が張っていたというわけではない。例えば、目黒のとんき。平日16時半や17時ごろにお店に行くのが ぼくはとても好きなのだが、自分を含めて冴えない一人客ばかりがポツポツと座っていて、ものともの、人と人、ものと人との間に情景がある。とんきの場合は、このバーに比べるともう少し新鮮な空気とこれから来るであろう忙しい時間を空気がすでに読みとっているので、今日感じたものとは少し違うのだが、遠くはない。さらに、このバーには、正方形、もしくは、4x5サイズの窓が小道を眺めるように3つ並んでいて、石畳を走る自転車や歩く人たちがスクリーンに映し出されたような、もしくは写真のフレームに収まったような映像を見せていた。それは、50年代のイタリア映画のようで、というとどうも陳腐である、が、そう言わざる得ないほどに時代が止まっていた。良い窓があり、そこに人がいるだけで、みんな何かを眺めていられる。情景の良いところは、自分の思考によっては何様にも見え方が変わってくるということだろうか。
自転車移動、素晴らしかった。しかし、写真を撮ることがなかった。それだけが唯一の懸念点だが、それ以外は文句がない。