違いがないことに嫌悪感を示すのではなく、合理性という名のもとに同じになってしまうことを受け入れるべきだろうか。
GenevaからLyonに移動する道中、山や自然の多いこの地域の電車は自転車を置いて置く場所が各車両にあった。駅の構造も地下から登っていく(もしくは地上から上がっていく)長い直線のスロープが配置されていて、そのスロープの反対側は緩やかな長い階段になっていることが多い。日本でよく見られるような階段の真ん中もしくは階段に沿って自転車のタイヤを走らせる溝があるタイプではなく、なだらかな長い直線のスロープだ。この地域の広々とした空気を表現しているようにも思うし、単純にそのくらい自転車利用が多いということである。
Lyonに到着し、そこからLa Touretteへ向かう間のフランスの田舎の駅は東京の駅も同じような構造をしている事に気づく。GenevaからLyonまでに眺めた駅とは違い、増築したように幾つも幾つも陸橋を走らせている。その土地の人々の行動が反映されたようなものの構造にとても嬉しく思っていたが、結局こういうことなのだと少しうんざりしてしまった。違うということを愛しすぎると、同じであるということにうんざりしてしまう。
しかし、グローバルな社会、企業が国家や個人よりも力を持ってしまっている社会においては、合理性や同じものを見るということの上に、同じになってしまうことがあるので、同じであることにうんざりしてばかりはいられない。人間には思考するための頭があり、忘れることができるだけの記憶力しかなく、想像力がある。
GenevaからLyonに移動する道中、山や自然の多いこの地域の電車は自転車を置いて置く場所が各車両にあった。駅の構造も地下から登っていく(もしくは地上から上がっていく)長い直線のスロープが配置されていて、そのスロープの反対側は緩やかな長い階段になっていることが多い。日本でよく見られるような階段の真ん中もしくは階段に沿って自転車のタイヤを走らせる溝があるタイプではなく、なだらかな長い直線のスロープだ。この地域の広々とした空気を表現しているようにも思うし、単純にそのくらい自転車利用が多いということである。
Lyonに到着し、そこからLa Touretteへ向かう間のフランスの田舎の駅は東京の駅も同じような構造をしている事に気づく。GenevaからLyonまでに眺めた駅とは違い、増築したように幾つも幾つも陸橋を走らせている。その土地の人々の行動が反映されたようなものの構造にとても嬉しく思っていたが、結局こういうことなのだと少しうんざりしてしまった。違うということを愛しすぎると、同じであるということにうんざりしてしまう。
しかし、グローバルな社会、企業が国家や個人よりも力を持ってしまっている社会においては、合理性や同じものを見るということの上に、同じになってしまうことがあるので、同じであることにうんざりしてばかりはいられない。人間には思考するための頭があり、忘れることができるだけの記憶力しかなく、想像力がある。
Lyonから約1時間電車を走らせ、駅から坂を登ること30分La Touretteに到着。圧倒的な歴史的建造物に対峙し、本物を感じるということは本物が失われ始める時代を生きるぼくたちの日常にどれほどの価値があるのだろうかと考えながら建物内を徘徊していた。20組くらいだっただろうか、ゲストが滞在していて、少し挨拶がてら会話をしたところ、彼らは建築家だったり、アーティストであったり、心理学を勉強している学生であったり、Le Courbusierという卓越した知性と度胸を持った人間の残した建物の目に見えないオーラに引き寄せられるように集まっている。
圧倒するような実体を目の前に、ぼくはある種の自然物というか、海や、巨大な岩を見ているかのような感覚があり、その建物内で時間を過ごし思考を巡らせる事によって自然物と共存するための人間の知恵を感じる。わざとらしく説教くさいものはない。「そこにただある」ものからこちらに気付きを与えてくれる。
本当に思想や哲学は世界がどうあるべきかを教えるのだろうかという主張について一言付け加えると、いずれにせよ哲学は常に遅すぎるということに留意すべきである。 世界の思想として、それは現実がその形成過程を成し遂げ、完了したときにのみ現れる。 概念が教えることを、歴史は同じ必然性をもって示している。理想は存在の成熟において現実の前に現れ、同じ世界をその本質において把握した後、それを思想の帝国の形で再構築するのである。 哲学がその灰色を灰色で塗りつぶすとき、生命の顕現はついに老化する。私たちは灰色の上に灰色を重ねて若返らせることはできず、ただそれを知ることしかできない。