2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.7.25

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2025.7.25

身体が怠いとか、熱があるとか、そのような形で悪いわけではないのだが、日頃の姿勢の悪さからか背中の歪みからか色々と不調が出ている。動いてはいるのだが、その疲労が蓄積されていくような感じがしてならない。
今日は、色々と考えていると心身ともに参ってしまい、誰かに怒っているわけではないのだが口を閉じてしまった。何をする気も起きずにソファに寝転がりメガネを外してただただ天井を眺めていると、やりたいこととやらなければいけないことと、もうすでにやったはずなのに返事が来ていないことと、やったのになんだかうやむやになっていることと、全てが頭の中でぐるぐると巡り、頭がとっ散らかりすぎていると思った。
オランダに来てから、連絡しても返事がないということがとても増えた。例えば、仕事の突然の営業メールで連絡がないというのは十分に理解できる。どこの馬の骨かも知らない人から連絡が来て、わざわざ一件一件返事をするほど暇ではないお店もたくさんあるだろう。しかし、商品に関する問い合わせであったり、修理依頼であったり、クレームはどうだろうか。、ウェブサイトを見ると、番号がなく問い合わせはメールのみと書かれていて、問い合わせしているにも関わらず、何の返事もない。こちらとしては、再度メールをするか、もしくは待つか、何か違う方法を探すか、くらいしか方法がない。なぜ返事が来ないのだろうかと考えてみるが、特に理由が見つからない。連絡が来たら返事をするとか、質問が来たら答えるとか、人が困っていたら助けるとか、お客と販売者の間でこれまで大切にされてきた「信頼」というものが社会から必要とされていないのではないかと思えてならないのである。信頼がないと社会は成立しない、商売は成立しないと思われていたものが、実際には信頼がなくとも商品が売れたり、限定商品を作って人を煽ったり、やることは手を選ばずにやる一方で受け取る窓口を狭めたり、販売者が有利になる構造ができていないだろうか。それは商店的な販売者とお客という構造の話だけではなく、事業者や生産者と消費者という構造も同じである。製作者と鑑賞者も同じである。対等な機会を持てるべきではないか。
例えば、instagramを使う以外に同じことをする選択肢がない、電車もそうだ、どれだけクレームをしても電車に乗らずに自転車に乗って移動する人も少なくなった。Instagramくらいならやめてしまえばいいと思うだろうが、それでも一点に集中すると、そこにいないといけないのではないかという弱い精神を逆手に取ったような悪魔の商売が
「そこにいないと社会から外れてしまいますよ、それでもまだクレームをしますか?」というような問いなのである。
必要不可欠でなかったものが個人個人の中で必要不可欠なもの(必要不可欠だと錯覚してしまう、社会がその方向に進んでいる)になってしまった場合には、自分の感情を押し殺して、自分を自制して、耐えたり我慢することによって、そのサービスを使わざるを得ないのである。本当にそんな姿が人間が生きる社会の姿として正しいのだろうか。
古来から義理人情という美的感覚が日本には存在したが、ぼくが住むこの国には義理も人情もないように感じる。