2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.7.24

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2025.7.24

 米山さんが「相手の立場になって嫌かどうか」ということを何度か話していて、彼女の作るものとか、行動、それからこれまでの仕事とか、すごく一貫性を持っているような気がして、性格は作るものを形作るんだなと感じた。
ぼくは、我慢することや、自己を抑制するということを一つの人間らしさと捉えていた側面もあるが、何かを我慢するということは、それを我慢せずに遠慮なく行っている人と同じ立場にいるだけなのではないか、自分も同じ立場にいるみっともない人間であり、それをただただ我慢しているだけの息苦しい人間なのだ。だから、それらを批判する立場にはいないような気がする。何も我慢せずにそれを満足に行えるという状態こそがぼくたちが目指すべき姿であろう。我慢をしているといううちはまだ未熟者である。
それから、今日ディナーをしながら、あるデザイナーの話になった。名前を伏せるが、みんなが憧れるデザイナーの一人であるということにぼくはとても驚いた。そのデザイナーの作るものからデザインの持つ豊かさを感じなかったし、スケールの小ささを感じていたからである。すごく単純にいうと、そのデザイナーのデザインに魅了されたことがなかったし、好みではなかった。
しかし、大学で学生たちを相手にしている米山さんとの会話の中で、ある種シーンのゲームチェンジャーである、そのデザインの方法をあるジャンルに持ち込んだという話をしていて、ぼくがいかに文脈的なものに無知であると同時に、文脈を飛び越えることを好んでいるかに気付いた。同じ土地に長く住むわけでもなく、ぼくは、時にさまざまな角度から、時に全く遠く離れたところから、時に全く見なくなったりする人間である。ある人が文脈の中でいかに大切であるか、ということはぼくのような人間にはそれほどの価値なのかを理解できない。現代というレファレンスが近くなった時代においては、遠くから見ていると、これはあれと同じ構造をしているなとか、見えてしまうこともある。
ゲームチェンジャーであることと、良いデザイナーであることとは一致するのだろうか。そこはしないだろう。しかし、皆が憧れるデザイナーであることとゲームチェンジャーであることは一致する。世界を変えてきた人は世界を良くしてき多訳ではないが、そのシーンのルールを変えてきた人たちである。皆がそれに憧れるということは、多くの人間は世界はきっと良くなることを目指しておらず、ただただ変化すること、ルールを変更していくことだけを求めているとも言えるだろう。
良い悪いはただの人間の好みだろうか。
良い世界とは、そもそも良いということについて、深く考えなければならないし、そして今日の話であればデザインとは何か、を見せる人間がきちんと憧れられる時代があることを願いたい。