21世紀の始まりは、アメリカで起きた同時多発テロだった。中学生だったぼくは、登校前にリビングルームに座って朝食を食べていた。見ていたテレビで流れていたニュースは、ビルの黒煙を映し出していた。
それから四半世紀が経った。21世紀は始まりが予感させたように世界中に暗い影を落とすような時代になっている。各地域で起きる問題、原発問題や社会問題、紛争、戦争に対して、ぼくたちは疑問を投げかけ、ある人は激しく、ある人は知恵を持ってとても静かに行動している。ぼくのような無知な人間は、直面する現実に目を向け耳を傾ける心の余裕を保とうとし、納得いかないことには市井の人間として抗戦していくしかない。ぼくは声を荒げていくこともしていない弱気で勇気のない人間だろう。しかし、本当に声を荒げるだけで全ての物事が解決するだろうか。満足感を得ているだけになっていないだろうか。インスタントな大声はどこまで響くのだろうか。そんな大きな空砲を見た時、ぼくは、土地やその土地の人に心を通わせたことがあるか、隣にいる人間を愛し続けられるか、自分と関わる人に親密な関係を気付けるか、ユーモアを持って自分の生活を喜べるか、そんなことを続けるしかできないと思ってしまうのだ。すべての問題はそれでは解決しないだろう。しかし、原発問題だって、戦争だって、それらに堂々と加担できる人間は、親密な関係を持っていない。人間を愛していない人は、堂々とそれらの問題に加担できてしまうのだ。自分を犠牲にしてでも何かを守ろうとか、愛してみようとか、そんな地に足ついた生活実践を続けなければ、問題なんて解決できないのではないか。
それから四半世紀が経った。21世紀は始まりが予感させたように世界中に暗い影を落とすような時代になっている。各地域で起きる問題、原発問題や社会問題、紛争、戦争に対して、ぼくたちは疑問を投げかけ、ある人は激しく、ある人は知恵を持ってとても静かに行動している。ぼくのような無知な人間は、直面する現実に目を向け耳を傾ける心の余裕を保とうとし、納得いかないことには市井の人間として抗戦していくしかない。ぼくは声を荒げていくこともしていない弱気で勇気のない人間だろう。しかし、本当に声を荒げるだけで全ての物事が解決するだろうか。満足感を得ているだけになっていないだろうか。インスタントな大声はどこまで響くのだろうか。そんな大きな空砲を見た時、ぼくは、土地やその土地の人に心を通わせたことがあるか、隣にいる人間を愛し続けられるか、自分と関わる人に親密な関係を気付けるか、ユーモアを持って自分の生活を喜べるか、そんなことを続けるしかできないと思ってしまうのだ。すべての問題はそれでは解決しないだろう。しかし、原発問題だって、戦争だって、それらに堂々と加担できる人間は、親密な関係を持っていない。人間を愛していない人は、堂々とそれらの問題に加担できてしまうのだ。自分を犠牲にしてでも何かを守ろうとか、愛してみようとか、そんな地に足ついた生活実践を続けなければ、問題なんて解決できないのではないか。
あまり自分から遠く遠く離れた深い闇を抱えたようなたくさんの視点のある問題を語ることを避けてきたが、曖昧に言葉を荒げ世界や自分の身の回りを不安で充満させるのは、避けなければいけないのではないか。