2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.7.21

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2025.7.21

現像したリバーサルフィルム6本全てに同じような横線の傷があり、現像所へ文句を言ったが、暖簾に腕押し。言葉が通じないかのように「うちのせいではない」の一点張りである。理由を聞いても、「私にはわからない、他の人はこんな文句を言っていない」というのだ。「スキャンしたら傷は消せるよ」と言われたが、ぼくがリバーサルフィルムを使っているのはスキャンするためではない。フィルムからの印刷のために使っているのだ。以前もフィルムのコマの真ん中でカットされた苦い思い出がある。その時は、「君の写真が曖昧すぎて間違えた」という理解できない意見であった。ぼくは曖昧なものを撮ることに力を注いでいるのだ。

ぼくたちが住む社会には、時に理不尽なまでに厳しい出来事があり、ぼくたちは頻繁にこのような出来事に出会う。
オランダにいると、人情によって会社のルールを破ってくれるような従業員がいることがほとんどなく、会社の規則だからと言って機械のように立ちはだかる。
社員である前にあなたは血の通った一人の人間ではないのか、そのユニフォームやバッチを外して、一歩その時間や建物から足を踏み出せば親から付けられた名のある一人の人間ではないか。
そのような一人の人間としてHuman beingをまっとうする自分の行動に責任を持てる人間が減っていく社会では、会社は規則のもとに人々をコントロールができ、ビジネスの成長は見込めるかもしれないが、健康的な社会のあり方ではないのではないかと思えてならない。
ぼくが今いる街の社会は、常に企業のような大きなものよりも弱者が諦めることによって成立しているところがある。常にぼくは弱者であるが、同時に力を貸せるのであればいつでも弱者の立場に立ちたいと思う。
本当に、傷は現像のせいではないというのだろうか。長く写真を撮ってきたにも関わらず自分で現像できないぼくが悪いということで心を落ち着かせるしか答えが見つからなかった。しかし、結局のところ、自分で現像できないぼくが悪いというのでは、内省的すぎやしないだろうか。