7月4日より世田谷区赤堤の品川やにて展覧会Six Songs from the Laundry Roomを開催している。A Song from the Laundry Roomのこれまでの六編を一気にご覧いただくとても貴重な機会だ。そして、前日譚を一編書いた。他の物語が理解できていれば、なかなかよくできた前日譚だ読んでもらえる気がしている。
店主の品川さんは、ぼくの作品を熱心に追ってくれていて、作品の理解者であり、プリント作品を複数点持ってくださっているコレクターであり、心の支援者である。彼から展覧会をしたいという話をいただき、開催することになった。なかなか自分が参加できない展覧会というのは難しいなと感じていて、これまでも数回断ってきた。彼とはnidi galleryで初めてきちんと言葉を交わし、あの日何時間くらいだっただろうか、3時間くらいだろうか、ギャラリーで作品に影ができてしまうのではないかというほどにその特徴的な強いぎょろっとした目で作品を見てくださっていた。質問される以外には、あまり話してはいなかったと思う。途中コーヒーか何かの一服を挟み、戻ってきた彼が、「今月カードが止まってるので、給料入ってから買いたいので今日のところは少し考えます」と言って帰って行った。カードが止まるというのはもしかすると記憶違いかもしれないが、ぼくはカードが止まるという実際的なこととは裏腹に信頼できる人だと思ったことをはっきりと覚えている。そのことがなかったら今回は良い話でも断っていたかもしれない。展示はプリント作品は環境依存が強いので、恐れていたが、A Song from the Laundry Roomの本のシリーズであれば相性がいいのではないかと思ったし、ぼくもその機会を設けていただけることがとても光栄であった。
店主の品川さんは、ぼくの作品を熱心に追ってくれていて、作品の理解者であり、プリント作品を複数点持ってくださっているコレクターであり、心の支援者である。彼から展覧会をしたいという話をいただき、開催することになった。なかなか自分が参加できない展覧会というのは難しいなと感じていて、これまでも数回断ってきた。彼とはnidi galleryで初めてきちんと言葉を交わし、あの日何時間くらいだっただろうか、3時間くらいだろうか、ギャラリーで作品に影ができてしまうのではないかというほどにその特徴的な強いぎょろっとした目で作品を見てくださっていた。質問される以外には、あまり話してはいなかったと思う。途中コーヒーか何かの一服を挟み、戻ってきた彼が、「今月カードが止まってるので、給料入ってから買いたいので今日のところは少し考えます」と言って帰って行った。カードが止まるというのはもしかすると記憶違いかもしれないが、ぼくはカードが止まるという実際的なこととは裏腹に信頼できる人だと思ったことをはっきりと覚えている。そのことがなかったら今回は良い話でも断っていたかもしれない。展示はプリント作品は環境依存が強いので、恐れていたが、A Song from the Laundry Roomの本のシリーズであれば相性がいいのではないかと思ったし、ぼくもその機会を設けていただけることがとても光栄であった。
開幕後、Instagram上で、彼がA Song from the Laundry Roomの各編を主観的考察で紹介してくれている。それを読んで、作家がどれだけ作品を説明するべきかと考えることになった。
ぼくは鑑賞者に何か具体的な答えや道標を与えたいわけではなく、思考を即したり、新しい視点を与えたいというアイデアを持って文章を書いたり作品を作ったりしている。しかし、時に自分の作品に対して自身が込めた熱量同様のレスポンスが欲しくなるのか、説明したくなってしまう。しかし、自分の意見を具体的に語ることによって鑑賞者や読者が主観的な自由な意見を持つことを抑制してしまっているようにも思うのだ。自由が失われる社会主義的な閉鎖的な社会へのきっかけはこんなことにも潜んでいるかもしれない。
品川さんの主観的考察は興味深いし、自分が見えていなかったものを言語化してくれたり、全く思っても見なかった発見をしてくれていたり、ぼくの頭を覗き込んだのかと思うほどに自分の狙いと一致していることもある。それに対してぼくが何かを言うことは彼の自由意思に対する侵略であり、今ぼくがするべきは傍観なのだ。そうして、展覧会が終わるまで傍観の立場で彼の自由な時に暴走気味な主観的考察を楽しみたいと思う。
聖子ちゃんと夏帆ちゃんとビーチへ行きサンセットを眺める。緩やかな風が心地よい光をさらに心地よいものにしてくれた。こんなキレイなグラデーションを見れるビーチが近くにあることを友人が惚れ惚れしている姿を見て自慢に思う。ビーチは誰のものでもないかもしれないが、自分のものでもある。
品川さんの主観的考察は興味深いし、自分が見えていなかったものを言語化してくれたり、全く思っても見なかった発見をしてくれていたり、ぼくの頭を覗き込んだのかと思うほどに自分の狙いと一致していることもある。それに対してぼくが何かを言うことは彼の自由意思に対する侵略であり、今ぼくがするべきは傍観なのだ。そうして、展覧会が終わるまで傍観の立場で彼の自由な時に暴走気味な主観的考察を楽しみたいと思う。
聖子ちゃんと夏帆ちゃんとビーチへ行きサンセットを眺める。緩やかな風が心地よい光をさらに心地よいものにしてくれた。こんなキレイなグラデーションを見れるビーチが近くにあることを友人が惚れ惚れしている姿を見て自慢に思う。ビーチは誰のものでもないかもしれないが、自分のものでもある。