朝、江藤さんと真帆さんと聖子ちゃんとPompernikkelへいき、頭上に広がる曖昧な晴れ空の下4人でコーヒーとシナモンロールを食べた。江藤さんは、クロワッサンにチーズが焼き込まれたものを食べていた。一度家に帰り、テーブルを挟んでお茶を飲んだ。二人はお揃いのようだが少し色合いや形の違うパンパンに膨れ上がったグレーのリュックサックを背負い、肩には見るからに重量を感じるトートバッグをかけ駅へ向かって家を出て行った。その姿が人間らしくてとても安心した。昨晩の伺った旅行裏話や日々の二人の間に起きる滑稽なネタのような話からも二人の人間らしさを感じ、ぼく自身と聖子ちゃんを見ているようだなと思ったが、今日もまた二人がパンパンに膨れ上がったリュックサックを背負う姿を見て、ぼくが向いている方向は決して間違えていないのではないかと感じられた。
人々の目にも触れないような、そして話題にも上らないような街で、大した金銭的な余裕もないのに日々のんびりとした生活をしているぼくからすると、旅人たちがたとえ大切な友人とはいえ短い2週間ほどの旅行の中で、ない時間をぬうようにわざわざこの街を訪れてくれることに負い目を感じてしまうことがある。都市のように自分の存在なくとも成立する街ではない、と、この海沿いの小さな街を抱え込んでしまうような気にもなるのである。しかし、何をするでもなく歩くだけで楽しそうな姿を見ていると、ぼくが友人を迎え入れる時に勝手に抱え込んでしまっているこの海沿いの小さな街の負も正も実際にはぼくが抱え込んでいるだけの虚構であり、それらは恋をした女性が男性の怠惰が目に入らないのと同様に、ぼくを訪ねてくれる友人や知人の目には、気にするほどのものではないのかと思えてくる。この街にある良いものや自分らしいものを少しくらい感じ取ってもらいたい、貧乏性のように気張っているのはぼく自身だけであり、同時に、虚栄を張るように、この街に住む意味とか意義とかそんなことに執拗なまでに囚われたように考え込んでいるのは見栄っ張りな頭でっかちなぼく自身だけであり、ぼくとこの街を訪れてくれる人は、何も審査をしに来るわけではなく、ただ素直にぼくの住んでいる街やぼくの生活や、その周辺にある言葉にならない情景のようなもの、その姿を見たり感じたりしに来ているのだろうと思った。良い展覧会を美術館に観にいく、教えてもらったレストランに食事に行く、好きだったあのカフェにお茶をしに行く、そんな点と点を繋ぐためだけの移動という行動が増える大都市旅行は、この海沿いの小さな街では通用しない。しかし、一方で、都市生活者や現代的生活者が失い始めているどこでもないところで何かを眺めるでもなく立ち止まルような、点と点の間にはっきりと存在する移動の場所でしかなくなってしまいそうな言語化すらできないようなものを捉えるにはこの街に住むぼくたちを訪れるには素晴らしい場所なのであろう。曖昧で不確定なものを捉えることを意識している自分自身が、恥ずかしくも消し去ろうとしてしまっていたようなことに明確に具体的な気付きをいただいたような気になった。
人々の目にも触れないような、そして話題にも上らないような街で、大した金銭的な余裕もないのに日々のんびりとした生活をしているぼくからすると、旅人たちがたとえ大切な友人とはいえ短い2週間ほどの旅行の中で、ない時間をぬうようにわざわざこの街を訪れてくれることに負い目を感じてしまうことがある。都市のように自分の存在なくとも成立する街ではない、と、この海沿いの小さな街を抱え込んでしまうような気にもなるのである。しかし、何をするでもなく歩くだけで楽しそうな姿を見ていると、ぼくが友人を迎え入れる時に勝手に抱え込んでしまっているこの海沿いの小さな街の負も正も実際にはぼくが抱え込んでいるだけの虚構であり、それらは恋をした女性が男性の怠惰が目に入らないのと同様に、ぼくを訪ねてくれる友人や知人の目には、気にするほどのものではないのかと思えてくる。この街にある良いものや自分らしいものを少しくらい感じ取ってもらいたい、貧乏性のように気張っているのはぼく自身だけであり、同時に、虚栄を張るように、この街に住む意味とか意義とかそんなことに執拗なまでに囚われたように考え込んでいるのは見栄っ張りな頭でっかちなぼく自身だけであり、ぼくとこの街を訪れてくれる人は、何も審査をしに来るわけではなく、ただ素直にぼくの住んでいる街やぼくの生活や、その周辺にある言葉にならない情景のようなもの、その姿を見たり感じたりしに来ているのだろうと思った。良い展覧会を美術館に観にいく、教えてもらったレストランに食事に行く、好きだったあのカフェにお茶をしに行く、そんな点と点を繋ぐためだけの移動という行動が増える大都市旅行は、この海沿いの小さな街では通用しない。しかし、一方で、都市生活者や現代的生活者が失い始めているどこでもないところで何かを眺めるでもなく立ち止まルような、点と点の間にはっきりと存在する移動の場所でしかなくなってしまいそうな言語化すらできないようなものを捉えるにはこの街に住むぼくたちを訪れるには素晴らしい場所なのであろう。曖昧で不確定なものを捉えることを意識している自分自身が、恥ずかしくも消し去ろうとしてしまっていたようなことに明確に具体的な気付きをいただいたような気になった。