ぼくが常に悩んでいることを完全に理解してくれるような同じ境遇にいる人に出会い、それを喜びと言えばいいのか共感し傷を舐め合うようなものだったのかは定かではないものの、江藤さんと真帆さん、ぼくと聖子ちゃんととても似たコンビに出会ったことがとても嬉しくなった。いや、江藤さんはぼくと違って傷を傷と感じないだろう。家で簡単に夕食を食べ、腹がちぎれるほど笑える逸話を聞き、その後Pietまで歩きアイスを食べた。帰り道、江藤さんが「日本はもう暑いという言葉で形容できないほどに暑いよ」と言いながらその暑さを言語化するために奇声を放っていたのが、愛車のポルシェとか、原宿の店舗とか、彼の成し遂げてきたデザイン仕事とかをも凌駕するほど等身大の人間らしい姿を見たようで、来てくださってよかったなと思った。
偏愛で溢れた家や仕事場など彼らの「ホーム」へ訪れることはあったが、これまでぼくたちの「ホーム」へ来ていただいたことがなく、大袈裟にいうといつも前出したようなもののせいか、巨大な何かに向かうように少し慄くような印象さえ感じていたが、今日こうやってうちに滞在してもらうということで、勝手に感じていた、警戒心というか、大きく抱きすぎていた敬意というか、見えない薄い膜のような、分厚い壁とも言えるような、物体が取り除かれたようで正直な距離感で話すことができたことがとても嬉しかった。
自分が見たり聴いたりするものが制限され始めると同時に語彙力が失われ始める。口癖というものがあるように、人はついつい同じような言葉を使いがちである。ここの読者は、ぼくの言葉の癖や言い方などを捉えているだろうが、人は何かを表現する時にも、豊かな表現方法を身につける以上に、簡略的な一言で済ませてしまうことだってある。言語や語彙力、表現方法が失われることによる、感覚の欠落という危険性についても考え込むことがある。この世の中にある物事、行為などには、言語化されていないものがたくさん存在する。それらを丁寧に掬い取り、言語化するという行為が、その物事を具体化させること、世の中に存在することを証明することになる、それは生まれた子供に名前がつくことによって世の中にその子供の存在が認識されるように。語彙力が感覚を豊かにする、と同時に言葉という曖昧なものを人は信じて使いすぎているとも言える。語彙力だけで感覚が豊かになるわけではない、話すリズム、仕草、書く情景、そんなものによって人間の感覚が豊かになるのではないか。
言葉なんてものは、とても曖昧なものなのだから、その最も曖昧なものを利用してコミュニケーションを取ろうとしているぼくたちやここでこの文章を読んでいる人たちは、ずいぶんと変わっているようにも思う。ぼくは、言葉が持つリズムや感情の連なり、例えば二度同じ言葉を繰り返すことによって強調されたり、読者が重要性を感じたりするような、言葉の意味という枠組みを超えた、言葉の使い方や機能という側面にも文章を書くうえで興味がある。ぼくの文章はあとから自分で読み返してみると汚いなと思ったり、理解できなかったりするのだが、その時に何を考えていたのか、どんな勢いにあったのか、どんな心の状態だったのか、などは具体的に思い返すことができる。
自分の語彙力という言語世界を広げないことにはその中からの選択ができない。語彙力という言語世界を広げるには読書体験や会話体験をする他はない。しかし、言語というその言葉に先立つ「実体」を掴まなければならない。実体は言語や哲学に先立つ。
12ビットを24ビッドに広げることをすると同時に、12.22222222222222222222のような無限に広がる隙間を埋めるように実体はぼくたちの目の前に切れ目なく存在する。
食卓に並べられた「さかな」と「おさら」の間には、デジタル数値のような分断は存在しない。そこには実際的にお醤油か魚の油か大根おろしの汁か、もしくは柚子の汁か、そんなものが存在するのである。そんな風に考えると言葉と言葉の隙間なんてものは存在せずその間には緩やかな連なりが存在するのである。言葉は途切れずにリズムを掴んでいる。そのリズムこそが人間が捉えるべき感覚なのではないか。
偏愛で溢れた家や仕事場など彼らの「ホーム」へ訪れることはあったが、これまでぼくたちの「ホーム」へ来ていただいたことがなく、大袈裟にいうといつも前出したようなもののせいか、巨大な何かに向かうように少し慄くような印象さえ感じていたが、今日こうやってうちに滞在してもらうということで、勝手に感じていた、警戒心というか、大きく抱きすぎていた敬意というか、見えない薄い膜のような、分厚い壁とも言えるような、物体が取り除かれたようで正直な距離感で話すことができたことがとても嬉しかった。
自分が見たり聴いたりするものが制限され始めると同時に語彙力が失われ始める。口癖というものがあるように、人はついつい同じような言葉を使いがちである。ここの読者は、ぼくの言葉の癖や言い方などを捉えているだろうが、人は何かを表現する時にも、豊かな表現方法を身につける以上に、簡略的な一言で済ませてしまうことだってある。言語や語彙力、表現方法が失われることによる、感覚の欠落という危険性についても考え込むことがある。この世の中にある物事、行為などには、言語化されていないものがたくさん存在する。それらを丁寧に掬い取り、言語化するという行為が、その物事を具体化させること、世の中に存在することを証明することになる、それは生まれた子供に名前がつくことによって世の中にその子供の存在が認識されるように。語彙力が感覚を豊かにする、と同時に言葉という曖昧なものを人は信じて使いすぎているとも言える。語彙力だけで感覚が豊かになるわけではない、話すリズム、仕草、書く情景、そんなものによって人間の感覚が豊かになるのではないか。
言葉なんてものは、とても曖昧なものなのだから、その最も曖昧なものを利用してコミュニケーションを取ろうとしているぼくたちやここでこの文章を読んでいる人たちは、ずいぶんと変わっているようにも思う。ぼくは、言葉が持つリズムや感情の連なり、例えば二度同じ言葉を繰り返すことによって強調されたり、読者が重要性を感じたりするような、言葉の意味という枠組みを超えた、言葉の使い方や機能という側面にも文章を書くうえで興味がある。ぼくの文章はあとから自分で読み返してみると汚いなと思ったり、理解できなかったりするのだが、その時に何を考えていたのか、どんな勢いにあったのか、どんな心の状態だったのか、などは具体的に思い返すことができる。
自分の語彙力という言語世界を広げないことにはその中からの選択ができない。語彙力という言語世界を広げるには読書体験や会話体験をする他はない。しかし、言語というその言葉に先立つ「実体」を掴まなければならない。実体は言語や哲学に先立つ。
12ビットを24ビッドに広げることをすると同時に、12.22222222222222222222のような無限に広がる隙間を埋めるように実体はぼくたちの目の前に切れ目なく存在する。
食卓に並べられた「さかな」と「おさら」の間には、デジタル数値のような分断は存在しない。そこには実際的にお醤油か魚の油か大根おろしの汁か、もしくは柚子の汁か、そんなものが存在するのである。そんな風に考えると言葉と言葉の隙間なんてものは存在せずその間には緩やかな連なりが存在するのである。言葉は途切れずにリズムを掴んでいる。そのリズムこそが人間が捉えるべき感覚なのではないか。