2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.7.1

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2025.7.1

パリで良い刺激と、げんなりするようなことをいくつか。
自分の今いる環境や状況に囚われずに自由な発想とその場のリズムや感情の中に正直に飛び回るような制作方法をしている友人がいて、ぼくは羨ましく思った。彼は洋服を作っていて、それほど仲良くしているわけではなく、ましてや食事に行ったことすらもない。1年に1度か2度ほど会う程度の関係である。どう発表するか、とか、どこで発表するか、とか、自分がやってきたことはこうだからこうしたい、とか、もちろん彼なりの理論があるのだろうが、冗談で「ノリですよ」と言ってしまえるほどの強度を感じる。本人がノリですよとは言っていないが、「ノリです」と一言言ってしまいそうな雰囲気さえある。作風に強度を感じるというよりかは、自分に正直であることや、自力があることの表れであるような気がしてならなかった。
彼が作るものが肯定されるのは、彼が行動を起こしてそれを彼自身の判断で行うからであり、彼が正しいと言われている場所で誰かに頼まれて作っているからではないということ、ではないだろうか。とても風通しが良いリズムのある友人で1時間弱あっただけで大いに刺激をもらった。
ここのところ毎日のように考えていることではあるが、作品と作品制作に飲み込まれたような人間にはなりたくないと思った。ぼくは自分の生活をしていて、自分が考えるべきことや生きたいスタイルがあり、あくまでその中に制作がある、その中から漏れ出すようにしか作品が作れない。

げんなりしたもの。ぼくは、作為的であったとしても手の内を見せないこと、こんがらがったものをいかにこんがらがったままに表現しないか、昇華させていくか、ということを好んでいて、今回Yvon Lambertで展示をしたMuro in Lucca #1,#2においても、絵を見ると、「ただの壁の痕跡の絵」と捉えられるが、そこにある感情や物語を読み解くということを狙いとした。
しかし、その手の内がわかりやすい形で強く全面に打ち出されて、媚があり、共感を狙い、さらにアウトプットされたものの強度が足りないということを目の当たりにした時に、ぼくはずいぶんとげんなりしてしまった。
しなやかで、何にも囚われずに、堂々と生きていたい。