どんなことでこれを読むことになったのか忘れたが、ある同世代の日本人音楽家の対談を読んでいると、自分がなぜ昔に比べて同じような仕事をしている人々にうまく溶け込めないか、それに対して苦手意識があり、時に嫌悪感さえをも感じるのかがはっきりと書かれていた。そこでは、誰々がこう言ってたとか、ジャンルを超え様々なものが引用され、会話が展開されていた。友人との会話やジョークであれば容易に起きることであるが、ある作家がパブリックな場所において、自分の作品に付加価値をつけるような、先人の言葉にしがみついているような気がし、彼らの実践の前に偉大な先人の言葉が先立ちすぎてて、読んでいられなくなりページを閉じた。ぼく自身は、高校生や大学生の頃にそんな風に自分の興味が向くままに読み漁り育っていたので、それをしたくなる気持ちがわかるし、特にぼくたちの世代が10代や20代の頃には、引用することが美徳とされるようなフィールドも存在した。あまり詳しくはないがもっと大昔からさらには今でもそれが美徳とされるフィールドもあるだろう。そのゲームが好まれているところもあるだろう。大学時代に、論文などを書くにあたり、文献を読み漁り、それらを引用するという形式は、自らの感じたことを正直に描きたいと思っていたぼくにとってはとても苦痛な作業であったが、それとも似たものである気がする。
ページを閉じてしばらく心が乱れてしまった。引用ゲームというか、他者の知性による武装というものには、ぼく自身は気をつけないといけないと思った。ぼくは、身体が先立たない知性や美学、哲学のあり方にはとても否定的であり、ぼく自身や自分の身の回りにあるものは言語なくとも身体(実体)だけが語るという存在でありたいと思っている。ジャン・ルーシュのドキュメンタリーや、ヘンリー・デイビッド・ソロー『森の生活』やレヴィ=ストロース『野生の思考』、マルセル・モース『贈与論』を読んだ大学生だった2010年頃から、東日本大震災や大学卒業なども重なり、はっきりと自分の嗜好を自認したのは、その後行くことになる2012年のフィジーでの生活だった。原住民との日々は、ぼくの思考に大きな転換点を与えることとなった。フィジーで自分の言語が全く機能していないということがあり、身体こそが、ダンスこそが自身の美学を体現することでしかなく、言語化や引用などというものを語ろうともそんなものは存在しなかった。英語やフィジアンという言語が使えなかったこともあるが、同時にぼくが好んでいたファッションや文学やノイズ音楽などもそのコミュニティでは全くないものとされた。自分のアイデンティティを表すように着ていたバンドTシャツも、布切れでしかなかった。ココナッツの木に登ってココナッツを取ることで友達になり、ダンスがうまければとにかくモテた。カヴァを囲めばみんな家族となった。それらを社会学者や思想家がとても的を得た表現で言語化していた。
ソファに寝転がり、鋭く差し込む光を感じながら、ぼくは他者の作ってきた言語によって構成される人間ではなく、自らの生活の実践者として、自分自身を研究対象とした人間でありたいと改めて思った。
ページを閉じてしばらく心が乱れてしまった。引用ゲームというか、他者の知性による武装というものには、ぼく自身は気をつけないといけないと思った。ぼくは、身体が先立たない知性や美学、哲学のあり方にはとても否定的であり、ぼく自身や自分の身の回りにあるものは言語なくとも身体(実体)だけが語るという存在でありたいと思っている。ジャン・ルーシュのドキュメンタリーや、ヘンリー・デイビッド・ソロー『森の生活』やレヴィ=ストロース『野生の思考』、マルセル・モース『贈与論』を読んだ大学生だった2010年頃から、東日本大震災や大学卒業なども重なり、はっきりと自分の嗜好を自認したのは、その後行くことになる2012年のフィジーでの生活だった。原住民との日々は、ぼくの思考に大きな転換点を与えることとなった。フィジーで自分の言語が全く機能していないということがあり、身体こそが、ダンスこそが自身の美学を体現することでしかなく、言語化や引用などというものを語ろうともそんなものは存在しなかった。英語やフィジアンという言語が使えなかったこともあるが、同時にぼくが好んでいたファッションや文学やノイズ音楽などもそのコミュニティでは全くないものとされた。自分のアイデンティティを表すように着ていたバンドTシャツも、布切れでしかなかった。ココナッツの木に登ってココナッツを取ることで友達になり、ダンスがうまければとにかくモテた。カヴァを囲めばみんな家族となった。それらを社会学者や思想家がとても的を得た表現で言語化していた。
ソファに寝転がり、鋭く差し込む光を感じながら、ぼくは他者の作ってきた言語によって構成される人間ではなく、自らの生活の実践者として、自分自身を研究対象とした人間でありたいと改めて思った。