2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.8

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2025.6.8

ぼくは肉体労働を年をとっても続けることはできないが、手や足など人間に与えられたものを使って仕事をするということを続けていきたいと思ってきたが、実際にそういう風に仕事をしているのだろうか。手や足、そして頭(知性)をきちんと使って仕事ができていれば背中の痛みだとかも存在せず、きちんと手や足や頭に精神が宿っていれば、心に引っ掛かる何か不安なものも取り除けるのではないだろうか。ぼくは本当に何を考えて生きているのだろうか。いや、焦らずに、もっともっと長い時間の中にある今起きることに目を向け、それに対峙することで生み出されているものを愛でようとするべきなのだ。
フィルム現像を依頼して、受け取って家でスキャンしていると、嫌な予感がした。カットがずれまくっていて、6枚ほど写真の真ん中でカットされている。本当にあり得ない。もうオランダに来てから4本目である。人のフィルムをなんだと思っているのだ、とソファの上で身体が震えるほどに怒っている。
昔は、カメラの調子が悪くてフィルムに光の筋が入ったくらいでは、崩れないくらいの強度を持った実生活をして、写真に光の筋が入ってもその写真だけで写真集(Girl2015自費出版)を作っていたくらいなのに、今や現像所でフィルムを絵の真ん中でカットされたらイライラして、実生活に支障をきたすほどに荒れ狂っている。もちろん正しくクレームするべきかもしれない、しかし一方で自分の作品は、それくらいでは崩れないほどの強度を持った実生活から生まれているべきだとも思う。目の前に起きた本当に悲しくなるような出来事さえにも荒れ狂わずに軽快に飄々と乗り越えていく。風のように。