早めに夕飯を済ませ、ステラをMariaに預け、NDTの公演へ。
会場が暗くなり、息を呑む観衆、暗闇から静かに浮かび上がる絵。その瞬間、ぼくはステージを眺めながら、自分の作品が大勢の前で演じられるというのはどういう気分になるのだろうか、ぼくは死ぬまでにいつかこのような機会を持つことはあるのだろうか、自分のやっていることはそのような機会を持ち得ることなのだろうか、と思った。ぼくはコンテンポラリーダンスに触れずに生きてきたということもあり、ぼく自身の判断基準が曖昧なままに作品の良し悪しを語るには忍びない。それでも何か一言言うのであれば、初体験というものは良いものになりがちだが、大きに刺激を受け自分の思考のリズムともタイミングがよかったなと思った。今の思考状態にない場合には、また違った捉え方をしていただろう。パフォーマンスを観ていると、彼らの日々の鍛錬とこの45分間の記録されることのない儚い時間の関係性はどのようなものかと聞いてみたくなった。きっとNanni Morettiなら映像をとめ、入ってきて一人のダンサーに質問をしていそうだ。
それでもぼくはふと思った。日々の鍛錬の集約として、目の前で観衆から溢れんばかりの大歓声や自分の行動に対する大きな見返りがあるのに、なぜ人間は日常にあるくだらないことで喜び悲しむのだろうか。なぜそれほど楽しいと思えないインスタントなものがぼくたち、そして彼ら彼女らの中に存在する余地があるのだろうか。
誰かはわからなかったが、ダンサーの一人がカーテンコールの際に花束を受け取った。その際の喜びを全身で表現する即興ダンスにぼくはとても冷めてしまったのだが、それは踊り方が可愛らしかったからであり、動きの中では感じ得なかった45分間のパフォーマンスを支えていた彼女の「身体」がはっきりと浮き上がったからであり、その即興ダンスの中に同時に通常みる人間の可動域を越えてしまいある種の動物性を見出してしまったからであり、また踊り手の本人の趣味や性格などの素性が行動に出た瞬間であり、その即興ダンスはぼく自身を作られたものの中から現実へ引き戻す行為であった。作られたものの中では美しいが、現実に置かれると醜いものもこの世には多数存在する。
もしくは、あの即興ダンスが、 ぼくの無知によって即興ダンスだと思ってしまっているだけで、ある種の古典的な喜びを全身で表現するダンスなのだとしたら、ぼくの作品を観ていた時の感情とカーテンコールの際の感情との間にシームレスに知識による架け橋が渡されただろう。しかし、だ。このぼく自身の「冷め」に集約されているのは、コンテンポラリーはいつだって正しいという解釈ではないか。理解できないものはダメなものになり得ないのだ。ぼくがその瞬間に行われたダンスの意味の理解を得てしまったことで、彼女の「身体」や動きの可愛さに目が届いてしまったのではないか。
会場が暗くなり、息を呑む観衆、暗闇から静かに浮かび上がる絵。その瞬間、ぼくはステージを眺めながら、自分の作品が大勢の前で演じられるというのはどういう気分になるのだろうか、ぼくは死ぬまでにいつかこのような機会を持つことはあるのだろうか、自分のやっていることはそのような機会を持ち得ることなのだろうか、と思った。ぼくはコンテンポラリーダンスに触れずに生きてきたということもあり、ぼく自身の判断基準が曖昧なままに作品の良し悪しを語るには忍びない。それでも何か一言言うのであれば、初体験というものは良いものになりがちだが、大きに刺激を受け自分の思考のリズムともタイミングがよかったなと思った。今の思考状態にない場合には、また違った捉え方をしていただろう。パフォーマンスを観ていると、彼らの日々の鍛錬とこの45分間の記録されることのない儚い時間の関係性はどのようなものかと聞いてみたくなった。きっとNanni Morettiなら映像をとめ、入ってきて一人のダンサーに質問をしていそうだ。
それでもぼくはふと思った。日々の鍛錬の集約として、目の前で観衆から溢れんばかりの大歓声や自分の行動に対する大きな見返りがあるのに、なぜ人間は日常にあるくだらないことで喜び悲しむのだろうか。なぜそれほど楽しいと思えないインスタントなものがぼくたち、そして彼ら彼女らの中に存在する余地があるのだろうか。
誰かはわからなかったが、ダンサーの一人がカーテンコールの際に花束を受け取った。その際の喜びを全身で表現する即興ダンスにぼくはとても冷めてしまったのだが、それは踊り方が可愛らしかったからであり、動きの中では感じ得なかった45分間のパフォーマンスを支えていた彼女の「身体」がはっきりと浮き上がったからであり、その即興ダンスの中に同時に通常みる人間の可動域を越えてしまいある種の動物性を見出してしまったからであり、また踊り手の本人の趣味や性格などの素性が行動に出た瞬間であり、その即興ダンスはぼく自身を作られたものの中から現実へ引き戻す行為であった。作られたものの中では美しいが、現実に置かれると醜いものもこの世には多数存在する。
もしくは、あの即興ダンスが、 ぼくの無知によって即興ダンスだと思ってしまっているだけで、ある種の古典的な喜びを全身で表現するダンスなのだとしたら、ぼくの作品を観ていた時の感情とカーテンコールの際の感情との間にシームレスに知識による架け橋が渡されただろう。しかし、だ。このぼく自身の「冷め」に集約されているのは、コンテンポラリーはいつだって正しいという解釈ではないか。理解できないものはダメなものになり得ないのだ。ぼくがその瞬間に行われたダンスの意味の理解を得てしまったことで、彼女の「身体」や動きの可愛さに目が届いてしまったのではないか。
コンテンポラリーは常に、執着もせず形式ばらず、軽快だ。それは理解できないものに対峙した時にだけ生まれる何かを含んでいるからだ。ある種の古典などが時間の経過とともに持ち合わせた「重さ」をぼくは好むが、同時に、理解し得ないものとしてのコンテンポラリー作品をぼくは作りたいのかもしれないと思った。
さて、作品を制作することについての話が理解できる友人は、自分のモチベーションになるのか、もしくは自分自身の制作に向かう姿勢を正してくれる存在だろうか。