今日からパリではぼくが参加しているグループ展が始まっているというのに、ぼくは本当にくだらないことに、一日中、その本当にくだらないことに取り憑かれたかのように執拗に執着してしまいモヤモヤしている。
例えば、人の嫌な行為を見たときに、自分はそうしない、そうありたくないという反面教師だけでいいはずなのに、文句を言ったり必要に執着して嫌なところを言語化し、他人に伝えたりする。そんな嫌なら見なければいいのに、とよく言われるが、どうも嫌なものを嫌だと言わないと気が済まないのか、幼稚なぼくの思考はどんどんと嫌なものを嫌だという、そのときに嫌になっている自分の心を整理しようと必死になる。
例えば、人の嫌な行為を見たときに、自分はそうしない、そうありたくないという反面教師だけでいいはずなのに、文句を言ったり必要に執着して嫌なところを言語化し、他人に伝えたりする。そんな嫌なら見なければいいのに、とよく言われるが、どうも嫌なものを嫌だと言わないと気が済まないのか、幼稚なぼくの思考はどんどんと嫌なものを嫌だという、そのときに嫌になっている自分の心を整理しようと必死になる。
最初にくだらないと言ったのは、他人のことだからだ。しかし、ぼくは他人だろうが、友人である以上彼ら彼女らが幸せであって欲しいと願っているし、知り合ってしまったのだから、避けたいと思っても感情移入してしまう。大袈裟に言いすぎるが、友人に降りかかる災いはぼくのものでもあり、手助けしないわけにはいかない、手助けできなくても少なくとも正面から向き合いたい、そういう性格なのだ。それに囚われるのは幼稚かもしれないが、同時に考えることで彼ら彼女らの道を見つけたいとも思う。
ぼくは、30代の半ばを過ぎ、少なからず30代はなかなか壁があるということを知っている。芸術家だろうか、政治家だろうが、市井の人間であり、同じように歳を重ね、家族が生まれたり死んだり、必然性を持っているかのようにある年齢に差し掛かると平等にそれなりの厄介な出来事にもぶち当たる。どんな風にそれを乗り越えるか、という話をしたいわけではなく、ぼくは30代前半は特に悪魔のような人間が甘い声をかけて近寄ってくる年頃だと思っている。それは、20代を駆け抜けたり、もやもやしていたり、割と何をやってもそれなりにうまくいく。何よりも大きな希望を抱けば抱くほど、その希望が自分を救ってくれるのだ。しかし、30代も半ばに差しさかると、小さい頃に描いていた自分が抱いていたはずの大きな夢に届かないかもしれないという現実が見えてくる。人生のいくつかの身体性を伴うことは30代のあるタイミングで失われる。もうこれ以上早く走ることもできなくなるだろう。どんどんといきのいい無鉄砲な若者も増えてくる。人生の最後に向けて、線香花火の火花が四方八方に飛び散り激しく燃えるように人生の30代の前半にはところ構わず大きく飛び散るものがある。
ぼくは、30代の半ばを過ぎ、少なからず30代はなかなか壁があるということを知っている。芸術家だろうか、政治家だろうが、市井の人間であり、同じように歳を重ね、家族が生まれたり死んだり、必然性を持っているかのようにある年齢に差し掛かると平等にそれなりの厄介な出来事にもぶち当たる。どんな風にそれを乗り越えるか、という話をしたいわけではなく、ぼくは30代前半は特に悪魔のような人間が甘い声をかけて近寄ってくる年頃だと思っている。それは、20代を駆け抜けたり、もやもやしていたり、割と何をやってもそれなりにうまくいく。何よりも大きな希望を抱けば抱くほど、その希望が自分を救ってくれるのだ。しかし、30代も半ばに差しさかると、小さい頃に描いていた自分が抱いていたはずの大きな夢に届かないかもしれないという現実が見えてくる。人生のいくつかの身体性を伴うことは30代のあるタイミングで失われる。もうこれ以上早く走ることもできなくなるだろう。どんどんといきのいい無鉄砲な若者も増えてくる。人生の最後に向けて、線香花火の火花が四方八方に飛び散り激しく燃えるように人生の30代の前半にはところ構わず大きく飛び散るものがある。
しかし、その大きな炎を消すように玉を揺すぶる行為をする悪魔が存在するのだ。ぼくは、そのような人間を許すことはできない。実際、おそらく自分も玉を揺すぶる側だったこともある。玉が落ちて火が消えてもそれはその人生である、消えたら消えたなりの人生のあり方があるだろう。それでもその線香花火が枝垂れ柳になっていく様を人間が経験しないことには、自分自身はまだ松葉のように四方八方に飛び散ることができるということを火が消えてしまった後も引きずってしまう。だから、ぼくは、人生前半のハイライトとも言えるような時期が与えてくれるその大きな変化を正しく素直に自分自身で受け取るべきだと思うのだ。しかし、本当にそんな時期には玉を落とそうとしてくる、むしろ玉が落ちてしまうような時期であることさえも知らない欲深い遊び好きの悪魔が甘い声をかけて近寄ってくるのである。
そんな直面にいるかもしれないある友人の話を聞き、ぼくは非常に納得がいかなかった。友人に対してではなく、その友人に近寄っているように見える悪魔に対して、だ。実態は知らない、何が起きているかも知らない、しかしぼくは自分の想像の中では、ぼくの好きではない情景が浮かんだ。あくまで他人のことだ、ぼくが関与する必要のないことであり、全貌を知らないぼくの想像が越えすぎたくだらない夢想だとは分かりつつも、友人はどんな風にこの時期特有の大きな変化を正しく受け取ることができるのかを憂いてしまいモヤモヤとしている。しかし、これはぼくのような他人が伝えたところで何にもならない、きっと本人が本人の決断によって正しい方向に変化させていくしかないのだ。
散歩しながら、FugaziのI’m So Tiredを聴いていると、今の気分はピアノなのだろうかと思った。
散歩しながら、FugaziのI’m So Tiredを聴いていると、今の気分はピアノなのだろうかと思った。