2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.5

Translate

2025.6.5

趣味と言われても何も返す言葉がないくらいの低空飛行で作品を制作して、時々発表している。そんなぼくではあるが、明日6月6日からパリのYvon Lambertにて開催されるグループ展『MA - ENTRE LES LIGNES』に参加する。一つの憧れの場所であり、いつかぼくも自分の作品をこの場所で見ることができるのだろうかと恋焦がれていた。Daniel Gustav Cramer、David Horvitz、Sol LeWitt、 Nigel Peake、Cy Twomblyらぼくが敬愛する作家らと並んで自分の名前を見ることには少々不思議な感覚があるが、その名前の並びを見ただけで心が満たされるような気分になる。まだ、実際に自分の作品を見ているわけではないので、実感がないとも言えるが、低空飛行でも継続していると、時々こうやって心を満たしてくれるような機会を与えてくれる人がいる。偶然的に起きているとも言えるが、同時に自分が作っているものが誰かの心に少しくらいは引っかかっているのだろうとも思える。
ぼくの場合、これまで作品を買ってくれたり支えてくれたり応援してくれる人たちがいて、彼ら彼女らの姿がぼくの脳裏に焼き付いていて、これからも制作を続けていきたい、違う作品を見てもらいたいという気分にさせられる側面はあるものの、直接的には誰からも頼まれずに制作しているので、低空飛行でも飛び続けられるのかもしれない。そして、自分自身の私情を作品に際限なく注ぎ入れることができる。それもぼくにとっては重要な要素である。
ある作家にとって、その芸術ジャンルに型があり、ときに多くの人を巻き込み、見せる場所が必要である場合には、それはクライアントがいる状態と近いものとなると話を聞いて思った。その場合には、一つの作品にどのくらいの私情を含ませることができるのだろうかと思った。その点、小説はとても自由である。
それから、なんとなくこれまで存在は知っていたものの聞くことを避けていた、作品制作する友人のポッドキャストを聴いてみた。それは応援してくれている方々への活動報告であり、冒険家の報告会のようなものに近いと思った。曲りながらに制作をするぼくと制作を軸とする彼女の大きな相違点は、彼女の制作活動自体が、先人が成し遂げてこなかった無謀なものに挑戦している点にあり、彼女もぼく同様に自分自身のためではあるかもしれないが、もっと具体的に社会的な意味や未来の価値を含んでいると思った。その点やはり賛同と報告というものが重要な要素となり彼女の性格や人となりを形成している気がし、納得した。
それから、ある雑誌の編集長と話していて「品格」の話になり、David Beckhamが今のマンチェスターUの選手には品格がないと言ったという話をすると、「ぼくが好きなF1レーサーたちは品格なんてものは誰も気にしていません」と言っていた。イングランドフットボールとF1では構造が全く違うし、始まりにも大きな違いがある。ぼく自身も、例えば労働者としての品位とか、日本人ないしはアジア系移民として西洋文化の中で存在するときにあるべき品位、みたいなことを考えるのが好きでここのところ頻繁に「品格」について思考を巡らせていたが、編集長との会話の中で、「品格」を求める人たちは、第一ラウンドの優勢を引きずり第三ラウンドで守りに入った弱気なボクサーのようだなと思った。
品格を意識することは、過去の栄光を継承しようとする人が寄りたくなり甘い蜜なのではないのか、無謀なものや未知へ挑戦する冒険者は品格など意識すらしてはいないだろう。さて、自分はどうだろうか、野心を抱いていた頃から、無謀なことを挑戦しようとしてきたか、そしてその無謀さののちに少しだけ垣間見えるだろう興奮を受け取ろうとしているだろうか。
ぼくの制作には、人生か与えてくれるものをきちんと受け取ることができるか、それを受け取れるだけの感性を持ち日々生活しているかを基礎とし、さらには生活の実践と実験、思考の流れの記録、それこそが『2100年の生活学』の根源にあるテーマであり、ぼくはそれらを言語化しようとしているのだと思う。ここに日々書き殴られる文章は、日記でもなく、エッセイでもなく、体裁の良い文体でもない。自身の作品や制作に対するレファレンスになるものではあるかもしれないが、そうではなく、誤字脱字までをも含んだ生活の実践と実験の成果と思考の動きのみがここでは語られるべきなのだ。一見、社会的価値が感じられなくとも、継続していることと共有し続けることによって、自分が作っているものが誰かの心に少しくらいは引っかかっているのだろう。嬉しいグループ展が明日から始まる。