4日前くらいだっただろうか、朝、目覚めると、寝違えたかのように背中に激痛を感じた。捻ると痛いし、姿勢を正しても痛む。起き上がって、顔を洗ったり、モップがけをしたりしていると、徐々に痛みは和らぎ始める。ベッドが悪いのだろうか、寝ていると背中が触れるからなのかとても痛い。最初2日間くらいは、何となく捻ると痛いし温めて、ストレッチでもして安静にでもするかと色々やっていたが、誤魔化すかのようにしか痛みが引かないので、置き鍼を貼ってみた。背中に手は届くけれど、狙い通りうまく貼れないので、こういう時に一人で生活していると困るよなと思った。ステラにお願いできれば貼って欲しいくらいである。一人で生活できてしまう人はこんなことにも不便さを感じないのだろうが、ぼくの場合は、背中にきちんと鍼も貼れないくらいなら友人に貼って欲しいと電話をしたくなる。一人で生活できない人は人懐こくなったり、甘え上手になったりするのだろう。一人で生活できてしまう人はコミュニケーションが苦手でも生きていく。きっと、コミュニケーションを取るのが苦手な人が一人で生活していく傾向にあり、どうも人懐っこい人は誰かといるということではなく、自分自身の生活の中にあるこだわりのようなものが、結果的に性格を形成しているのかもしれないと、鏡越しに見える不揃いな並びの置き鍼を見て思った。
昨日から、特に食事の際、食べ物を飲み込み、1秒もしないくらいで、背中のある箇所を食べ物が通ると、神経に触れるかのように痛い。姿勢を良くして、しっかりと小さく咀嚼して飲み込むとそれほどの痛みはない。熱いものや辛いものも痛みを伴うわけではなく、その箇所を通る際の「サイズ」が問題のようである。
昼下がり、外の静けさと窓から入り込む光が心地よく、気分も晴れやかになるのでコーヒーでも飲みに行こうかと思ったのだが、リビングの静けさに満足してしまい、コーヒーを淹れ、リュバーヴのジャムトーストを2枚食べた。そのままソファに寝転がりながら本を読んでいたら、いつからこんなことをしてなかったのだろうか懐かしい香りが舞った。昼下がりにコーヒーを飲んだり、トーストも食べていた、本も読んでいただろう、ソファに座ったり寝転がったりもしていた。それでも、窓の外を眺めるとまだ夕暮れとは呼べないような強い光があり、コーヒーの香りが充満する部屋のど真ん中に位置するソファと、そこに誰にも遠慮するでもなく寝転がる自分自身。身体でスペースを掴んだ気がした。中学校の体育館のど真ん中で寝転がっている時のような、不必要にもののない大きな空間の持つ雄大さにブラブラとするかのような感覚。スピーカーからは部屋の中心で広がっているぼくに遠慮するかのような音量でFranz SchubertのピアノソナタD959 Andantinoが流れていた。
夜、フォーを食べたが、背中はあまり痛まなかった。Robert Bresson監督『バルタザールはどこへ行く』を鑑賞。昔、みなみ会館かどこかで観た気がするが、絵が良すぎて、何度も巻き戻ししてしまった。ブレッソンは、自身では「映画」と呼ばず、「シネマトグラフ」と呼ぶことを徹底したというが、まさにその意志が作品に反映している。偶然にもFranz SchubertのピアノソナタD959 Andantinoが流れていた。クラシックの曲の表記は何とするのが正しいのかよくわからない。ピアノソナタ20番、と言っても、D959というのがわかるのだろうか。それともAndantinoでわかるのか。ピアノ・ソナタ第20番イ長調の第2楽章アンダンティーノみたいなのが日本語で書くなら正しいのだろうが、ぼくにはイ長調が何かわかっていない。
昨日から、特に食事の際、食べ物を飲み込み、1秒もしないくらいで、背中のある箇所を食べ物が通ると、神経に触れるかのように痛い。姿勢を良くして、しっかりと小さく咀嚼して飲み込むとそれほどの痛みはない。熱いものや辛いものも痛みを伴うわけではなく、その箇所を通る際の「サイズ」が問題のようである。
昼下がり、外の静けさと窓から入り込む光が心地よく、気分も晴れやかになるのでコーヒーでも飲みに行こうかと思ったのだが、リビングの静けさに満足してしまい、コーヒーを淹れ、リュバーヴのジャムトーストを2枚食べた。そのままソファに寝転がりながら本を読んでいたら、いつからこんなことをしてなかったのだろうか懐かしい香りが舞った。昼下がりにコーヒーを飲んだり、トーストも食べていた、本も読んでいただろう、ソファに座ったり寝転がったりもしていた。それでも、窓の外を眺めるとまだ夕暮れとは呼べないような強い光があり、コーヒーの香りが充満する部屋のど真ん中に位置するソファと、そこに誰にも遠慮するでもなく寝転がる自分自身。身体でスペースを掴んだ気がした。中学校の体育館のど真ん中で寝転がっている時のような、不必要にもののない大きな空間の持つ雄大さにブラブラとするかのような感覚。スピーカーからは部屋の中心で広がっているぼくに遠慮するかのような音量でFranz SchubertのピアノソナタD959 Andantinoが流れていた。
夜、フォーを食べたが、背中はあまり痛まなかった。Robert Bresson監督『バルタザールはどこへ行く』を鑑賞。昔、みなみ会館かどこかで観た気がするが、絵が良すぎて、何度も巻き戻ししてしまった。ブレッソンは、自身では「映画」と呼ばず、「シネマトグラフ」と呼ぶことを徹底したというが、まさにその意志が作品に反映している。偶然にもFranz SchubertのピアノソナタD959 Andantinoが流れていた。クラシックの曲の表記は何とするのが正しいのかよくわからない。ピアノソナタ20番、と言っても、D959というのがわかるのだろうか。それともAndantinoでわかるのか。ピアノ・ソナタ第20番イ長調の第2楽章アンダンティーノみたいなのが日本語で書くなら正しいのだろうが、ぼくにはイ長調が何かわかっていない。
歳を重ねると昔見たものも違う見え方がする、また20年後くらいに見ると何がどう違って見えるのだろうか。そんな風に考えると、自分自身の人生が与えてくれるものをたくさん受け取りたいと思うし、またどんな風に違う視点を獲得するのだろうか、健康で長く生きていたいと思う。