2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.2

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2025.6.2

ステラとあちらこちらと5時間くらい歩いていた。この街では、行く宛もなくフラフラとすることくらいしかできないという日もある。もしくは、籠ってしまうか、だ。
今日は、海まで歩こうと思っていたので海へ。ビーチハウスで本でも読もうと思っていたが、ビーチで腰を下ろしたら身体が充分に満たされる気がしたので動けなくなり、そのまま波に合わせて踊るように光り輝く海を眺めていた。ぼくは時間把握するのがとても苦手なので、何にどのくらい時間がかかるのかを把握できない。大体スケジュールは組んでもうまくいかないし、予定をたくさん詰めることも苦手だ。今日も、朝コーヒーを飲みながら1日の予定を考えた時には、昼過ぎに海に行ってビーチハウスで読書して家に帰ってからチキンを煮込んでスープストックを作って、フォーを食べよう、そしてRobert Bressonの映画を見よう、と思っていたが、海でのんびりしていると19時になっていた。それは海でのんびりしていたのか、家を出るのが遅かったのか、そもそも予定を詰めすぎだったのか。映画を観て寝ようと思っていたが、結局映画も観れなかった。いつもぼくはこうやって時間を失う。のんびりした性格なのか、単純に具体的に何かを想像する力が欠如しているのか、時間を刻んだようなスケジュールを組むのが昔からとても下手なので、大体こうなる。想像力がなく、夢想力や空想力はあるのかもしれない。
それにしても今日は色々頭の中で考えを巡らせてただただ歩いていただけだが、度胸がないよなとつくづく思った。最近、度胸で失敗したような何かあったわけではない。もしかすると、生活のすべての決断は度胸のなさで失敗を続けているのかもしれない。自分の中に頼りになるものや心の寄りどころを見つけ完全に安心しきっている状態で、自身の行動がおこなえれば何と素晴らしいことか。
昔は、こんなぼくでも歳を重ねていくと、経験によって余裕が生まれるだろうと思っていた。しかし、そんなことはなく少し前まで何となくあった心の余裕は10代に感じていた根拠なき自信や家族のサポートによって保たれていただけで、あの頃あった根拠のない自信も30代になった今はぼくの中にひとかけらも残っていない。家族のサポートは、むしろ手放すことが美徳だと感じたり、それが子供の成長過程における責任だと思ったり、支えられる存在にならなければいけないと歳を重ねるたびに思う中で、いつしか自ら手放そうとして、困った時にはサポートを求めるような姿になってしまった。結局サポートされないと継続できない何かがあり、サポートというものが批判的な立場にないのではないかと、いかにも弱者が言いそうなことを思い浮かべたりもする。
そして、根拠のない自信とか家族のサポートとかそういうものにしがみついていたせいか、あるタイミングで自分自身では何もできないことに気付いた。自信を生む値するだけの身体の傷を作ってきたわけでもない、恥知らずに笑われてきたわけでもない。むしろ、見る前に飛ぶことに恐れ、根拠のない自信と家族のサポートという橋を常にかけそれすらをも使って渡ろうともせず眺めることで安心し、傷や笑われることを避けるような日々を過ごしてきたのではないだろうか。傷や笑われることを美徳としているかのようなことを言葉では語りながら、傷がつきそうになると避けてきたのではないか、笑われそうになると正面から向き合わずに、自分を受け入れてくれる家族の足元に逃げてきたのではないだろうか。
人間が備えるべきものは傷つき笑われることで正しく学んできた度胸だけである。それ以外に何も必要ではない。