2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.29

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2025.6.29

Librarie Yvon Lambertで作品を買ってくださったお客様と話す。
作品が売れるということは何にも代え難い経験である。作品を作って、発表してみないと味わえない喜びだと言ってしまえば、そんなものは何にでも代用できるようなことではあるが、そうだとしか言いようがない。
小さいなりに作品を発表したり、展示する機会をいただいたりすると、よく「写真は何枚でも複製できる、ペインティングや彫刻作品のように1点ものとは違うから」と言われるが、本当にそれが正しい意見なのだろうかと思うことがある。
その意見がアートディーラーの口から出るのであれば納得できるが、その意見はある個人の個人蒐集家や、ファン、市井の人の口から出る言葉ではないようにも思う。作品が誰にとっても一つのものとして大切なものとしてなり得るからである。
初任給をもらって買ったMackintoshのゴムばりのコートはどうだろうか、Leicaのカメラはどうだろうか。前者は無限に生産され、後者もナンバリングはあるものの今でも復刻され作り続けられている。しかし、持ち主にとってはそれはその時自身が持っていた想いと共に一生忘れられない一点となるのである。ぼくは、世界で一点しかないものを欲しいという気持ちも理解できなくはないが、同時に個人の感情に帰依するのであれば、その作品が何点あろうが、あまり関係ないのではないかと思えてならない。
それから、作品を展示するにあたり、ぼくにとっては、作品が手元からなくなるというある種のもの哀しさだけではなく、それが目に見えない形であれ持ち帰ってくださった方々と自分の関係が出来、ぼくにとって誰かの家の壁に自分の作品があること、時々押し入れに仕舞われたり、季節が来て日の目を見たりすること、(を想像すること)が心の支えになったりもする。
そんな理由で、前出したように、その作品が何点世界にあるかどうかはそれほど関係がなく、いつだって複製できてしまうからと言われてしまうことは重々承知ではあるが、ぼくにとって、自分が作ったものが誰かの家で誰かの大切なものとして、存在すること。それだけで充分に満たされた気分になる。