6月が来た。
ステラと散歩をして、朝食にパンケーキを焼いた。人生で初めて焼いただろうか、うまくいったとは思えなかったが、それがぼくの朝ごはんだった。
昼下がりを聖子ちゃんと電話をしながら過ごし、その後フィルムの現像に行く。特に何をするでもなく、街の喧騒に染み込むように、ユニクロに入った。セントラルを縦貫する通りに位置するが、その2階建てのユニクロが感じさせるのは、関西の郊外型ユニクロと同じである。時にそれは京都の丹波橋のあたりを思い出させたり、奈良の生駒を思い出させたりする。そレは、併設する駐車場の姿も思い出させた。
週末のデン・ハーグはそれなりに人でごった返していることがある、セントラルを縦貫する通りのデパートメントストアと、ユニクロのあたりは路上で音楽が鳴り、人々が行き交い、それはどこの街でもよく耳にするノイズであり、どの街でも同じようによく見かける風景であった。東京に住んでいた時に、こうやって今日のぼくのように自分が何者でもない、漠然とした大多数を構成する一人として過ごすことの心地よさを感じると言って、そのような人生を好んでいる人は多かった。何者かになりたいのか、それとも何者かにすらなりたくないのか。漠然とした大多数を構成する一人として過ごすことの心地よさは理解できるような気もするが、ぼくはずっと何者かになりたいと思って生きてきたところがある。
Franz Schubertの『冬の旅』と『美しき水車小屋の娘』を聴く。小さな本のフォーマットを採用しているぼくのシリーズ『A Song from the Laundry Room』は、作品(物語)の一つずつの強度以上に、シリーズ内の作品(物語)ごとの連なり、その関係性から一つの大きなテーマを浮き上がらせること狙いとしている。その中で作品をどう立体的に見せるか、言語化の必要性、日本語の文体など、そんなことを堂々巡りしながらモヤモヤとしていると一つのヒントになり得るかもしれないと言って友人が送ってくれた。
昼下がりを聖子ちゃんと電話をしながら過ごし、その後フィルムの現像に行く。特に何をするでもなく、街の喧騒に染み込むように、ユニクロに入った。セントラルを縦貫する通りに位置するが、その2階建てのユニクロが感じさせるのは、関西の郊外型ユニクロと同じである。時にそれは京都の丹波橋のあたりを思い出させたり、奈良の生駒を思い出させたりする。そレは、併設する駐車場の姿も思い出させた。
週末のデン・ハーグはそれなりに人でごった返していることがある、セントラルを縦貫する通りのデパートメントストアと、ユニクロのあたりは路上で音楽が鳴り、人々が行き交い、それはどこの街でもよく耳にするノイズであり、どの街でも同じようによく見かける風景であった。東京に住んでいた時に、こうやって今日のぼくのように自分が何者でもない、漠然とした大多数を構成する一人として過ごすことの心地よさを感じると言って、そのような人生を好んでいる人は多かった。何者かになりたいのか、それとも何者かにすらなりたくないのか。漠然とした大多数を構成する一人として過ごすことの心地よさは理解できるような気もするが、ぼくはずっと何者かになりたいと思って生きてきたところがある。
Franz Schubertの『冬の旅』と『美しき水車小屋の娘』を聴く。小さな本のフォーマットを採用しているぼくのシリーズ『A Song from the Laundry Room』は、作品(物語)の一つずつの強度以上に、シリーズ内の作品(物語)ごとの連なり、その関係性から一つの大きなテーマを浮き上がらせること狙いとしている。その中で作品をどう立体的に見せるか、言語化の必要性、日本語の文体など、そんなことを堂々巡りしながらモヤモヤとしていると一つのヒントになり得るかもしれないと言って友人が送ってくれた。
Franz Schubertは、31年の生涯で一度も海を見ることがなかったという。海を眺めることもなく人生を終える人は、海に対して何を想うのだろうか。