2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.16

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2025.6.16

ラジオからBrian Wilsonの追悼DJが聞こえてきた。自分でspotifyで聴いていたThe Beach Boysとはまた違ってセレクトされた曲を聴くと、Brian Wilsonの像がきちんと浮かび上がる。時にBrian Wilsonが歌うわけではなく、違う国の違う言語で歌われた彼の曲があり、彼のデモ作品があり、彼の曲をカバーする兄弟の声が混ざる。いろんなデモ作品の良さに涙が溢れてきた。最近、涙腺が緩いのか、感情が黒ひげ危機一髪のように心にグサグサと刺さりすぎるのかはわからないが日常の些細な出来事で涙が出やすくなった。嫌なことで泣くわけではなく、美しい姿に涙を流している。自分も制作の中で習作と言えるものを作っておけるだろうか。後ほど習作と呼べるようなものを日々制作できているだろうか。習作にしか残りえない、荒さも、威勢の良さも、無寛容さも、意欲がある。
聖子ちゃんを迎えに空港へ。「荷物が多いからスーツケースとリュック持ってきて」と連絡があった。22時半ごろに大量の荷物を押した聖子ちゃんが出てきた。1ヶ月ぶりに再開をしたステラも何が起きたのかよくわからないという顔をしていたが、そんな表情を見せたのもたったの数行で、それ以上に空港のありとあらゆる香りが気になって仕方ないようだった。
聖子ちゃんがダンボールで持ち帰ったものをスーツケースとリュックに入れ替え、いつも通りスーツケースの上にリュックを乗せていると、聖子ちゃんが持っていた紙袋をスーツケースに載せて欲しかったようで、「リュック背負ってよ」と一言言われた。そのぶっきらぼうな口調に、一瞬イラッとしまた今日からこのぶっきらぼうを日々感じるのかと思ったが、聖子ちゃんが聖子ちゃんである理由は、この辺りにあるということを久しぶりに感じた。久しぶりだからと何かいつもと違う態度をとるわけでも、ましてや機嫌をとるわけもない。いろいろと口から出そうになったが、飲み込んだ。他人であればイラッとしても抑えるだけで済むが、関係が近ければ近いほどこちらの意見も言いたくなってしまうものだ。それでもそれを聖子ちゃんらしさだと思えば、久しぶりに浴びれたと考えていると、相変わらずの姿に笑えてきた。実際、ぼくも朝6時に起きたこともあり、彼女も1日中移動していたこともあり、家に帰るまで、ほとんど言葉を交わすこともなかった。疲れもあるし、久しぶりに会ったので何も話すことがなかった。家に帰ると、やっと心から落ち着いたのか、帰ってきたという気になったのか、再会の喜びを分かち合いながら、柿の葉寿司とあおさの味噌汁を食べた。そのあと、緑茶と仙太郎の水無月を食べて、寝た。多分27時半ごろだった。