2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.6.13

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2025.6.13

朝、散歩から帰ってトイレに駆け込んだ。お尻を拭こうとすると、トイレットロールにはほとんど紙が残っておらず、最後の一枚だった。あまり描写すると目を塞ぎたくなるのでこの手の話が苦手であればここで今日は読むのをやめることをお勧めするが、とても「健康的」で、トイレットロールが一枚あれば十分だった。しかし、ぼくは昔から念の為にかもう一度多めに拭く癖があり、もう一度拭きたいと思ったが、もうトイレにはロールの予備は置いてなかった。一昨日、真新しいトイレットロールを買った。まあ、いまはこの家にはぼく以外に人は1人としていないのだからと、ズボラをして、ズボンとパンツを下げたまま足をずるような情け無い姿で、トイレの隣にあるストレージを開けて、真新しいトイレットロールを開封した。しかし、トイレットロールだと思っていたものは、キッチンペーパーだった。3ロールのキッチンペーパーが申し訳なさそうにこちらを見ていた。バンブーペーパーだとか、そういうのは無力化するような思いだった。そのうちの一つが、「君次第では、トイレットロールの代わりになれるよ」と言っているような気がしたが、ぼくはキッチンペーパーで拭くのは嫌だった。しかし、あと位一度念のために拭かないのももっと心許ないなので、お尻の力入れてしまうと右と左のお尻がくっついてしまいそうで汚い気がしたので、出来るだけ力を入れずに大股を開いて歩きリビングに行き、時々鼻を噛むのに使っているロールを握りトイレに戻った。お尻を拭いてみたが、そこにはトイレにすら行ってなかったかのように、汚れているかもしれないという幻想だけがあった。ステラもぼくがトイレに行く前と変わらず、何も知らないといった姿でクッションの上で丸くなって眠っていた。家具も、窓の外の風景も何もかもが慌てふためく様子もない。この部屋の家主であるぼくだけが一人慌てふためいている。ズボンをずらし、鈍臭く歩き、慌てふためく青年の図。 何もないのに警戒をしながら歩いている。犬も、当のお尻さえも、何も起きてないと言わんばかりだった。何も起きてないのに人間だけが慌てふためいている。
夜、近所に住む作曲家のアヤさんの書いた曲がドイツのラジオで放送されると知り、聴いた。彼女の仕事について言葉で知る以上のことを知らなかったし、彼女の作ったものに接する機会もなかったので、どんなものを作っているのか、せっかくの機会かと思った。そもそも、実際には、どんなものがオーケストラの現代音楽なのかすらよくわかっていなかった。聴き終わった今も結局よくわからないままである。
何曲か演奏されたのちに、彼女の曲が始まった。曲の始まりの神経質なのにかなり度胸のある大胆な音にうまく掴まれ、前にかかっていた数曲とは明らかに違う人が作ったものであることがわかった。彼女自身の内なる性格が出ているなと思い、自分の作るものに技術も経験も心も宿っているなと、うらやましくなった。
ぼくは1人でトイレでお尻についてもいないものを拭こうと情けない姿であたふたとしているのに、そんな同じ日に同じ街に住む同世代の人は自分の作った曲を公共の電波にのせて民衆に届けている。自分の作品が知らない土地の公共の電波にのっていること、それを聴取者各々の生活の中で各々の場所で聴いていること、本来意図していない形であれラジオというある人の「生活の音」となるということが、とてもロマンチックだと思った。同時に、誰にも見られているわけではないのに、家の中で一人で慎重になりながら誰のためでもなく自分のことで慌てふためいているのもまあ人間の奇妙さというか、超自然的なものの対極にあるような、人間が作り出した有象無象の中に生きているという気がして悪くないと思った。