恥ずかしながら、今月頭に弾丸1泊2日で行ったパリの風をいまだに忘れられずにいる。太陽の豊かさと春の香りをまとったちりがあちらこちらを風に乗って泳ぐように舞っていた。それだけで幸せだった。それはただのちりや埃であったとも言えるし、そこに居合わせた人々に地球の豊かさを伝えようと太陽の光に呼応するように輝きを放つ光の屈折だったとも言える。
ぼくは、楽をしようとしている。そんな自分の弱い精神をここで激しく叱責したい。
都市ではない平坦な街で暮らしているとよくこんなことを思う。人は、他者を印象だけで認識しており、どんな教育を受けてきたのか、どんな趣味を持っているのかなどは、印象を認識する時点においては全くと言っていいほどに無力である。
なんとなくマッチョだったり身体がデカかったり、髪型がイカつかったり、あるいは声が以上に大きかったりするだけで人はその人なりの経験則で他者を認識している。動物的な本能だとも言えるだろう。
大体において、マッチョであったりデカい人間には舐めた態度を取らない。それは、まさにジャングルで起きていることと同じである。一方で青白い顔をした猫背の貧弱を絵に描いたような見た目の中年を目の前にすると他人は舐めた態度を取ることが多い。ぼくがフィジーに住んでいた頃にも、知識や過去の栄光が無力になる環境を体感し、その蓄積によってのみ体現できるかのような瞬間芸こそが唯一の言語であると感じたことを思い出した。要は、知識ではなく、ダンスが上手い人間が人気になり、チヤホヤされるのだ。そのころから、もし全裸で列をなして直立させられても、写真を撮ったり、出版社をやったり、文章を書いたりしていることがわかるような人間になりたいと思ったものだ。ここのところ、13年前のあの頃と同じようにそんなことを思っている。自分が憧れてきたり好きな環境にいるとそこで出会う人々とはお互いに言語が少なくても理解できるが、お互いに全く理解できない環境にいると自分のことさえも理解してもらえず、自分の自信を失っていくように思う。しかし、それは本当の意味での「自信」ではなかったのだ。自信とは、いや本来ぼくが持つべき、ぼくが抱くことを憧れている本当の意味での「自信」というのはやはり身体の皺の隙間に、表情の豊かさ、声の震えに宿るのだ。それが宿っていないのであれば、ぼくが自信を失っていると思っているものは自信などではないのである。そんなものなら捨ててしまった方、そもそもないものとした方が随分と楽になる。
この文章の最初に、ぼくはパリのたった2日間を忘れられずにいると言った。パリで感じる、もしくはパリが与えてくれる安心感は、自分の本当の力ではなく、パリという街が与えてくれる根拠のない自分の帰依していない自信なのであって、自分自らで手に入れ身につけてきた自信などではない。パリで感じていた喜びなどは、自らが手に入れたものではなく、パリが与えてくれただけのものなのだ。ぼくはそんなことはもうわかっているはずではなかったか。それでもまだ他者が与えてくれる虚無の自信にしがみつく必要があるのか。引きずることはない、あれはパリに行けば誰だって全ての人間が得られる快楽なのだ。快楽を心の拠り所にして生きていきたいか、荒野に投げ捨てられて自分で世界を見つけるように生きたいのか。パリが悪いわけではない、パリは素晴らしい街だ。しかし、パリにいる自分が輝くのは自分自身が輝いているわけではない。香りを纏った塵が、パリ革命や狂乱のエコール・ド・パリを経験しただろう埃が、風によって舞い上がり世界に光を与えてくれるからなのだ。
ぼくは、楽をしようとしている。そんな自分の弱い精神をここで激しく叱責したい。
都市ではない平坦な街で暮らしているとよくこんなことを思う。人は、他者を印象だけで認識しており、どんな教育を受けてきたのか、どんな趣味を持っているのかなどは、印象を認識する時点においては全くと言っていいほどに無力である。
なんとなくマッチョだったり身体がデカかったり、髪型がイカつかったり、あるいは声が以上に大きかったりするだけで人はその人なりの経験則で他者を認識している。動物的な本能だとも言えるだろう。
大体において、マッチョであったりデカい人間には舐めた態度を取らない。それは、まさにジャングルで起きていることと同じである。一方で青白い顔をした猫背の貧弱を絵に描いたような見た目の中年を目の前にすると他人は舐めた態度を取ることが多い。ぼくがフィジーに住んでいた頃にも、知識や過去の栄光が無力になる環境を体感し、その蓄積によってのみ体現できるかのような瞬間芸こそが唯一の言語であると感じたことを思い出した。要は、知識ではなく、ダンスが上手い人間が人気になり、チヤホヤされるのだ。そのころから、もし全裸で列をなして直立させられても、写真を撮ったり、出版社をやったり、文章を書いたりしていることがわかるような人間になりたいと思ったものだ。ここのところ、13年前のあの頃と同じようにそんなことを思っている。自分が憧れてきたり好きな環境にいるとそこで出会う人々とはお互いに言語が少なくても理解できるが、お互いに全く理解できない環境にいると自分のことさえも理解してもらえず、自分の自信を失っていくように思う。しかし、それは本当の意味での「自信」ではなかったのだ。自信とは、いや本来ぼくが持つべき、ぼくが抱くことを憧れている本当の意味での「自信」というのはやはり身体の皺の隙間に、表情の豊かさ、声の震えに宿るのだ。それが宿っていないのであれば、ぼくが自信を失っていると思っているものは自信などではないのである。そんなものなら捨ててしまった方、そもそもないものとした方が随分と楽になる。
この文章の最初に、ぼくはパリのたった2日間を忘れられずにいると言った。パリで感じる、もしくはパリが与えてくれる安心感は、自分の本当の力ではなく、パリという街が与えてくれる根拠のない自分の帰依していない自信なのであって、自分自らで手に入れ身につけてきた自信などではない。パリで感じていた喜びなどは、自らが手に入れたものではなく、パリが与えてくれただけのものなのだ。ぼくはそんなことはもうわかっているはずではなかったか。それでもまだ他者が与えてくれる虚無の自信にしがみつく必要があるのか。引きずることはない、あれはパリに行けば誰だって全ての人間が得られる快楽なのだ。快楽を心の拠り所にして生きていきたいか、荒野に投げ捨てられて自分で世界を見つけるように生きたいのか。パリが悪いわけではない、パリは素晴らしい街だ。しかし、パリにいる自分が輝くのは自分自身が輝いているわけではない。香りを纏った塵が、パリ革命や狂乱のエコール・ド・パリを経験しただろう埃が、風によって舞い上がり世界に光を与えてくれるからなのだ。