随分腰が痛いので整体へ行きたいと思い続けてやっと今日の午後に予約が取れた。この国の医療制度はヨーロッパの中では水準が高いと言われてるそうだが、腰が痛くてもあゆみを止めることができなくても、水準が高いのだろうか。まあ、そうやって自分で治すとか、自然治癒力を目覚めさせるというような副次的な側面を考慮すれば、人間が動物としての人間として生きるために、これらの制度は生きることへの意識を目覚めさせるのかもしれない。
Mei Meiさんという香港の先生。ぼくの病気や身体の不調というのは、病院に行き、先生に悩みを打ち明けるだけで治ってしまうというのは、聖子ちゃんに言わせれば周知の事実かもしれない。ウディ・アレンが映画の作中で精神病院に行っては死が迫っている、脳に腫瘍ができたなどと言うが、ぼくはあのシーンがとても滑稽で好きだ。しかし、気付けばぼくも同じように病院に行き、100の悩みを全て腰の痛みに意味付ける、腰の痛みは、何かを表している。メタファーである。腰が痛いのは、ぼくが人生において深い悩みを抱えているからである、といった類の相談をする。40分くらい延々と一人語りで悩みを打ち明けた頃に、Mei Meiさんはぼくの姿勢について指摘してきた。その後、服を脱ぐように言われパンツ一丁で鏡の前に立たされ、身体も触らずに、足の開き方、胸の張り方、首の置き方を口で説明した。その後、いくつかのストレッチを教えてもらった。ストレッチと言っても、仰向けになってお腹に力を入れるというような他人が見たら笑ってしまうような動きだけだった。これで55ユーロも払わないといけないのかと思うとアホらしいが、全ては自分の日頃の行いの悪さが溜まって溜まってそうなっているだけで、何にも誰かにも文句を言えるわけではない。100歳まで生きるとしても身体が取り替えられるわけではない、ぼくの身体はぼくが一生乗り続けることが許された世界で唯一の乗り物なのである。
そう、日頃の蓄積だけが瞬間的な今を生み出す。人々の瞬間的な今、それが世界だ。それだけが世界だ、前も後ろも存在しない。