一人なので、食事をするでもなく、人のために何かをするというよりも、ひたすら自分のことをしている。料理をして、掃除をして、リズムを整えながら、パソコンに向かう。ぼくは、これまでの人生で自分のペースしかない日々をあまり持つことがなかったのだと思う。自分の制作以外のことで誰かに怒られたり、日常の些細なことで、疲弊したり、モヤっとしたものを心に抱えて自分の制作に戻るような日々だった。
一人になって1週間ほどが経過した今週から、他者のペースに邪魔されない時間がいかに集中力を高めてくれるかを実感している。いや、「集中力を高める」というとも少し違うのだが、何かを考えている時に他のことを考えずに済むというようなものだろうか。リズムを掴みやすいということだろうか。長い大階段を一段ずつ登っているときに、例えばあるタイミングでコツやリズムを掴んだらそのコツなりリズムをうまく自分なりに利用して登っていくことができるだろうが、自分自身がコツやリズムを掴む前に、後ろから勢いよく登ってくる人がいたり、倒れている人や話しかけてくる人がいると、ぼく自身のリズムが崩れたり、気になったりして、なかなか自分なりに登ることができない。だけれど、時に他人を助けたり、他人と励ましあったり、することによって自分のリズムではなかったかもしれないが、少しずつ違う場所に向かって進むことはできる。人と時間を共有しながら生きることは人生に皺が増えその皺がどんどんと深くなっていくことを手助けするような気もする。別に二局ではないから、決してどちらが良いという話ではないが、自分のリズムを掴むというのは制作においてはとても大切だと思う。だから人は毎日2時間同じ時間に椅子に座る、もし一行も書けなかったとしても、時間がくればその席を離れる。そして、翌る日にまた同じ席に戻るのだ。
ここのところ、展示用の文章を推敲するということをしながら煮詰まる度にひたすら散歩をしているような時間の過ごし方をわけだが、Robert Schumann『子供の情景』を聴きながら街を徘徊していると自分も映画の主人公になったような、もしくは良い映画が撮れるような気がしてきた。ある種の幻想のようなものに閉じこまりながら、生きる時間も良いのかもしれないと思った。
一人になって1週間ほどが経過した今週から、他者のペースに邪魔されない時間がいかに集中力を高めてくれるかを実感している。いや、「集中力を高める」というとも少し違うのだが、何かを考えている時に他のことを考えずに済むというようなものだろうか。リズムを掴みやすいということだろうか。長い大階段を一段ずつ登っているときに、例えばあるタイミングでコツやリズムを掴んだらそのコツなりリズムをうまく自分なりに利用して登っていくことができるだろうが、自分自身がコツやリズムを掴む前に、後ろから勢いよく登ってくる人がいたり、倒れている人や話しかけてくる人がいると、ぼく自身のリズムが崩れたり、気になったりして、なかなか自分なりに登ることができない。だけれど、時に他人を助けたり、他人と励ましあったり、することによって自分のリズムではなかったかもしれないが、少しずつ違う場所に向かって進むことはできる。人と時間を共有しながら生きることは人生に皺が増えその皺がどんどんと深くなっていくことを手助けするような気もする。別に二局ではないから、決してどちらが良いという話ではないが、自分のリズムを掴むというのは制作においてはとても大切だと思う。だから人は毎日2時間同じ時間に椅子に座る、もし一行も書けなかったとしても、時間がくればその席を離れる。そして、翌る日にまた同じ席に戻るのだ。
ここのところ、展示用の文章を推敲するということをしながら煮詰まる度にひたすら散歩をしているような時間の過ごし方をわけだが、Robert Schumann『子供の情景』を聴きながら街を徘徊していると自分も映画の主人公になったような、もしくは良い映画が撮れるような気がしてきた。ある種の幻想のようなものに閉じこまりながら、生きる時間も良いのかもしれないと思った。