2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.5.30

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2025.5.30

昼下がり、足湯をしていたらまた寝ていた。かなり心地よく眠れてしまう。
目標に向かって何かをやっている人もいる。しかし、誰も登ったことのない山の登り方に挑戦する登山家や、誰も試したことのない方法で曲を作る作曲家がいる。誰もやったことのないことを目指す人に人々は心揺さぶられる、彼らは応援されるに値するのだろう。もちろん目標も大切だろう。何かを成し遂げるには、目標を持ちそこに向けた道筋を作ることで、目の前に立ちはだかる壁を具体的にすることもできるだろうし、それを乗り越える術も見つけられるのだろう。ただ、「目標を持ちましょう」と言われても、ぼくはなんだかそれを心の底で納得したことはなかった。自分の空想した理想の世界を追い求める人たち、彼らには目標という言葉では片付かないだけのロマンという心持ちがある。ぼくはそんなロマンの価値を信じている。そして、ロマンチストには心底惹かれる。そして少なからず、自分自身もロマンチストである。ロマンチストを語るとき、目標なんていう言葉がそこにあって良いのだろうか、ぼくにはそうは思えない。
来週と再来週に何度か、ステラの面倒をしてくれる予定のRonjaさんに会った。一緒に歩いたり、話をしただけではあるが、ステラも気に入ってくれているようで少し安心する。犬だから誰とでも仲良くなれるわけではない、人間同様に初対面は緊張するし、気も張るだろう。ぼく自身が、気を張って1日を過ごした日のことを思い出すと、それだけで気が滅入る。
というのと同時に、ステラももう少し独立した犬になってくれればいいのだが、保護犬が保護犬らしく、心のどこかにトラウマを抱え、生きるというのはそれも一つの生き方なのだと、ステラを見ていると思う。社会の変化で「OOとは」みたいな概念が変化することもある。概念が抜本的に大きく変化することはないかもしれないが、認識が大きく変化することはある。 例えば、犬が鳴いてものすごく驚いた青年がいた。都市の高層マンションで生まれ育った彼は、生まれてから鳴く犬に出会ったことがなかったのである。そんな社会には鳴きまくる犬は犬ではなく、野蛮な動物だと思われるのだ。犬にも、人間の従順な仲間とか、番犬という大切な役割があった時代があるにも関わらず、だ。人間が定住を始めたのには犬という仲間との出会いがあったにも関わらず、だ。名建築も高層マンションも、全ては人間と犬との出会いから始まっている。話はずれだが、犬は犬なんだから、声が枯れるまで鳴くし、群れて遊びたいし、家でのひとりぼっちでのお留守番も嫌いだ。