2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.5.28

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2025.5.28

 なんとか大変だった3日間を乗り切った。人間というのは時に、どれだけ自分で独立して生きているとか、一人で生きていこうとしても、人の優しさと手助けなしには生きていけないのだと気付かされる。
手助けや優しさの形はさまざまで、時にそれが全くそのように見えないものもある。例えば、手を差し伸べずに自らの手を伸ばすことを即すような行動があり、厳しい言葉は多くの場合優しさであることもある。野菜だって自分では育てていないのにお金を払えば自分の口の中に入る。お金を払っているというが、もし農家が頑なに嫌だといい、大根を抜かなかったら大根は自らの意思でぼくの口に飛び込んでくることはない。抜くことだってお金になるのだからというかもしれない、お金になっても嫌なもんは嫌なんだというのが人間でもある。特にぼくが好きな頑固な人は大体において「嫌なもんは嫌や」と言いながら周囲を困らせたり、大喜びさせたりして生きている人が多い。そんな農家だった場合には、ぼくたちの口はきっと大根の味を忘れてしまうだろう、鯖だって秋刀魚だって、大根を待ち望んでいるというのに、だ。そう、そんな風に社会というのは自分では独立できているように見えても人の優しさと手助けによってそのいじっぱりも成り立っているのだ。みんながいつまでも優しくしてくれたり手助けしてくれるわけではない、ぼくだって手助けできる時にはそんなことがあれば最大限に愛を持って手助けしたいと思っている。身体が気張りすぎているのか、芯の部分から疲労を感じたので、ヨガと筋トレをしてベッドへ行く。これも自分の身体に対する愛の鞭と言えるだろうか。