朝、この街に久しぶりに雨らしい大雨が降った。そんな大雨のなかステラを散歩させていると、ものすごく興奮してきた。それは性的なフェティシズムからくる興奮ではなかった、いろいろなことが頭を巡った。オランダに来てから雨の日は大体父にもらったMontbellのゴアテックスのジャケットに、同じくついになっているパンツを履き、フードを被り歩いているので、バケツをひっくり返したような雨にならない限りは中まで水が染み入ることはない。そうすると、自分の身体があるところ、要するにゴアテックスの中、はとてもセーフなんだ、安心していいところなんだ、この嵐がおさまるまでは、この中にいた方がいいだろう、というような気になった。子供の頃に立ち入り禁止の山で秘密基地を作って遊んでいたら急に雨が降ってきて自分たちの作った基地が本当に雨から身を守ることとなった時の気分とか、自分の幻想で作ったものが機能を持つ形で実体を伴った感覚を得たのはこれが初めてだったかもしれない、散歩中の突然の夕立に大きな木の下や川にかかる橋の下にたくさんに人が逃げ込んだりして、息を潜めているような時の気分によく似ていて、なんだかにやけるのだ。ぼくは、あの突然の夕立にみんなが軒先に入り狭いスペースを分け合ったり、スーツを着た人もストリートファッションを見に纏う人も、OLもギャルも、知らない人同士が一つの「夕立」という人間一人の力ではどうにもできないものすごく巨大なもの、無慈悲なまでに遠慮なく突然降り始め降り続く底の見えないものによって会話を始めるのがとても好きだった。あの夕立の時間、時に軒先で、時に大きな木の下で、時に橋の下で、どんなにお金持ちだろうが、名誉があろうが、会社で責任があろうが、雨の前では人間が皮肉にもフラットな存在として存在した気がする。そして、雨があがれば、いや弱まれば、各々のタイミングで、その前にあったはずの目的に向かって、夕立の時間がなかったかのような顔をして、しかし少しスッキリとした表情で、自分の営みに戻っていく。幻想のようなその5、10分だろうか、たった数分の出会いを大袈裟にしたり、わざわざまたお茶でも行きましょうねとか話したりとか、連絡先を聞いたりとか、名刺を交換したりとか、仕事の話をしたりとか、そういうことをせずとも人間同士は単純に会話ができるのだ、協力的に生きていけるのだというのが誇らしくなる。ぼくはあの突然の大雨(さっきまでは夕立と書いたがそれだけではないことに今気付いた)の世界こそが、日常に突然現れる幻想のようだが現実世界に確実に存在する時間を尊いものであるとは思わずにはいれない。世界は、平和であってほしいと心から願う。世界平和には、地球外生命体の地球侵略が必要だとか言った人もいるとか。それは、目の前の火を止めるだけの力を持つだろうか、目の前で火を見ている人にとってはふざけるなという話に聞こえるかもしれない、しかし人間に新たな物語が必要であるということを物語っている。人間は、権利を主張したりとかルールを守るためだけに生きているのではない、愛のある物語を生きているのだ。