2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.5.19

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2025.5.19

聖子ちゃんが明日の朝4時過ぎに家を出て、1ヶ月ほど日本に帰るので、今日はなんとなくバタバタとしている。ぼくは、この場所に残りそのままの生活をするというのに、だ。パッキングがあるわけでも家に残してはいけないことがあるわけでもない。あまり36年間の人生の中で一人暮らしをしたことがないので、一人で家での時間と生活を楽しみにしながらも、心の半分くらいは影っている。それは、ステラとの一人+一匹の1ヶ月が初めてだからであろう。前回は、たった数日間だった。何も恐れていたような問題は起きなかった。人間、初めてのことと対峙するとその人本来に宿っている力が湧き上がり、人間としての深みが出るような気がしているが、最近は、初めてのことを一人で乗り切るということをしてこなかったなと感じている。オランダに来るのだって二人+一匹だったし、何も知らない新しい土地に一人で旅行に行き、何かをするようなこともしていない。一人で行くのはもっぱら何度か行って土地勘がある街である。新しい都市に行ったとて、都市ではなんとなくでやり過ごせてしまうのだ。都市では、カメラを首からぶら下げて散歩してカフェで座って人を眺めているだけで日が暮れる。日が暮れれば気になっていたレストランに入り、メニュから美味しそうなものを選ぶだけだ。今回は、聖子ちゃん不在期間に出かける予定も多く、いくつかのミッションもあり、久しぶりに一人で色々と計画と準備をしないと乗り越えられない気がしている。ステラの長時間の留守番ができるかという心配だけが心を曇らせているように思う。言葉にすると本当に大したことではない、フィリップ・プティのようにビルとビルを繋ぐロープの上を恐る恐る綱渡りするようなこともしなくてもいい。それなのに、自分では大袈裟とは思わなくとも、こうやって文章にすると自分が随分些細なことを大袈裟に捉えているのだろうかと感じてしまう。いや、大袈裟ではない、これはぼくにとってはとてつもないことなのだ。
脳は、焦りや不安を感じると本来の能力(脳力)の多くを発揮できないという記事を読んだ。上に書いたことのように言葉にすると簡単なことも、間違っても死なないようなことも、今でも「心のどこかでどうせ死なないし」と楽観的に考えながらも、どこかで心配している。究極に楽観的なのに、なぜか不安症なのだ。時代の変化からなのか、もしくは歳を重ねてきたからなのか、間違えるのが嫌だったり、怒られるのが嫌だったりする。間違えていることも怒られていることもたくさんあるのだが、ぼくもぼくなりに36年生きてきて、それがプライドとなって、そのくだらないプライドのようなものが邪魔をしたり、情けないことに他者を批判することによって自分を守るようなことをしているのではないだろうか。そのせいで、失敗や指摘からは遠のき、ますます新しい挑戦へは足が向かず、億劫になっていくのだ。
オランダに来てからのぼくは、いや、具体的にはいつからだろうか、何かがあったわけでもない、フェルディナン・シュヴァルが毎日運んだ石ころのように、ぼくは少しずつ心の中に何かを溜め込んでしまい大きな歪な形をした焦りと不安という城を築いてしまったのである。きっと、北海からの強い風を毎日受けているうちに砂丘ができたデン・ハーグのビーチのように、それは無意識下でどんどん硬く固まってしまうのだ。それを和らげる方法は一つ経験していないことに意識的に対峙することと、知らないことを知らないという夏目漱石のような態度ではないだろうか。