2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2025.5.13

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2025.5.13

やはり頭の片隅に残ってしまっているので、Levis 501 W32の試着をしに昨日行った古着屋へ戻った。履いてみるとやはりW31とW32とでは、ぼくの中に大きな感覚の隔たりがある。そこには、腰の締まりだとか、ウエストが大きい分少し落ちるとか、横から見た時のシルエットの違いとか、そういうものだけではなく、言語化なしにも感じる違和感があった。自分という人間が日々無意識の中で培ったものとの心地の良い距離感、自分という人間を形成する感覚や趣味、自分の芯というようなものと、社会を取り巻く時代の距離感とかサイズ感とか、そういうものとの隔たりだろうか。ある側面では心地よさを感じるのだが、それが自分の持つ感覚と社会を取り巻く感覚との隙間を少し埋めるものなのだろうか。山の木々が日々色づき葉を落とすように、洋服のシルエットは、時代の流れとともに刻々と変化している。結局買わなかった。ぼくの頭では、単離したぼくと社会との距離みたいなのを縮めたいと思ったので、試着に行ったのかもしれない。ここでぼくが思う社会とはこの街だろうか、生まれ故郷であろうか、憧れの土地であろうか、漠然とした世界だろうか、オンライン上でのみ幻影として浮かび上がるあの場所だろうか。社会とは自分自身のいる場所でしかない時代ではなくなったのだろうか。遠くの国で起きる問題は、ここにいる自分の問題でもある。そうやって問題を多く抱えすぎるのは、ぼくは好まないが、実際には遠くの街の問題はこの街の問題なのだ。もしぼくがW31とW32の数センチの間に感じた隔たりというものが社会が、ぼくの住む街との隔たりなのであれば、それを埋める必要はぼくにはない。なぜならぼくにとっての社会とは、あの街で起きている問題をこの街の問題としている社会であり、憧れの土地ことが社会であるからだ。「社会とは何か」について考えること以上に、隔たりを埋めたいという欲求以上に、ぼくの足がレジに向かなかったのは、近くで裾上げができるテーラーを見つけないといけないということだった。そんなことでさえ今のぼくにとっては億劫で、クオリティも値段も気にせず一番最初に見つけたテーラーで裾上げできたらどれほど幸せなことだろうか、と思う。それはパリで散歩の途中でgoogle mapを使わずに目の前にあるカフェにふらっと入れたり、東京でその辺で立ち食い蕎麦が食べられるみたいなことと同じである。パリの街角のカフェも東京のそばの出汁も美味しくないのだが、どちらにも文化を感じるし、美味しいかまずいかという議論を数百年前に済ませているような気にさせるからだ。ぼくは、そんな街にいたいと思う。