朝、散歩していると、朝陽がぼくの家のあるコロンバスストラートにも久しぶりに差し込んできた。昔ここは共産主義国家だったのではないかと思わされるかのように均一に並んだブリック住宅の隙間に差し込む光は、「あなたたちはこれがなければ生きていけないんでしょう?」と言っているような傲慢な態度をみせ、質感を含みつつもあまり優しさを感じない鋭さを持った姿であった。それでもぼくはその上質でスノッブな態度を見せる光に「ありがとうございます、ぼくはこの光がないと生きていけません、それにしても今日もいつもにも増してお美しいですね」とヘコヘコしながら光を楽しむ。会社のつまらない上司とよくできた部下の会話風景のようである。やがて、夜のうちに冷え切っていた空気はその謙った人々の態度を憂いたかのように徐々に温度を取り戻し、その光に抗うように、人々を包み守るようになる。ついに空気は、光に対してものを言うようになり、その酸いも甘いもを知った態度と言葉少なめにも実体のある言葉に光もおののき始め、光が朝持っていたような鋭さは失われていく。そして、昼が訪れる。顔を上に向けると穏やかさを持った青い空が広がっている。鋭い光が差し込む朝の風景は、少々感情的すぎる気もする。
散歩をしていると、写真や絵画、映画が四角であることについてもう少し理解を深めるべきだと思った。自分にとっては大発見だった。家に帰り、四角形について調べていると、赤瀬川原平『四角形の歴史』という本を見つけたので、そのまますぐにkoboで購入し、読了。勢いよく買ったものだから中身もみずに買ってしまったが、10分で読み終わった。それは大人の絵本だった。これくらいのスピード感でインスタントに読み物が買えるのは便利であるが、本屋に足を運ばず本のサイズとか質感とかペラペラと内容を見ずに、タイトルとその時の勢いを持ってkoboで買うのは買うものの質が下がっているのだろうか、と思った。この本が面白くなかったわけではなく、残念だったわけでもなく、ただ拍子抜けしたことによってふと思っただけだ。年末年始のTVでのイチローさんと松井秀喜さんの対談で、申告敬遠はやめてほしいと言っていたが、それに近いだろうか。あの4球の間にバッターにも、打席を待つバッターにも、ピッチャーにも、そして観客にも、感情が大きく渦巻く。全く違う空気を作るだろう。ぼくがいつも思っていることによく似ていた。ぼくのkoboの本棚を見てみると、紙だと買わなかっただろう本も買っている気もした。海外に住んでいると、日本語の本を読みたいが読めないという時間が続いていた。今回は、koboを買ったが、読むことは増えたが、きちんと読んでいるのだろうか。ここでいう「きちんと読む」と言うことは文字をなぞることではなく、前後の物語までも含めた意味である。文章が読めればいいじゃないか、とも思うが、いい出会い別れ再会もぼくは好きだ。物事の「質」とは何か、誰が担保するのだろうか。本屋の価値とは何だろうか、印刷された本の質を担保するものだろうか、書かれる内容から個人個人が持つ社会的マナーや道徳の質を担保する存在だろう。
00年代にブログが広がり、書き手が自由に文章を発表できるようになった。読まれなくても書き続けるぼくのような人間もいる。読まれるものの質は下がったのだろうか、書き手の語彙力がなくなったのだろうか、表現力が失われただろうか、言葉が届けてくれる特有の景色をぼくたちは失っているのだろうか。ぼくは、その失われていく風景をここに乱文を書くことで加速させる存在ではないだろうか。それでも書きたいと思えば書くべきだし、書けないのであればそれはそれだ。読みたくなければ、それもそれだ。ぼくたちは自由な社会を生きていて、誰かが決めた基準に合わせて何かを発表する存在ではない。下手でも、その下手さに特有のリズムを感じることができればそれが一つの物事をはかる物差しになるのではないだろうか。新しい風景を生んでいるのではないだろうか。小説の文章と、エッセイの文章が違うように、ブログの文章と本に掲載される文章が違うのだとも言える。それぞれに、その方向で「質」を持っている。その上で、「質」とは何か、何をどの視点から見て質なのか。語彙力が足りないと思えばぼくは語彙力をつけるだろうし、表現力がないと思えば表現力を意識するだろう。自分の書き方で読者を増やしたければ何か他の方法を模索するだろう。読みたくないもので溢れれば今以上に読まれなくなるだろう。作品における語彙力や表現力の「質」は過去の作品が担保してくれているような気もする。
散歩をしていると、写真や絵画、映画が四角であることについてもう少し理解を深めるべきだと思った。自分にとっては大発見だった。家に帰り、四角形について調べていると、赤瀬川原平『四角形の歴史』という本を見つけたので、そのまますぐにkoboで購入し、読了。勢いよく買ったものだから中身もみずに買ってしまったが、10分で読み終わった。それは大人の絵本だった。これくらいのスピード感でインスタントに読み物が買えるのは便利であるが、本屋に足を運ばず本のサイズとか質感とかペラペラと内容を見ずに、タイトルとその時の勢いを持ってkoboで買うのは買うものの質が下がっているのだろうか、と思った。この本が面白くなかったわけではなく、残念だったわけでもなく、ただ拍子抜けしたことによってふと思っただけだ。年末年始のTVでのイチローさんと松井秀喜さんの対談で、申告敬遠はやめてほしいと言っていたが、それに近いだろうか。あの4球の間にバッターにも、打席を待つバッターにも、ピッチャーにも、そして観客にも、感情が大きく渦巻く。全く違う空気を作るだろう。ぼくがいつも思っていることによく似ていた。ぼくのkoboの本棚を見てみると、紙だと買わなかっただろう本も買っている気もした。海外に住んでいると、日本語の本を読みたいが読めないという時間が続いていた。今回は、koboを買ったが、読むことは増えたが、きちんと読んでいるのだろうか。ここでいう「きちんと読む」と言うことは文字をなぞることではなく、前後の物語までも含めた意味である。文章が読めればいいじゃないか、とも思うが、いい出会い別れ再会もぼくは好きだ。物事の「質」とは何か、誰が担保するのだろうか。本屋の価値とは何だろうか、印刷された本の質を担保するものだろうか、書かれる内容から個人個人が持つ社会的マナーや道徳の質を担保する存在だろう。
00年代にブログが広がり、書き手が自由に文章を発表できるようになった。読まれなくても書き続けるぼくのような人間もいる。読まれるものの質は下がったのだろうか、書き手の語彙力がなくなったのだろうか、表現力が失われただろうか、言葉が届けてくれる特有の景色をぼくたちは失っているのだろうか。ぼくは、その失われていく風景をここに乱文を書くことで加速させる存在ではないだろうか。それでも書きたいと思えば書くべきだし、書けないのであればそれはそれだ。読みたくなければ、それもそれだ。ぼくたちは自由な社会を生きていて、誰かが決めた基準に合わせて何かを発表する存在ではない。下手でも、その下手さに特有のリズムを感じることができればそれが一つの物事をはかる物差しになるのではないだろうか。新しい風景を生んでいるのではないだろうか。小説の文章と、エッセイの文章が違うように、ブログの文章と本に掲載される文章が違うのだとも言える。それぞれに、その方向で「質」を持っている。その上で、「質」とは何か、何をどの視点から見て質なのか。語彙力が足りないと思えばぼくは語彙力をつけるだろうし、表現力がないと思えば表現力を意識するだろう。自分の書き方で読者を増やしたければ何か他の方法を模索するだろう。読みたくないもので溢れれば今以上に読まれなくなるだろう。作品における語彙力や表現力の「質」は過去の作品が担保してくれているような気もする。
写真を撮ることも同様だ。絵を描く人も同様だ。発信する人が増えて人々の作るものの質が下がっているのだろうか。紙にプリントする写真とオンラインでのみ発表する写真と展覧会で観る写真と美術館で所蔵される写真が違うように、その中にそれぞれの質がある。
それぞれの方向性を受け入れたリベラルな社会を目指す上において、そもそも「質」とはなんだ。「質」に囚われすぎて「質」を失う、それだけは避けたいところである。
それぞれの方向性を受け入れたリベラルな社会を目指す上において、そもそも「質」とはなんだ。「質」に囚われすぎて「質」を失う、それだけは避けたいところである。