貧しい土地にいると人間は自分で作るということを始める、何かが足りないのであれば作ればいいし、全てのものは誰かによって作られている。好きなレストランがなく、気分よく通えるパン屋が近くにないと、自分で料理をし、パンを焼くようになる。質の担保とは、どこにあるのだろうか。まあ、これくらいか、という感覚に人間が慣れていくと、そのまあいいかがいつしか「普通」になり、その少し前にまあいいかと言われていたような「普通」と比べたまあいいかがまた次の「普通」を作る。その普通は、まあいいかのまあいいか、なのである。人間は記憶することができる、意思を持つことができる、他を思いやることができる、許すことができる。そして同時に自らにとても弱い、そして慣れる、忘れる、それが人間だ。忘れたり慣れないと大変な時代を乗り越えてこれなかっただろうし、今の自分も代々のたくさんの慣れと忘却の蓄積によって生を授かり、生きている。辛いことも大変なことも忘れることができるから、進化できるのだろうし、世界の平和も保たれることがある。しかし、忘れることや許されることを前提として社会を前進させることが正義だろうか、記憶することや人間の弱さを前提とした社会を作るべきではないだろうか。まあいいか、の連鎖を誰が止めるのか、世界は拡大し、人口も増加した、お金も増えたかもしれない。しかし、質の担保は誰がどこで行なっているのだろうか、それは個人個人ではないか。人々の日常へのクリティシズムによって質が担保されているのではないだろうか。