昨日、Maria Goyaでのブックローンチの後、21時半からMaria Goyaの近くにあるレストランでささやかな祝いのディナーをし、結局ホテルに帰ったのは夜がすっかりふけた25時を回った頃であった。小さいながらも実に内容のあるブックローンチができたことを喜び合い、7日のバルセロナでのブックローンチに向けて決起した。25時に当たり前のように歩いてホテルに帰った。彼女たちは、普段お店として運営しているわけではないのにも関わらず、ブックローンチを快く受け入れてくれ、遅くまで楽しそうに喜んでくれた。初めて会ったのだが、どこか自分の家族のような親密さを含んだ懐の深さが存在した。ぼくは、DSMでブックローンチやイベントを繰り返していたこともあり、いろいろな状況に意外と慣れていると思ったが、自分でも思ってもみないが経験しているかしていないかで明らかにスムーズに行えることがある。何事も一度でも経験しておくと突然起きたいろいろなことに対してそれなりに対処できたりする。DSMでの6年間がなければ今こうやって各都市でブックローンチをすることも、販売方法を考えることもなかっただろう。仕事の旅先での振る舞いも、接客の仕方も、全てDSMで学んだことが積み重なって自分の元々あった型に染み込んでいくことによって、新たな形へとトランスフォームする準備ができる。
夕方、La Venenciaで聖子ちゃんがスペインのシェリー、マンサリニャを飲み、飲めないぼくは申し訳ない気持ちを口に含み、オリーブとサラミをつまんだ。憲法記念日の今日は、クリスマスと重なって街が異様な賑わいを見せていた。あるエリアは埃が舞うのが見えるほどに閑散とし、あるエリアには人だかりがあった。そして、ロト売り場には、日本同様に大勢の人々が夢のチケットを買うために長蛇の列をなしていた。
この土地からすらも溢れてしまうのではないかと思わされるほどの日差しが降り注ぐ駅前広場に普段太陽の光を浴びていないだろう貧弱な男女が立って目を瞑っている。その日差しは燦々とという言葉ほど優しいものではなくそこにあるものを右からも左からも遠慮なく朱色に染めていた。背中に5と番号の入ったレアル・マドリードのユニフォームを着る男性も、貧弱な男女と同様に朱色に染まっていた。電車でバルセロナへ移動し、マルコスの家で夕飯をご馳走になった。彼は、ポテトを細く切って揚げたものを、ビーフシチューの上に乗せた。マルコスと妻のイネスと食後そのまま話し結局25時になっていた。彼の家にいるぼくのなかで、自分の実家のように身体が緩むような感覚と、サービスの行き届いたレストランへ招かれたような高揚感が複雑に絡み合っていた。どんな話からだったかはわからないが、日本とスペインの長寿の話、健康保険や医療制度、タックスの話から、最後にはスペインが安全であるという話になった。昨晩歩いて帰れるのを日本人のぼくは割と当たり前だと思っていたが、これが当たり前ではない国や街も存在するのだろうと思うと、日本もスペインは総じて健康的で安全な国だなと思う。そのままマルコスの家の地下にあるシアタールームで寝る。
この土地からすらも溢れてしまうのではないかと思わされるほどの日差しが降り注ぐ駅前広場に普段太陽の光を浴びていないだろう貧弱な男女が立って目を瞑っている。その日差しは燦々とという言葉ほど優しいものではなくそこにあるものを右からも左からも遠慮なく朱色に染めていた。背中に5と番号の入ったレアル・マドリードのユニフォームを着る男性も、貧弱な男女と同様に朱色に染まっていた。電車でバルセロナへ移動し、マルコスの家で夕飯をご馳走になった。彼は、ポテトを細く切って揚げたものを、ビーフシチューの上に乗せた。マルコスと妻のイネスと食後そのまま話し結局25時になっていた。彼の家にいるぼくのなかで、自分の実家のように身体が緩むような感覚と、サービスの行き届いたレストランへ招かれたような高揚感が複雑に絡み合っていた。どんな話からだったかはわからないが、日本とスペインの長寿の話、健康保険や医療制度、タックスの話から、最後にはスペインが安全であるという話になった。昨晩歩いて帰れるのを日本人のぼくは割と当たり前だと思っていたが、これが当たり前ではない国や街も存在するのだろうと思うと、日本もスペインは総じて健康的で安全な国だなと思う。そのままマルコスの家の地下にあるシアタールームで寝る。