2100年の生活学 by JUN IWASAKI : 2024.12.30

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2024.12.30

ちゃっぴは作品の営業も兼ねて、1泊2日でアムステルダムへ行った。
夕方にイライラしすぎて不貞寝した。時々、どうしようもないほどにイライラしてしまうことがある。ぼくの中にあるバケツに、蛇口からぽとぽとと溜まり続ける水のように日々溜まっていくイライラは、そのバケツいっぱいになり表面張力という我慢の限界を超えて縁から溢れ出すようなものではなく、表面張力を迎えたその時、そのバケツの底が抜けることによって一気に唐突さを持って滝の水のように落下する。情けないのだが、いつもそんな風に一見何も起きていないような日常の光景から何かが破裂したかのような音を立てて、機能しなくなる。
日が暮れてしまい、目が覚めると、身体に力が入りすぎていたのか全身がピリピリと痺れていて、血がジンジンと巡っていくのを感じた。そのまま寝てしまいたいと思ったが、不毛で生産性のない一日を過ごしたことで寝付けるわけでもなく、21時ごろむしゃくしゃして身体がどうにかなってしまいそうだったことが今日という日の不毛さを逆撫でし、この気持ちを持って年は越せないと思い、聖子ちゃんには何も言わずに自転車で街中を駆け回った。現状を改善する方法は自分の行動でしかない。他者に何かを委ねても、結局自分が変わらないことには世界の見え方も態度も変わらないのだ。ぼくは社会の一部で、同時に目の前にいる人間はぼくの鏡である。世界で起きている問題はぼくの問題であり、ぼくの行動の根本的衝動は社会の生み出したものである。人間というものは社会と密接に関わっていて、社会で起きていることは、ぼくの言動や思考や度胸、決断、全ての結果なのである。社会が悪くなるのは、自分の意識が低いのだ。ああだこうだと考えながらビーチ沿いを自転車で漕いでいると大きな人だかりがあった。大きな人だかりという言葉では済まない、まるで初詣のような、祇園祭の宵山の夜ような人だかりだった。みんな何かを待ち侘びるように海を眺めている。ビーチにある遠くのステージから古風なテクノが風に乗って弱々しく響く。遠くから海風に乗ってテクノが聞こえる、なんて素晴らしい情景だろうか。23時になったと同時に花火が打ち上がり、世界が大人数の叫び声と爆発音と、光で包まれた。打ち上げと打ち上げの間に訪れる静寂を美とするかのような日本の花火とは違い、静寂を嫌うかのように打ち続けられるオランダの花火はぼくが花火に抱く品格と美しさがなかった。それでも、夜空を眺めていると、心が洗われるようであった。花火の終わりと世界の始まりとするようにビーチに20mほどに高く積み上げられた櫓が大きな炎に包まれ燃え始めた。ゆっくりじっくりと海の前で炎が海風に揺れがなら轟々と燃えている。世界はスタートした。それでも海風はテクノとぼくたちに届けていた。