朝6時半に起床し、7時からミーティング。11時にセントラルで用事があったので、街に出た。まだクリスマスを引きずったような街の風景に、目を奪われながら自転車を漕ぐ。久しぶりに陽が昇るずいぶん前から活動し、一息付いたのが12時半だった。
家での仕事が多くなり身体的な社会との接点を失っていると、自分がどのくらいの場所にいて、どこを飛んでいるのかわからなくなることがある。今日は、自分が自分の満足できる時間の過ごし方をしているだけでは、甘えようとする自分の脳がズルズルと自分の満足度を下げているのではないかと思った。中田英寿氏が、筋トレを続けている理由に、「まだまだ頑張れるんだという脳を鍛えている」という様なことを言っていた。中田氏曰く、身体よりも脳がもう無理だと先に感じるというのだ。動物の身体というのは、脳で思うほどに弱いものではなく、限界を先に感じるのは脳なのである。脳が制御をし、身体の動きを止める。人間が弱い動物だということを大前提とし、脳を鍛えることで、身体や行動の限界値を押し上げたいということだった。すごく納得した。その点ではランニングなども同様だと思う。とにかく今のぼくの生活の満足度というのも、それは中田氏の筋トレと同様の構造になっていて、脳からの甘え汁とでもいうべきものが垂れまくっていて、それを思考を巡らせて使ってどんな風に鍛えるかということに注力をしているつもりであったが、人間においては身体性を伴う振る舞いと思考という二本の線で基準を持つ必要がある。今日自分の甘え汁が溢れすぎていると感じたのは、身体性を伴う他者に対する振る舞いの側面である。
日常生活水準が下がり続けてそれを満足と思うのであれば、それは本当に幸せだということだろうか。時々、「自分が満足していたら幸せ、満足していたらいいんじゃないか」とよく言われるが、その自分というのは、甘え汁がだらだらに流れた怠惰という石の上に立っている自分ではないだろうか。その満足度は、怠惰の石の上に立っている自分が感じる満足度ではないだろうか。そう考えると、「自分が納得していたらいいんじゃないか」というのは本当に正しい理論だろうか。自分が生きている価値と、社会での存在意義を踏まえると、何かを発表するという点においては、自分が納得しているだけでは何もないような気もする。
ちゃっぴが来るまでに出来るだけ仕事を終えてしまおうと、フィルムスキャンと画像の修正を終わらせる。人が来ると、その人との時間を共有しようとするあまりに、自分のことは何もできなくなる。友人にとってもベッタリと一緒に行動されることが嬉しいのかどうかはわからない。スケジュールをガチガチに決めてしまうような余白のないのも野暮だし、だからといってわざわざ来てくれている友人にぼくの日常の時間軸で過ごしてもらうのも苦である。10何時間もかけてわざわざ来て、日常を垣間見るようなものでいいのだろうか、逆に誰も頼る人がいないような場所への旅行であれば、日常を垣間見る様なことができないという点においては、日常を楽しむというのもとても特別なことである様な気もする。
20時ごろちゃっぴがデン・ハーグに到着。特に久しぶりというわけでもないのだが、旧友との再会はいつでも心躍るものである。何を話していたかはわからないが、結局眠くなりながらも26時ごろにベッドに行った。