「自分の個人的な葛藤、日常での悩み、問いかけ」などをテーマにしている人間からは正直さや素直さを感じるかもしれないが、エロスや勢い、リズムを感じるだろうか。
エロスがない作品は作品として存在するべきだろうか。勢いを失ったダンスに価値はあるのか。リズムを失った音に身体は魅了されるだろうか。ふとシャワーを浴びながらそんなことを考えると、自分がいかに自分の日々の葛藤と向き合って全労力を使って闘いすぎているかにゾッとする始末である。シャワー中には、覚醒したかのように良いアイデアもたくさん思いつくが、突然冷静になることもある。葛藤なんてものが全員に存在し全人類が自分の個人的な葛藤に向き合わなければ生きていけないにも関わらず、そんなものをテーマにする必要があるのかとも思えてきた。驚くほどに遠くから自分の作品や自分自身、この文章を客観視した時に、つまらないのではないか、何も実践していないのではないか、頭で考えているだけで何も身体では受け止めていないのではないかと思った。フィジーに住んでいた頃は、知識や思考なんて全て捨ててしまって、この世の中には身体しか存在しないと思った。その交わりだけが音を奏で、リズムを掴み、踊る。言語さえも不要で、そこにはダンスという共通言語が存在する、と信じていた。ぼくにとって人間はリズムだった。そんな彼が今ぼくを見たらどう思うだろうか。ぼくが常々頭に描いている「飄々としている姿」の像が欠落してきてはいないか。
エロスがない作品は作品として存在するべきだろうか。勢いを失ったダンスに価値はあるのか。リズムを失った音に身体は魅了されるだろうか。ふとシャワーを浴びながらそんなことを考えると、自分がいかに自分の日々の葛藤と向き合って全労力を使って闘いすぎているかにゾッとする始末である。シャワー中には、覚醒したかのように良いアイデアもたくさん思いつくが、突然冷静になることもある。葛藤なんてものが全員に存在し全人類が自分の個人的な葛藤に向き合わなければ生きていけないにも関わらず、そんなものをテーマにする必要があるのかとも思えてきた。驚くほどに遠くから自分の作品や自分自身、この文章を客観視した時に、つまらないのではないか、何も実践していないのではないか、頭で考えているだけで何も身体では受け止めていないのではないかと思った。フィジーに住んでいた頃は、知識や思考なんて全て捨ててしまって、この世の中には身体しか存在しないと思った。その交わりだけが音を奏で、リズムを掴み、踊る。言語さえも不要で、そこにはダンスという共通言語が存在する、と信じていた。ぼくにとって人間はリズムだった。そんな彼が今ぼくを見たらどう思うだろうか。ぼくが常々頭に描いている「飄々としている姿」の像が欠落してきてはいないか。
最近作るスープも、リゾットも、どこか調子が定まらない。フィルムの現像にさえ、伝染している気がしてきた。調子を決めるのにかなりの時間を要する。味を決めることができないのではない、瞬間の決断力と度胸が足りない。味を強くするには最後に塩や甘み、油味を足せばいいわけではない、入れるタイミングを間違えると大違いだし、塩分が足りないと思っていても酸味を加えるとその塩みが際立つこともある。ビビっていて何かが足りないと全てがハリのない物足りないものになりかねない。
自分が作るものが上質なオリーブオイルのように濁りなく鼻を抜ける香りがなければいけないと常に思う。そんなことを考えた時にメルボルンで出会ったクリスとエミさんは、いつだってぼくの頭に登場する。その時のクリスはスイカを抱えているし、ラガーシャツを着ている。