久しぶりに太陽が出た。ニュースによると、ここ100年間で最も太陽が出ていない日が続いているのだという。
光が照らされるだけでリビングの窓から眺める風景が全く違うことと、それ以上に自分の気分が全く違うということにさらなる驚きを感じながら、その風景を満喫しつつも、急いで準備をしてLeica M6を手にステラの散歩に行く。太陽の光が与える街の変化やぼくの心の変化だけではなく、フィジカルに感じるその極上の暖かさ、目を瞑ってもそれでも少しの隙間からこちらの気持ちなど無視するように遠慮なく入り込みまぶたの裏を赤く染め上げる。
カナル沿いを歩いていると、普段なら光が差し込むことのないような橋の下まで光が差し込み水面を照らしている、鳥たちが戯れあっている。そこで一枚シャッターを切ると、フィルムが終わってしまった。仕方ないので、そのまま散歩を続ける。次のフィルムを持ち合わせていない時に限って、いい風景に出会う。これはぼくの写真のための時間ではなくて、ステラにとって大切な朝の散歩の時間なのである。彼女の楽しみをぼくが奪ってしまうようなことはしたくない。
帰って、急いでコーヒーを淹れ、グラノーラを食べて日記を書く。フィルムを入れ換え、念の為新しいフィルムと50mmのレンズをポケットに入れ、再び散歩に出た。
人と会話をしているときにしばしば感じることがある。それは、ツッコミを入れるほどではない友人との会話や、初対面の数人が集まるグループでの会話、もしくは会社とかクライアントとかソーシャルな関係性のある数人が家や社外など仕事とは離れた環境で会話をしているときによく起きる。
例えば、「ボートハウスがいかに美しいか」というトピックで会話をしていて、突然ある一人がこれまでみんなが話していたボートハウスについてではなく「同じ通りにある美しい家」の話をし始めた。その人の頭の中では、いや、一般的に人の頭の中では、思考は言葉によって巡り、その人に「美しいボートハウス」は、「美しい家」を思い出させ、その人は自分の美しい家の話をし始めたのだろうと想像できる。それが会話というものだ。深く考えることでもないし、ルールも存在しない。しかし、唐突なので、グループのうちの数人は、「突然、家の話を始めたな」というような表情を見せる。もしくは、たったほんの一瞬なのだが、「?」が空気の中にふわっと香る。そういう瞬間にぼくはつい全員が同じ方向を向いているか確認するかのように「この通りの家のね!」と、全体の話の流れを微調整するような、会話の調子を整えるような相槌をうってしまう。大抵の場合いつも相槌をしてから、この相槌によってぼくがいかに会話というものをつまらなくしているかに後悔をする。みんなが話のトピックが少しズレたことを感じながらも、その後に話す人がどんな風な会話技術を持って、一度脱線した話をどういう風にさらに展開させるか、もしくは帰着させるか、をその時のメンバーの関係性などを踏まえながら楽しむのだが、ぼくは、なぜかトピックが脱線しないように、順序よく話を進めようとするあまりにみんなに「同じ船にのっているよね?ついてきてるよね」と確認するかのように、脱線することを怯えるかのように相槌を打ってしまう。もしくはぼく自身がボートハウスの話をもう少ししたいので脱線しないでほしいと思っているから、トピックをテーブルの上からおろしたくないのかもしれない。
友人ではないような関係の場合には、ぼくはある程度みんなが話すのを聞いてから同じトピックで自分の話をするのだが、大抵の場合、自分が話す頃にはみんなそのトピックには飽きているので、話終わるまでにみんなの飽きた表情を見ながら「あ、今誰も興味なさそうだ、一人語りしているな」と一部で感じながら、途中でやめるわけにもいかないのでただ特にオチのない話をするのである。オチがあればいいのだろうが、笑いにするだけのトピックでない時もあるし、笑いにさえできる会話の技術もそれほど持ち合わせいない。実のところ最後が一番問題なのだろう、面白く話せば飽きることはない。その瞬間が一番苦手と感じつつも、ぼくはその瞬間のみ感じられる普段の何十倍もの客観性を含んだ自分自身とその時間の流れの遅さを好んでいるとも言える。
カナル沿いを歩いていると、普段なら光が差し込むことのないような橋の下まで光が差し込み水面を照らしている、鳥たちが戯れあっている。そこで一枚シャッターを切ると、フィルムが終わってしまった。仕方ないので、そのまま散歩を続ける。次のフィルムを持ち合わせていない時に限って、いい風景に出会う。これはぼくの写真のための時間ではなくて、ステラにとって大切な朝の散歩の時間なのである。彼女の楽しみをぼくが奪ってしまうようなことはしたくない。
帰って、急いでコーヒーを淹れ、グラノーラを食べて日記を書く。フィルムを入れ換え、念の為新しいフィルムと50mmのレンズをポケットに入れ、再び散歩に出た。
人と会話をしているときにしばしば感じることがある。それは、ツッコミを入れるほどではない友人との会話や、初対面の数人が集まるグループでの会話、もしくは会社とかクライアントとかソーシャルな関係性のある数人が家や社外など仕事とは離れた環境で会話をしているときによく起きる。
例えば、「ボートハウスがいかに美しいか」というトピックで会話をしていて、突然ある一人がこれまでみんなが話していたボートハウスについてではなく「同じ通りにある美しい家」の話をし始めた。その人の頭の中では、いや、一般的に人の頭の中では、思考は言葉によって巡り、その人に「美しいボートハウス」は、「美しい家」を思い出させ、その人は自分の美しい家の話をし始めたのだろうと想像できる。それが会話というものだ。深く考えることでもないし、ルールも存在しない。しかし、唐突なので、グループのうちの数人は、「突然、家の話を始めたな」というような表情を見せる。もしくは、たったほんの一瞬なのだが、「?」が空気の中にふわっと香る。そういう瞬間にぼくはつい全員が同じ方向を向いているか確認するかのように「この通りの家のね!」と、全体の話の流れを微調整するような、会話の調子を整えるような相槌をうってしまう。大抵の場合いつも相槌をしてから、この相槌によってぼくがいかに会話というものをつまらなくしているかに後悔をする。みんなが話のトピックが少しズレたことを感じながらも、その後に話す人がどんな風な会話技術を持って、一度脱線した話をどういう風にさらに展開させるか、もしくは帰着させるか、をその時のメンバーの関係性などを踏まえながら楽しむのだが、ぼくは、なぜかトピックが脱線しないように、順序よく話を進めようとするあまりにみんなに「同じ船にのっているよね?ついてきてるよね」と確認するかのように、脱線することを怯えるかのように相槌を打ってしまう。もしくはぼく自身がボートハウスの話をもう少ししたいので脱線しないでほしいと思っているから、トピックをテーブルの上からおろしたくないのかもしれない。
友人ではないような関係の場合には、ぼくはある程度みんなが話すのを聞いてから同じトピックで自分の話をするのだが、大抵の場合、自分が話す頃にはみんなそのトピックには飽きているので、話終わるまでにみんなの飽きた表情を見ながら「あ、今誰も興味なさそうだ、一人語りしているな」と一部で感じながら、途中でやめるわけにもいかないのでただ特にオチのない話をするのである。オチがあればいいのだろうが、笑いにするだけのトピックでない時もあるし、笑いにさえできる会話の技術もそれほど持ち合わせいない。実のところ最後が一番問題なのだろう、面白く話せば飽きることはない。その瞬間が一番苦手と感じつつも、ぼくはその瞬間のみ感じられる普段の何十倍もの客観性を含んだ自分自身とその時間の流れの遅さを好んでいるとも言える。