朝から、ひたすらに文章を書く日になった。随分と集中していたせいか気付けば15時半になっていた。そこから夕暮れまでの間に散歩にでも出ようと思ったが、聖子ちゃんが17時から友人と会うということだったので、散歩には出ず、まだ書けそうだったのでひたすらに書き続けた。
昨晩、buikカナさんからケーキとショートブレッドが届いた。これがないと、クリスマスという感じがしなかった東京の日々を思い出した。カナさんのフルーツケーキなしのクリスマスなんて、唐辛子のない日に作るペペロンチーノみたいなもんだ。オランダまで無償の愛を届けてくれる友人がいることを幸せに感じるが、オンライン経由で感謝の気持ちを伝えてもどうもさっぱりしすぎるなと思った。だからと言って、メッセージで長々と感謝の言葉を伝えるのも奇妙だし、自分が他人に自分の意思を伝える方法というのが電話やオンラインしかないという状況にどうも情けなくなってしまった。もちろん、時間というのは続いているのだから、次に会った時にとか、長い人間関係の中では返礼方法はたくさん存在するのだが、クリスマスというタイムリーなもののせいだろうか。なんだか感謝できないことが情けなくなった。
昨晩、buikカナさんからケーキとショートブレッドが届いた。これがないと、クリスマスという感じがしなかった東京の日々を思い出した。カナさんのフルーツケーキなしのクリスマスなんて、唐辛子のない日に作るペペロンチーノみたいなもんだ。オランダまで無償の愛を届けてくれる友人がいることを幸せに感じるが、オンライン経由で感謝の気持ちを伝えてもどうもさっぱりしすぎるなと思った。だからと言って、メッセージで長々と感謝の言葉を伝えるのも奇妙だし、自分が他人に自分の意思を伝える方法というのが電話やオンラインしかないという状況にどうも情けなくなってしまった。もちろん、時間というのは続いているのだから、次に会った時にとか、長い人間関係の中では返礼方法はたくさん存在するのだが、クリスマスというタイムリーなもののせいだろうか。なんだか感謝できないことが情けなくなった。
今、他人に何かを伝える方法はたくさんあり、メールで、メッセージで、電話で、直接出向いて会って、手紙で、など全ての方法が少しずつ違うニュアンスを含んでいるし、伝えたい内容と相手との関係とを踏まえて、自分の気持ちをきちんと伝えるのにどの方法が正しいだろうかと選択肢が多いし、間違えると不思議な気持ちになる、不思議な気持ちにさせることも多い。例えば、プロポーズは、メールでするのがいいのか直接するのがいいのか、大きなミスをかばってもらった際に謝りをメッセージでするのか直接会うのか手紙か、とか。
だからと言って、何事にも手紙で返事をするというような丁寧すぎる人にはぼくは恐縮しすぎるし、なんでもメッセージだけで大雑把に気のいいお兄ちゃんみたいなのも自分の理想ではない。適材適所でありたい。
感謝をする際に、受け手がどんな気持ちになったかは別として、どうも感謝を伝えた側から主体的に考えた時に自分の感謝の気持ちが「ありがとうございます」だけで濃度が濃くなって伝えられているようには思えないし、そんな風な方法でしかお礼をできないでいる自分の状況もとても歯がゆい。丁寧な手紙をいただくより、「ありがとう」とメッセージが来るより、「わー嬉しいー!」とか言いながら笑顔を見せてくれるだけのほうが伝わることが多い場合もあるのだ。
ふと、i-Phoneを充電しようと思い、家で充電コードを探すも見つからない。家からほとんど出ない生活をしているのに、ものがなくなる。いや、家から出ないもんだから、家を出るとすぐに物を無くしたり忘れたりすると言ってもいいかもしれない。家にいると無くならないので、身の回りのものへの感覚が鈍くなってきているのだろうか。この前も人生で初めて鍵を無くした、結局家の中にあったが。聖子ちゃんも自転車の鍵を無くして自転車に乗れない時間を過ごしている。日本に帰った際に、実家にパソコンの充電コードを忘れてきたのを契機に、マドリッドのホテルにもiPhoneの充電コードを忘れた。そして、ついに聖子ちゃんもブリュッセルに行って帰ってきたら充電コードがなくなっていた。カバンから出していないと言っていたが、カバンから出していなくても無くなる時は無くなると言うことだろう。ついに今、家には友人からの借り物の充電コードしか残っていない。
自分がずっと家の中の快適で体たらくなところにいると、社会の温度の変化にも、周りへの気配りにも、街の小さな変化にも、自分の持ち物にさえも感覚が鈍化していくのだろう。
昔の文章を読んでいると、2014年メルボルンで、毎日一日14時間外で歩き回っていたというような文章を見つけた。
自分がずっと家の中の快適で体たらくなところにいると、社会の温度の変化にも、周りへの気配りにも、街の小さな変化にも、自分の持ち物にさえも感覚が鈍化していくのだろう。
昔の文章を読んでいると、2014年メルボルンで、毎日一日14時間外で歩き回っていたというような文章を見つけた。
「街を歩いていた。毎日、一日14時間ほど歩いた。電車やトラム、自転車には乗らず、細い小道も、街角にある小さな凹みも、塗り直された壁の色の変化も、全てを見逃さないように歩いて街を人を見ていた。どこがどういう雰囲気で、どのような人がどのように生活をしているのか。光がどこから差し込み、どんな風に枯葉が舞うのか、鳥のフンはどこに溜まるのか。すべての文化はとにかく路上から始まると思っていた。」
今の生活との違いに少し危機感とも言えるようなひんやりとした汗を流した。その頃の文章というのは、説明のなさが助長する唐突さをもち、誤字脱字などお構いなしの媚びのない文体があり、気分で書くのをやめるという拍子抜けするようなエンディングを持った文章で、今日1日文章を書きながら考えていた「ぼくが憧れている文章とは」がそこにあった。