今日は過去に自分自身に起きてきた出来事について懐かしさと親密さを持って思い出していた。過去は過去としてはすでに存在せず、過去は今何かを決断する材料として今の自分に影響を与える上に存在する。と言いたいところだが、実際はどうか。過去は、自分の現状の満足度によって美化もされれば、醜悪化もされるような、人間にとってただただ都合の良いものではないか。もし、自分が今満足していれば、「あの過去があったから今の自分があるんだよな」とあの頃の酷い生活さえをも美談にするだろうし、今の自分に満足していなければ「あの酷い過去があったから今こんな風になってしまったのだ」と悲観的に捉える。ぼくはすぐに悲観的になるので、「何事も捉え方です」と多方面からうんざりするくらいに言われるが、それは捉え方だとも言えるが、今自分がどうありたいかどうしたいかによって、物事自体が表情を変えているとも言えるだろう。過去の存在は、能動的に変化するだけではなく、受動的にも変化する。ぼくは、現状に満足していない。一度も自分の身体から幸せが溢れるほどに充満した状態になったことがない。それだから、過去に執着して、記憶とか経験とかそんなことばかり話したり、作品にしようとしているのだろう。あらかじめ言っておくとここでいう過去への執着は、「こう見えて20代の初めは有名なバンドのリードボーカルでアメリカツアーをしていたんだ」とか「原宿でファッションスナップをよく受けていたよ」という守りに入った40代男性のような美談を語るタイプの執着ではなく、記憶とか経験とかの重要性を訴えるタイプの過去への執着だ。どちらも同じだと言えるだろうが、ぼくは前者のタイプの過去への執着は少ない方だと自負している。ぼくは記憶とかをテーマにした作品をもう作りたくないと思っている、記憶にはもううんざりなんだ。
それでも、記憶も経験も、人間の都合よく存在するのは確かだ。実際に経験してきたことに価値があるのか、それはどんな価値があるのかと考えてみると、結局のところ、経験とは、良い経験も悪い経験もどちらともに何かしようとする今の決断の一つの価値基準になっているだろう。では記憶はどうか。記憶なんてものも、自分が今何をしたいか、何に注目しているか、どんな風に世界をみたいか、によってどんどんと捻じ曲げられるとても曖昧なものなのだ。記憶は後から出てきた写真なんかでも形成されるし、時間が経過してから他人から聞かされた話によっても間違った形でも形成される。今、どんな風に目下に広がる生活に眼差しを向けられるか、過去に執着せずに目の前の現象を素直な心で捉えられるか。それが、ぼくが目指すべき姿だ。
今日もネガスキャンをひたすらにする。スキャンをしていると、取るに足らない、一見無意味で理解することをあきらめてしまうような写真を1時間もかけて、現像することが不毛ではないか、とふと思った。それは、部屋の中で右目の端っこで黒い何かを見たような気がした時とよく似た感覚だ。しかし、ぼくは、「ぼくたちの生活は、一見無意味で理解することをあきらめてしまうような出来事の連なりによって構成されていて、そんな出来事の重なりが個人の物語となり、ぼくたちの日々に色をつけていく」と信じているのだから、不毛だろうがそれがぼくが築き上げてきた美的価値観なので仕方ないのだ。それが嫌なら自分の過去振り返り、大きく否定するだろう。
坊主も走る12月、こんなに忙しいのに、くだらないことばかり考えてよっぽど暇なんだろうか、と思っている人も多いかもしれない。自分の中の物陰で静かにこっそりとしていた、いやぼくが見ることを拒むようにしていた自身の「焦り」と「不安」とが街のイルミネーションによって光を照らされているような感覚の中でどうも落ち着かず、あれもこれもやらなければいけない、優先順位なんてものも決める暇がなく、ぼくは巣に水が流れ込んできてパニックになったアリのようにあっちに行ったりこっちに行ったりしている。そのせいで実際の生活はこの文章で読むほどには暇ではないのだが、デン・ハーグでの生活は暗い時間が多すぎて、日照時間と反比例するように考え込む時間は自然と増えていく。時間の感覚さえ掴めなくなり、今日も結局27時まで起きていた。今のぼくの思考の巡り方は師走のそれと同じだ。